朱鷺の詠草

856
9
令和六年六月
山家郭公
ほととぎす初声聞けば深山辺のみどりの色ぞ深くなりゆく
朱鷺

855
9
令和六年六月
寄海恋
わが恋はありそに寄するしらなみの砕けてあわと消えぬべきかな
朱鷺

835
9
令和六年五月
かく深く人をぞ思ふこともなし恋も恨みも知りぬるのちは
朱鷺
このように深く人のことを思ったことはなかった。恋も恨みも、知ったあとは。「逢ひ見ての後の心にくらぶれば」を想起させる、こころ深い歌。三句目は「こともなき」と連体形にする。

「かく深く人をぞ思ふこともなし恋も恨みも知りぬるのちは」

判者評:このように深く人のことを思ったことはなかった。恋も恨みも、知ったあとは。「逢ひ見ての後の心にくらぶれば」を想起させる、こころ深い歌。三句目は「こともなき」と連体形にする。

785
9
令和六年四月
会不逢恋
いたづらに君が形見の残りては夢なりけりと思ひかねつも
朱鷺
むだに、あなたの形見が残っては、夢かどうかも判断がつかない。妖艶な余韻が残る歌。「思ひかねつも」は万葉調。「形見が残っていては、夢と判断できない」とは象徴性が高くわかりにくさがある。例えば「いたづらに君が香りの残りけむ枕の夢はおもひかねつも」

「いたづらに君が形見の残りては夢なりけりと思ひかねつも」

判者評:むだに、あなたの形見が残っては、夢かどうかも判断がつかない。妖艶な余韻が残る歌。「思ひかねつも」は万葉調。「形見が残っていては、夢と判断できない」とは象徴性が高くわかりにくさがある。例えば「いたづらに君が香りの残りけむ枕の夢はおもひかねつも」

723
9
令和六年二月
夜間梅花
霞立つ春の月夜の梅の花にほひぞ満ちて空をそめける
朱鷺

「霞立つ春の月夜の梅の花にほひぞ満ちて空をそめける」

判者評:

722
9
令和六年二月
後朝恋
しののめのあかぬ別れををしみてはただ泣く君を見るぞかなしき
朱鷺

「しののめのあかぬ別れををしみてはただ泣く君を見るぞかなしき」

判者評:

663
9
令和六年一月
初逢恋
人しれぬ袖のこほりも今宵こそ心かよひてうちとけぬらめ
朱鷺
人知れす涙して凍った袖の氷も、今宵逢瀬を遂げて溶けていくようだ。題の心がはっきりと表れている。内容も明確で迷いがなく、完成度の高い一首。

「人しれぬ袖のこほりも今宵こそ心かよひてうちとけぬらめ」

判者評:人知れす涙して凍った袖の氷も、今宵逢瀬を遂げて溶けていくようだ。題の心がはっきりと表れている。内容も明確で迷いがなく、完成度の高い一首。

577
9
令和五年十一月
忍恋
せきかねて涙に袖は濡れぬとも忍ぶ思ひはつゆももらさじ
朱鷺
堰き止めることができずに涙に袖は濡れるとしても、忍ぶ思いはぜったいに漏らさない。忍び鳴く涙に袖はぐっしょり濡れている、しかしそれでも思いはぜったいに漏らさない。反する気分にはさまれて苦悩する人間の切迫感が詠まれている。「せき」、「もる」とあるので「川」もしくは「水」の縁語で統一してはどうか、たとえば「せきかねて涙の川は流るとも」とか。

「せきかねて涙に袖は濡れぬとも忍ぶ思ひはつゆももらさじ」

判者評:堰き止めることができずに涙に袖は濡れるとしても、忍ぶ思いはぜったいに漏らさない。忍び鳴く涙に袖はぐっしょり濡れている、しかしそれでも思いはぜったいに漏らさない。反する気分にはさまれて苦悩する人間の切迫感が詠まれている。「せき」、「もる」とあるので「川」もしくは「水」の縁語で統一してはどうか、たとえば「せきかねて涙の川は流るとも」とか。

