/三夕の歌 ~秋の夕暮れベスト3~

三夕の歌 ~秋の夕暮れベスト3~

2c0156c0c54e916e5807999e3a995c0d_s
和歌に限らず、秋の歌には心に沁みる名歌が多いと思いませんか?
個人的には童謡の「まっかな秋」や「紅葉」などを聞くと、幼少の思い出もオーバーラップして強い哀愁に襲われます。

実はこれらの多くの秋の名歌には共通点があります。
いずれも「秋の夕暮れ」の場面を歌っているということです。

「秋の夕暮れ」。
この場面に哀愁と美を感じてしまうのは、日本人のDNAに刷り込まれているかのようです。

この記事の音声配信「第五回 三夕の歌」を
Youtubeで聴く
iTunes Podcastで聴く

和歌にも秋の夕暮れを歌った「三夕(さんせき)の歌」という名歌があります。
古今和歌集に採られた三首で、いずれも三句目を「けり」で切り、五句目を「秋の夕暮れ」で結んでいるのが特徴です。

新361「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」(寂蓮)
秋の寂しさってのは、その色とは関係ないんだなあぁ~ だって真木(常緑樹)の山の夕暮れもグッとくるもん。
寂連が言う「色」とは「紅葉の彩り」のことですね。秋の寂寥を誘うのは、定番の紅葉ではなく夕暮れだ! という歌です。

新362「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」(西行)
未熟な俺だけど、いいってのは分かるぜ…  鴫立つ沢の 秋の夕暮れよ。
秋の夕暮れの美しさは人間平等に与えられている、という歌です。
→関連記事「西行 ~出家はつらいよ、フーテンの歌人~

新363「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(藤原定家)
見渡せば花も紅葉も、、、ない! 浦のボロ屋と秋の夕暮れだ。
→関連記事「藤原定家 ~怒れる天才サラリーマン~

定家の歌には「さびしさ」とか「あはれ」といった感情が全くありません。
もしかして定家の「夕暮れ」は、夕暮れとはあんまり関係がなのかもしれませんね。
彼がこの歌で言いたかったのは、本来愛でるべき華やかなもの(花や紅葉)ではなく、貧相なもの(茅葺きボロ屋)にこそ見どころがある! ってことなんじゃないでしょうか。
完全なものではなく、不完全なものにこそ叙情を感じる。いわゆる「わび・さび」ってやつですね。
千利休の師匠でありわび茶を大成した「竹野紹鴎」は、この歌こそがわび茶の心であると評しています(「南方録」)。

また、定家の夕暮れは三句目の切れ字「けり」が最も活きています。
当然あると思っていたが花がない! と上句を切ることで、下句にその余情が残るように感じませんか?
新古今以後、盛況を呈する「連歌」の構成が定家の歌には宿っています。

さて、これら「三夕の歌」には他にも共通点があります。
それは「定型化された秋の風景」を否定し、「独自の秋の美しさ」を見い出している点です。

「定型化された秋の風景」とは、「七草」や「紅葉」など古今和歌集で定義された秋の風景。
新古今を代表するこの三歌人は、300年の間に使い古され手垢のついた秋の風景に新しい風を吹き込んだのです。

このように秋の定番ともいえる夕暮れの情景ですが、意外にも古今和歌集にはほとんど詠まれていません。
「秋の夕暮れ」に抱く寂寥と美の感情はいつ誕生したのでしょうか?
それは「三夕の歌」の歌人にヒントがあるように思えます。

西行に寂連、この二人は共に仏道を歩んだ歌人です。
二人が生きた平安末期から鎌倉時代にかけて、仏教では末法思想が信じられていました。
末法思想は仏教の歴史観で、1052年を末法元年として釈迦の教えが消滅した「法滅」の時代になり、世の中が乱れるという思想です。
そしてその教えが正しいかのように、平安末期は「保元・平治の乱」、「治承・寿永の乱」といった大きな争いが起きました。

