三夕の歌 ~秋の夕暮れベスト3~


秋の歌には心に沁みる名歌が多いと思いませんか?
個人的には童謡の「まっかな秋」や「紅葉」などを聞くと、幼少時の思い出も重なって強い哀愁に襲われます。実はこれらの多くの秋の名歌にはある共通点があります。いずれも「秋の夕暮れ」の場面を歌っているということです。

「秋の夕暮れ」。
この場面に哀愁と美を感じてしまうのは、日本人のDNAに刷り込まれているかのようです。

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和歌にも秋の夕暮れを歌った「三夕(さんせき)の歌」という名歌があります。
13世紀(鎌倉時代)初頭に編纂された新古今和歌集に採られた三首で、いずれも三句目を「けり」で切り、五句目を「秋の夕暮れ」で結んでいるのが特徴です。

新361「さびしさはその色としもなかりけり 真木立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮)

『秋の寂しさってのは、その色とは関係なかったんだなぁ~。だって真木(常緑樹)の山の夕暮れもグッとくるもん』

寂連が言う「色」とは赤や黄色の「紅葉の彩り」のことですね。秋の寂寥を誘うのは定番の紅葉ではなく、夕暮れそのものだ! という歌です。寂蓮は杉や檜が群生する「闇深い山」でこの真実を発見しました。
西行や定家というビッグネームに埋もれがちですが、実のところ夕暮れという情景にもっとも感慨を寄せているのはこの寂蓮です。寂蓮の一首がなければ三夕というえり抜きに至らなかったことでしょう。

ちなみに百人一首には、寂連もう一つの「秋の夕暮れ※1」が採られています。
※1 「村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ」(寂連)

新362「心なき身にもあはれ知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行)

『だがしかし、どうしても美しい…… 鴫立つ沢の秋の夕暮れよ』

西行の夕暮れは内容的にまったく単純です。悪くもないがそれほどのものでしょうか? その実この歌は西行が詠んだということ自体に価値があるのです。

「心なき身」とは隠遁の身を卑下し顧みたものです。本来僧とは執着の念から遠くあるべきですが、西行はこれから生涯逃れることができませんでした。花に月、そして鴫立つ沢の夕暮れ。いくら修行を積もうと自ずと心の底から湧き起ってくる妄念、西行にとって「美」とは二律背反の「苦しみ」であったのです。

ちなみに藤原俊成は西行の夕暮れを「御裳濯河歌合」で負に判じ、「千載和歌集」に採ることもしませんでした。出家して釈阿と名乗るも世俗にどっぷりつかった俊成に、この歌にある魔力は到底理解できなかったのです。

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新363「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)

『見渡せば花も紅葉も、、、ない! 浦のボロ屋の秋の夕暮れだ』

おそらく三首のうちでもっとも知られているのがこれではないでしょうか。
言葉だけを追えば『何もない粗末な風景の方が情趣がある』といういわゆる「わび・さび」の表明であり、この「あるがままの美」がわび茶の方面で多大に喧伝されました。
例えば千利休の師匠でありわび茶を大成した「竹野紹鴎」は、この歌こそがわび茶の心であると評しています(「南方録」)。

しかし実のところ、定家の歌は極めてテクニカルです。
上句で『見渡せば花も紅葉も…』と言いかけて『なかりけり』と結ぶ。するとどうでしょう、下句の本来寂れた情景に花紅葉が残像となって重層し、現実を超越した夕暮れの情景を表象する。要するにこの歌はシュルレアリスムなのです。

定家は在原行平の名歌※2や源氏物語※3に描かれる「須磨の浦」をコラージュして、あるようで決して見たことがない夕暮れの情景を描いていたのです。

※2 在原行平の名歌
「わくらばに訪ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ」(在原行平)
「旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風」(在原行平)
「いく度かおなじ寝覚めになれぬらむ苫屋にかかる須磨の浦波」(在原行平)

※3 源氏物語(第十二帖 須磨)
「須磨にはいとど心づくしの秋風に海はすこし遠けれど、行平中納言の関吹き越ゆると言ひけむ」

ご覧のとおり、三夕の中でも「三句切れ」が最も活きているのが定家の一首です。彼は若干二十五歳にしてこの歌を詠んだといいますから、言語遊戯たる和歌の構造というものを若くして聡明に理解してたのでしょう。

さすが和歌の賢人藤原定家、早熟の天才!! と称えるべきでしょうか?
いえむしろ定家は若さゆえ、あれこれのテクニックに頼らなければならなかったのです。寂連とそして西行の独白をもう一度ご覧になってください。心から共感できるのは…、言わずもがなですよね。

※和歌の言語遊戯化は後世、長句(上句)と短句(下句)の付け合い遊び「連歌」や貞門をはじめとする「俳諧」などへ進展していきます

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「三夕の歌」いかがでしたか?
寂連の「観取」、西行の「葛藤」、定家の「付合」。同じ「秋の夕暮れ」というモチーフを用いながらこうも多様であるのかと、和歌の魅力を再認識させてくれたはずです。
いや~、やはり噂にたがわぬ名歌ぞろいでしたね!!

ん? ややこしい話はいらない?
なるほど、おっしゃるとおりです。

鴨長明はこう言っています。

「秋の夕暮の空の景色は、色もなく、声もなし。いづくにいかなる趣あるべしとも思えねど、すずろに涙のこぼるるがごとし。これを、心なき者は、さらにいみじと思はず、ただ眼に見ゆる花・紅葉をぞめではべる。」
無名抄

何だか分かんないけどジーンとくる。
秋の夕暮れの美しさは、そんな美しさですもんね。

余談

ちなみに10世紀初頭に編纂された古今和歌集には「秋の夕暮れ」を詠んだ歌はほとんどありません。「秋の夕暮れ」に抱く寂寥と美の感情、これはいつ誕生したのでしょうか?
それは「三夕」の歌人にヒントがあるようです。

西行に寂連、この二人は共に仏道を歩んだ歌人です。二人が生きた平安末期から鎌倉時代にかけて、仏教では末法思想が信じられていました。末法思想は仏教の歴史観で、1052年を末法元年として釈迦の教えが消滅した「法滅」の時代になり、世の中が乱れるという思想です。そしてその教えが正しいかのように、平安末期は「保元・平治の乱」、「治承・寿永の乱」といった大きな争いが起きました。

釈迦が消滅したのなら、別の仏にすがろうという機運が高まります。これが歴史の授業で学んだ「鎌倉新仏教」の起こりですね。その別の仏の代表が「阿弥陀如来」です。
阿弥陀如来は十億万仏土先の西方にいて、その地こそが極楽浄土とされました。西行の名にある「西」の文字も、この浄土を願ってのことなのでしょう。

万事が朽ち果てる無常なる秋、その遥か西方に沈む夕日に浄土を望む。この言葉にならぬ荘厳な美しさを、寂連は「真木立つ山」、西行は「鴫立つ沢」と合わせ、自分だけの秋として歌に留めたのです。

(書き手:和歌DJうっちー)

→秋の和歌文化祭 11/10(日)9:30~16:30