526
9
令和五年十月
初恋
目にみえぬ風の色さへみゆるかな心に深く思ひそむれば
朱鷺
本来目には見えない風に色までも見える、心ふかく思いはじめれば。恋心の深さを、色が濃くなってゆく草花になぞらえるのは1が10になることだとすれば、目に見えない風に色がでるとは0が1なるようなものである。つまりこちらの方が思いがけなさが際立っている。ただ「風の色(恋心)」が見えるのは相手の方ではないだろうか、つまり「目に見えぬ風に色さへ出でにけり」として忍恋としたほうが適切に思える。

「目にみえぬ風の色さへみゆるかな心に深く思ひそむれば」

判者評:本来目には見えない風に色までも見える、心ふかく思いはじめれば。恋心の深さを、色が濃くなってゆく草花になぞらえるのは1が10になることだとすれば、目に見えない風に色がでるとは0が1なるようなものである。つまりこちらの方が思いがけなさが際立っている。ただ「風の色(恋心)」が見えるのは相手の方ではないだろうか、つまり「目に見えぬ風に色さへ出でにけり」として忍恋としたほうが適切に思える。

478
9
令和五年九月
待恋
待つ人は今宵も来ぬと知りながらなほ待ち明かす身をぞうらむる
朱鷺

「待つ人は今宵も来ぬと知りながらなほ待ち明かす身をぞうらむる」

判者評:

456
9
令和五年九月
憂き身さへ照らす光のさやけさに心すみゆく月の夜半かな
朱鷺

377
9
令和五年六月
五月雨
五月雨に花たちばなの匂ふ香を訪ねて来鳴くほととぎすかな
朱鷺
五月雨に花橘が香り、それをほととぎすが訪ねるという情景、和歌を知る人による極めて和歌的な言葉で構成された詠みぶりだ。ただ反面、和歌の詞=歌語に頼っているように思え、作者の思いが弱く感じられる。和歌的な歌であっても、個人的な主題を織り込みたい。たとえば「われのみや花橘を訪ねきて昔を偲ぶ声ぞありける・昔を偲ぶほととぎすの声」

350
9
令和五年五月
更衣
花染めの袖のにほひもうすれゆく今日たちかふる夏衣かな
朱鷺
春の形見として袖に移した匂いも薄れゆく今日、夏の衣に着替える、春への思慕と新しい気分が止揚した素晴らしい歌。「今日たちかふる夏」とはすなわち「立夏」であり、それは「花染めの袖のにほひもうすれゆく日」であり「夏衣にかへる日」である。春と夏が交差する、微妙な感情を見事に捉えている。

321
9
令和五年四月
山吹
吹く風に八重山吹の花にほひ暮れ行く春を惜しむころかな
朱鷺
山吹の花の香りに行く春を思う。時間はとまることがない、だからこそ儚く美しい。見事な古典的一首で声調も麗しい。作者はすでに実力があるので、今後は自分の心「有心」で詠んでほしい

311
9
令和五年三月
花ざかり霞かさねて咲きにほふ四方の桜も明日は散りなむ
朱鷺
まさに満開の花盛りの情景、桜が霞を重ねるようにあたり一面に咲いている。結句を「四方の桜は尽きるまで見む」などともできるが、そうではなく「明日は散りなむ」としたのが妙。花の散るさまがいっそう空しく響く。実情であろうが、一首の構成が練られている

286
9
令和五年二月
霞立つ春の月夜の梅の花にほひぞ満ちて空をそめける
朱鷺
こちらも梅の花が擬人化され、空を染めるとある。「大空は梅のにほいにかすみつつ」も意識にあると思うが、定家が梅の香りをムンムンと充満させたのに対し、こちら歌は「空をそめける」とあっさり締めていて、まだまだ冷たい夜の空気感を残しているように感じる。