釈迦が消滅したのなら、別の仏にすがろうという機運が高まります。
これが歴史の授業で学んだ「鎌倉新仏教」の起こりですね。
その別の仏の代表が「阿弥陀如来」です。
阿弥陀如来は十億万仏土先の西方にいて、その地こそが極楽浄土とされました。
西行の名にある「西」の文字も、この浄土を願ってのことなのでしょう。

万事が朽ち果てる無常なる秋、その遥か西方に沈む夕日に浄土を望む。
この言葉にならぬ荘厳な美しさを、寂連、西行は歌に留めたのです。

さて、「三夕の歌」は新古今和歌集の「秋上」に3首連続(361、362、363)で並んでいますが、実はこれ以外にも新古今和歌集には「秋の夕暮れ」で終わる歌が13首もあるのです。
「三夕の歌」にも匹敵する、別の秋の夕暮れを3首ご紹介しましょう。

新321「眺むれば 衣手涼し ひさかたの 天の河原の 秋の夕暮れ」(式子内親王)
新359「もの思はで かかる露やは 袖におく 眺めてけりな 秋の夕暮れ」(摂政太政大臣良経)
新491「村雨の 露もまた干ぬ 真木の葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ」(寂連)

秋の夕暮れ、みんな歌わずにはいられなかったんですね。

ちなみに鴨長明は歌論「無名抄」でこう書いています。
「秋の夕暮の空の景色は、色もなく、声もなし。いづくにいかなる趣あるべしとも思えねど、すずろに涙のこぼるるがごとし。これを、心なき者は、さらにいみじと思はず、ただ眼に見ゆる花・紅葉をぞめではべる。」

何だか分かんないけどジーンとくる。
秋の夕暮れの美しさは、そんな美しさなんです。

(書き手:和歌DJうっちー)


歌会・和歌教室、和歌bar
 
歌会・和歌教室、和歌bar

平成和歌所では、和歌の基本を学び歌作りに挑戦する「歌会(連歌会)」「和歌教室」や古典ファンなら誰でも楽しめる「交流イベント(和歌bar)」を開催しています。ぜひ一緒に和歌文化を楽しみましょう♪


 
ラジオ和歌マニア

古典和歌を爆笑エンターテイメントとしてトコトン遊び倒していく番組です。 ニンマリ笑って、けっこうタメになる!「和歌DJうっちー」の分かりやすい解説(妄想含む)と日本文化イングリッシュ講師「ろっこ」の鋭い突っ込みでお送りします。


 
「四季を味わうルールブック」~古今和歌集で知る日本文化の基本~

「日本は四季が素晴らしい! 」なんて言葉をよく聞きます。
ではその素晴らしい四季、みなさん堪能していますか?
おそらく大半の方は、春の「お花見」、秋の「紅葉狩り」を楽しむ程度に終始しているかと思います。
しかし本来、日本の四季はもっと多様でもっと深く味わえるものなのです。
それで満足しているなんて、私としては「もったいない」としか言いようがありません。
みなさんが日本の四季を十分に味わえていないのには理由があります。
それは四季ひいては日本文化を鑑賞するための「ルールを知らない」のです。
そして他ならぬこのルールブックこそが「古今和歌集」なのです。

本書では古今和歌集の四季(春夏秋冬)歌に焦点を絞り、分かりやすく解説しています。
これをご覧いただき、日本の四季を堪能するための「基本ルール」を身に付けていただければ幸いです。


 
書籍版「百人一首の歌人列伝」

平成和歌所から本が出ました。その名も「百人一首の歌人列伝」!
百人一首は歌ではなく「歌人を楽しむ」ものです。厳選した百人一首二十歌人の面白エピソードと代表歌をぜひ知ってください。
これを読めば「はるか昔にいた正体不明のオジサン」だった歌人たちが、グッと身近に感じられることでしょう。
そして本書を読み終わった後、あらためて百人一首を一番から眺めてみてください。
王朝の歴史絵巻が紐解かれ、つまらなかったあの百首歌たちが息吹を宿し、断然おもしろく感じられるはずです。