人間とは不思議なもので、自分達の土地やアイデンティティを象徴するものとして「花」を選ぶ傾向にあるようです。
家紋にはじまり町、市の花、県の花。これが国単位になると「国花」(国の象徴とされる花)となります。国花の例をあげますと、中国は「牡丹」と「梅」、アメリカは「バラ」と「セイヨウオダマキ」です。
では日本の国花はなんでしょう?
知らなくてもなんとなく分かりますよね、そう「桜」と「菊」です。
菊の愛好家はそれほど多くないかもしれませんが、桜は広く国民に愛され、まさに「日本の花」だと納得の存在感を誇っています。
三月も終わりになると「桜前線北上中!」などとこぞってメディアも囃し立て、いざ開花となれば花の下で宴会に興じる。一種の花に対するこの熱狂ぶりは、他の国にはない現象かもしれませんね。
さてこの「桜」ですが、いつからこんなにも愛されるされる存在になったんでしょう?
古今和歌集。それは醍醐天皇によって905年に編纂されました。
ここでたんに「花」といえば「桜」を指すように、平安中期に桜はすでに花の代表格になっています。
84「久方の ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ」(紀友則)
102「春霞 色のちくさに 見えつるは たなびく山の 花のかげかも」(藤原興風)
ただちょっと時代を上った万葉集、ここで花といえば「梅」であった。なんてよく聞きませんか?
そう言えなくもないのですが、これはちょっと正確ではありません。
古今集と違い、万葉集ではたんに「花」とだけ歌に詠むケースは稀で、基本的に「〇〇の花」と花名を伴って歌われるのがほとんどです。そしてその「〇〇」に入る花名で梅は桜を圧倒しているのです。
「わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも」(大伴旅人)
「雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき児もがも」(大伴家持)
ちなみに万葉集には梅が詠まれた歌がおよそ120首ありますが、桜はその半数40首程度しかありません。
これが古今集の春部をみると「梅」は22首と激減する一方、「桜」が75首と倍増しているのです。※春下の「花」を「桜」と断定した場合
つまり万葉集から古今集、時代に置き換えると奈良・平安初期から平安中期に至る途中で、日本の代表花の交代劇があったということです。
ではこの交代、いったいつ起こったのでしょうか?
実はこれ、ある程度目星がつくのです。
鎌倉時代の説話集「古事談」に以下の文章があります。
「南殿の桜の木は、もとはこれ梅の木なり。桓武天皇、遷都の時、植ゑらるるところなり」
古事談
平城京から平安京へ遷都した際、桓武天皇が紫宸殿に植えさせたのは「梅」でありました。紫宸殿は皇室の儀式等を執り行う大切な空間で、内裏の中で最も目立つ場所です。平安時代の初期はまだ「桜<梅」であったことが伺えます。
ただこの文章、続きがあります。
「しかるに承和年中に及びて枯失す。よって仁明天皇、改めて植えらるるなり。
その後天徳四年、内裏焼亡に焼失し了んぬ。仲の木のもとは吉野山の桜木云々。
よって内裏を造る時、重明親王家の桜木を移し植ゑらる」
紫宸殿の梅は焼失し、再度植え替えしたものの内裏の消失と共にまた焼けてしまった。そのため内裏を再建する際、重明親王の家の桜木を移し植えられた。
紫宸殿に梅ではなく桜が植え替えられた、と明記されています。この時期には間違いなく、日本の代表花は「桜>梅」になっています。
※後にこの桜は「左近の桜」と呼ばれます
ただ文中に出てくる「重明親王」、彼は醍醐天皇の第四皇子なのです。先に述べたように平安中期には「桜>梅」であることは分かっていますから、交代タイミングを見つけたことになりませんね。
そこで、見つけ出したのが以下の文章です。
「承和之代 清涼殿東二三步 有一桜樹。樹老代亦変。代変樹遂枯…」
菅家文草(第五巻)
これは菅原道真、菅家文草第五巻「春 惜桜花 応製一」の詞書の一文です。
ここでは承和之代つまり仁明天皇の時代に、清涼殿に桜が植えられたことが書かれています。そしてそれ以後、枯れてもなお桜の木を植え継いでいったことも。
清涼殿は天皇が日常生活を送る場所、紫宸殿にも匹敵する内裏の重要施設。
ここに桜の木が植えられた「仁明朝の時代」(833~850年)、この時こそが日本の代表花が梅から桜に取って代わったタイミングである!
と、私は思います。
ちなみに仁明天皇、幼い頃から病弱であったと言われています。自らのプライベート空間に梅ではなく桜を選んだのは、春の盛りにあえなく散ってしまう花に、我が身を重ねたからではないでしょうか?
113「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)
この歌は言わずもがな小野小町の名歌ですが、小町は仁明天皇の更衣だったという説があります。小町が歌に詠んだ桜、もしかしたら仁明天皇が植え替えた清涼殿の桜だったかもしれません。そして小町が「花の色は…」と詠んだとき、すでに天皇はお隠れになり天皇を想って「ながめ」していた。
こんな妄想を膨らますと、桜を日本の花たらしめた立役者は仁明天皇と小野小町であり、我々が桜という一本の樹木に「無常」なんていう人生の理を重ねるのは、「花の色は…」の歌が特別な意味を与えたせいかもしれませんね。
(書き手:歌僧 内田圓学)
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