264
9
令和五年一月
晩冬
立ちのぼる山のいで湯のゆけぶりに月影かすむ雪の夜かな
朱鷺
実景だろうか? 冬夜の秘湯といった感で、とてもうらやましい体験である。「湯けぶり」という俗っぽい言葉もあるが、これで月影が霞むとあり和歌の型が守られている。いはば雅俗のハイブリッドであり、このような歌こそ現代に望ましい一首である。作者も楽しみながら和歌をよむ域に達したのでないだろうか。

「立ちのぼる山のいで湯のゆけぶりに月影かすむ雪の夜かな」

判者評:実景だろうか? 冬夜の秘湯といった感で、とてもうらやましい体験である。「湯けぶり」という俗っぽい言葉もあるが、これで月影が霞むとあり和歌の型が守られている。いはば雅俗のハイブリッドであり、このような歌こそ現代に望ましい一首である。作者も楽しみながら和歌をよむ域に達したのでないだろうか。

248
9
令和四年十二月
年暮
ゆく年を急ぐ山辺の道たえてあとかたもなく雪ぞふりつむ
朱鷺
典型的な深山辺の冬の景、とてつもない豪雪が思いやられる。しかし「ゆく年を急ぐ」が取ってつけたように聞こえる、例えば「来し方を帰る」などとして冬の景にまとめたい。

224
9
令和四年十一月
初冬
空さゆる冬の朝の笹の葉になほ消えあへずこほる霜かな
朱鷺
凍てつく冬の朝の景、趣向が美しい。霜はすでに凍っているので結句は「残る霜」とした方がいい

210
9
令和四年十月
晩秋
夜を寒み人の恋しくなりぬれど色かはりゆく秋はかなしき
朱鷺
夜が寒いので人恋しくなるが、冷淡にも色あせてゆく秋は悲しい。自分に寄り添ってくれない「秋」という季節への無常感だが、上下の続けがらと「飽き」という言葉も響いて、むなしき恋心をうまく想起させている。

194
9
令和四年九月
仲秋
宮城野の萩に置きたる白露にはかなく宿る秋の月かな
朱鷺
詞、心の両面から王朝和歌をみごとに捉えており、初心者を脱している。「萩の露」と「露に宿る月」は古典的な風景ではあるが、これらが関連しあって歌に物語を生んでいる。つまり「はかなく」は言わなくても醸成されているので「一夜ばかりの月ぞ宿れる」など工夫の余地がある。

170
9
令和四年八月
初秋
ひさかたの天の河原に波立ちてわが待つ君の舟ぞ近づく
朱鷺
七夕伝説の世界を素直に詠んだ歌、申し分ない。ただこの風景にある「波立つ」はなくても成立する。 あえて入れるのなら「不安な心」などの暗示にするか、「立秋」を踏まえて秋の縁語的に構成した方がよい。例えば…「秋くれば天の河原に波立ちてわか待つ君の舟も近づく」

165
9
令和四年七月
盛夏
鳴る神のとどろきし空しづまれば風ぞ涼しき夕立のあと
朱鷺
一群の夕立と夕暮れ、しづまる「音」と涼しき「温度」とが対照された写生的であり技巧的な歌。「とどろきし」はすでに過去の事象となっており、「しづまる」のは必然的、また上の句で夕立が描かれており、結句で再び「夕立のあと」と出してくる必要がない。これらを直すとすれば…『鳴る神のとどろく空はしづまりてやがて涼しき夕暮れの風』

148
9
令和四年六月
五月雨の夜に鳴きわたるほととぎす声ふるはせて誰を恋ふらむ
朱鷺
型に忠実な歌。ほととぎすとは詠み人の暗喩ともいえる。すべてそぎ落とされて個性はないが、耳に心地よい。まずはこのように詠めるようになりたい。