古来より歌人たちは「四季」に深い関心を寄せてきました。古今和歌集をはじめ歴代の勅撰集の巻頭が「春部」から始まる構成をとっていることが、これを雄弁に物語っています。
ところでこの「春」って季節、いつからはじまると思います? 区切りとなる「気温」があるのでしょうか? それとも「春一番」が吹いたら? もしかして「花粉症」の人が増えたらだったりして…
いろんな見解があるかもしれませんが、実はあるところでは端的に定義されています。それが気象庁。国の気象事業を担うこの機関では、春を「3月から5月までの期間」と説明しています。
→気象庁「時に関する用語」
まあ納得感がないこともないですが、正直かなりざっくりしていますね。
だいたいカレンダーを基準にしているなんて、まったく風流じゃありません。
では、冒頭でご紹介した平安歌人。四季の移ろいに深く心を寄せていた彼らは、いったいいつを「春のはじまり」だと捉えていたのでしょう?
今回はいわゆる「勅撰八代集」の巻頭一番の春歌を鑑賞して、それを探ってみたいと思います。
古今和歌集
詞書『ふるとしに春立ちける日よめる』
「年のうちに春はきにけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」(在原元方)
古今和歌集は言わずと知れた初代勅撰和歌集。その巻頭歌の詞書には「春立ける日」とあります、つまり「二十四節気」の「立春」から春が始まっているのですね。ちなみに立春は新暦(太陽暦)のカレンダーで「2月4日」ごろになります。
ところで本歌は詞書に「ふるとし」とあるように「年内立春」の歌です。「時間進行に即して歌を配する」ことに徹底的なこだわった、貫之達選者の強い意思を感じる巻頭歌です。
→関連記事「日本美の幕開け! 年内立春の歌に紀貫之の本気をみた」
後撰和歌集
詞書『正月一日、二条の后の宮にて白きおほうちきをたまはりて』
「ふる雪のみのしろ衣うちきつつ春来にけりと驚かれぬる」(藤原敏行)
後撰集は「天暦の治」で知られる「村上天皇」に命じられ、かの「梨壺の五人」によって編纂されました。その一番歌の詞書には「正月一日」とあります。
つまり後撰集では「旧暦(太陰太陽暦)の正月」を巻頭一番歌に採っているんですね。
ちなみに2018年の場合ですが、旧暦の正月(旧正月)は2月16日になります。旧暦では冬至の日から2回目の新月の日を正月一日に設定しているのです。
古い暦というだけで一緒くたにされがちな「二十四節季」と「旧暦」ですが、それぞれ太陽と月という異なる天体を基準にしている以上、全く違うものです。
ところで詠人の藤原敏行、こちら歌でも知られます。
169「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(藤原敏行)
季節変わり目に驚きっぱなしです。
拾遺和歌集
「春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞て今朝は見ゆらん」(壬生忠岑)
拾遺集は先の勅撰集と違って、編纂のための「和歌所」が置かれませんでした。
以後の和歌停滞期を予感させる事実ですね、これは…
歌は「春立つと」ですから、拾遺集の巻頭も立春を歌ったものだと分かります。
後拾遺和歌集
詞書『正月一日に詠み侍りける』
「いかに寝て起くる朝にいふことぞ昨日を去年と今日を今年と」(小大君)
こ、これは本当に勅撰集の巻頭歌なのか!? いつ起きた朝を区別して言うのだろう、昨日を去年と今日を今年と。言いたいことは分かりますが、風雅の微塵もありません。
この後拾遺集、かの藤原俊成に言わせると…
「ひとへにをかしき風体なりけん」
「たけなども立ち下りにけるなるべし」古来風体抄(藤原俊成)
「滑稽な歌」が多く「歌の品が下がった」と、かなり手厳しい評価、、、 それがこの巻頭歌に示されている、といって過言でないかもしれませんね。
ただ巻頭歌人が女性であることは評価できますね。ちなみに 「寝て」にはじまり「きのふ(夫)」、「ことし(来し)」など、この歌には恋の匂いがするとも言われます。
金葉和歌集(二度本)
「うちなびき春は来にけり山河の岩間のこほり今日やとくらむ」(藤原顕季)
春になって氷が溶ける、とはちょっと平凡な歌かもしれませんね。編纂したのは三度もやり直しを命じられた、平凡を憂う男「源俊頼」です。
→関連記事「源俊頼 ~閉塞感をぶち壊せ! 孤独なチャレンジャー~」
詞花和歌集
詞書『堀河院御時、百首歌奉り侍りけるに、春立つ心をよめる』
「氷ゐし志賀の唐崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く」(大江匡房)
ぐっと斬新な感じがする巻頭歌です。詞花集は先の俊成もわりと高評価を与えています。
「後拾遺の歌よりもたけある歌どもの入りて集のたけもよく見ゆる」
古来風体抄(藤原俊成)
千載和歌集
詞書『春立ちける日よみ侍りける』
「春の来るあしたの原を見わたせば霞も今日ぞ立ち始めける」(源俊頼)
春に霞は平凡な組み合わせですが「あしたの原」と「今日」を対にしてくるあたり、さすが俊頼です。和歌に伝統的な風格が蘇ってきたのが、俊成が編纂したこの千載集です。
新古今和歌集
詞書『春立つ心をよみ侍りける』
「み吉野は山もかすみて白雪の降りにし里に春は来にけり」(藤原良経)
→関連記事「藤原良経 ~天才貴公子が奏でるロンリネス~」
最後の灯消えんとして光を増す。新古今集の編纂を命じたのは後鳥羽院、選者は藤原定家、藤原家隆、飛鳥井雅経などそうそうたるメンバー、そして巻頭歌の詠人は従一位、摂政太政大臣の藤原良経。八代集の最後を飾る新古今集は、そういう輝きを放つ歌集です。
詞花、千載、新古今の巻頭の詞書は共通して「春立つ(立春)」の言葉が見えますね。
さて、八代集の巻頭春歌を鑑賞して分かったのは、歌人達にとっての春の始まりは「立春」次点で「正月」という理解だった、ということです。
以外にも!? 平安歌人たちもカレンダー(暦)を強く意識していたんですね。
まあ実のところ「カレンダーに即して四季歌を詠む」という、ある種無風流なスタイルを打ち立てたのが、これら伝統的な勅撰集だったのです。これは和歌、歌会が宮廷行事に密接に組み込まれていたためでもあります。
ちなみに今も俳句で「季語」が厳しく時候の制約を受けるのもこの名残です。
とはいえ春の始まり、やはり「雪解け水」「野辺の草花」「鳥のさえずり」などなど… 感じるのはカレンダーではなく、自然の中にある! と風流人は意見されるでしょう。もちろん平安歌人にもそいういう人はいまして、彼らは例えばこんな皮肉を歌にしています。
11「春きぬと人はいへどもうぐひすの鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ」(壬生忠峯)
14「うぐひすの谷より出る声なくは春くることを誰かしらまし」(大江千里)
春はカレンダーではない、「うぐいすの初音」で始まるのだ!
さてさて、あなたにとっての「春のはじまり」はいつですか? 花のほころびを前にして、ちょっと考えてみましょう♪
(書き手:歌僧 内田圓学)
和歌の型(基礎)を学び、詠んでみよう!代表的な古典作品に学び、一人ひとりが伝統的「和歌」を詠めるようになることを目標とした「歌塾」開催中! |