1
7
令和五年二月
梅
ふとさめてたまくらさぐるかたしきの夢ににほへる花のうつり香
竹ぼうき
7
7
令和五年二月
立春
ふと風にたぐひてかをる唐桃や春立つのべに咲きにほふらし
竹ぼうき
37
7
令和五年一月
晩冬
雪さゆる山橘の色に出ずこきもうすきもまことしきもの
竹ぼうき
雪間にひっそりと生ふる山橘の色に忍んでも忍びきれない恋心をあらわす、古来好まれた風景である(あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ)。ここでも山橘の赤き色は「心」の象徴となっている。しかもそれは濃くとも、薄くとも「まことの心」である、というところに発展がある。結句「まことしきもの」が説明調でもったいない。たとえば「雪間わく山橘の色なれば濃くも薄くもかはるものかは」。
「雪さゆる山橘の色に出ずこきもうすきもまことしきもの」
判者評:雪間にひっそりと生ふる山橘の色に忍んでも忍びきれない恋心をあらわす、古来好まれた風景である(あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ)。ここでも山橘の赤き色は「心」の象徴となっている。しかもそれは濃くとも、薄くとも「まことの心」である、というところに発展がある。結句「まことしきもの」が説明調でもったいない。たとえば「雪間わく山橘の色なれば濃くも薄くもかはるものかは」。
46
7
令和四年十二月
雪
野にあればにはかに雲のせまりきてあれよあれよと雪ふりにける
竹ぼうき
「野にあればにはかに雲のせまりきてあれよあれよと雪ふりにける」
判者評:
53
7
令和四年十二月
年暮
袖笠に降りしく雪をとどめては家路をいそぐ山里の暮
竹ぼうき
「笠地蔵」の風景を思い起こす、きわめて日本的山里の年暮の景で、一筆の墨絵になりそうな風景である。「とどめては」には詠歌主体の積極性が思われるため、例えば「袖笠に降りしく雪はひまもなく」はどうか(隙間もなく、時間もなくの二重性が生きる)。
「袖笠に降りしく雪をとどめては家路をいそぐ山里の暮」
判者評:「笠地蔵」の風景を思い起こす、きわめて日本的山里の年暮の景で、一筆の墨絵になりそうな風景である。「とどめては」には詠歌主体の積極性が思われるため、例えば「袖笠に降りしく雪はひまもなく」はどうか(隙間もなく、時間もなくの二重性が生きる)。
68
7
令和四年十一月
初冬
ちぢにそむやまのすそのにおりきたるたづのねをきくはつ冬のころ
竹ぼうき
「ちぢにそむやまのすそのにおりきたるたづのねをきくはつ冬のころ」
判者評:
79
7
令和四年十一月
初冬
ただかぜにこころまかせて振り放(さ)けば冬立つ空にたづ(鶴)わたりゆく
竹ぼうき
長け高い冬の景。人はこういう風景と出会うと、生きていてよかったと思うだろう。趣向を一捻りするとすれば、「風の音に」などと初めて、鶴の鳴き声を関連させるのもあり。
「ただかぜにこころまかせて振り放(さ)けば冬立つ空にたづ(鶴)わたりゆく」
判者評:長け高い冬の景。人はこういう風景と出会うと、生きていてよかったと思うだろう。趣向を一捻りするとすれば、「風の音に」などと初めて、鶴の鳴き声を関連させるのもあり。
82
7
令和四年十月
晩秋
つくいきもしもふるあさのなごりには昔の秋をかきけちつべし
竹ぼうき
「つくいきもしもふるあさのなごりには昔の秋をかきけちつべし 」
判者評:
93
7
令和四年十月
晩秋
たえだえと薪(かまぎ)わる音のわたりたるやまべの秋もふけゆきにけり
竹ぼうき
「砧(ころもうつ)」ならぬ「薪(かまぎ)」わる音で深まる秋を描いた歌。個人的には「砧」よりもこちらの方が情趣を感じる。「わたりたる(連体形)」とあるので、「秋もふけゆく深山辺の秋」とする。
「たえだえと薪(かまぎ)わる音のわたりたるやまべの秋もふけゆきにけり」
判者評:「砧(ころもうつ)」ならぬ「薪(かまぎ)」わる音で深まる秋を描いた歌。個人的には「砧」よりもこちらの方が情趣を感じる。「わたりたる(連体形)」とあるので、「秋もふけゆく深山辺の秋」とする。
116
7
令和四年八月
初秋
吹きむすぶすゑばの露のたまゆらにこぼしてかへす葛の裏風
竹ぼうき
秋の野辺の風景。露の「たま」から「たまゆら」へと繋げたのが見どころの一つ。下の句の接続を「に」ではなく「を」にしたほうが自然。
「吹きむすぶすゑばの露のたまゆらにこぼしてかへす葛の裏風」
判者評:秋の野辺の風景。露の「たま」から「たまゆら」へと繋げたのが見どころの一つ。下の句の接続を「に」ではなく「を」にしたほうが自然。
131
7
令和四年八月
初秋
たまづさの妹がみだれし黒髪をかきやるあさに秋風ぞ吹く
竹ぼうき
「たまづさ」はここでは「手紙」ではなく「妹」に掛かる枕詞。別れの際の男女の妖艶な場面に、秋風を合わせた理由が不明瞭。和歌的に勘繰ると、「秋」に「飽き」が掛かり、じつは男の方の「別れの意志」を暗示させているのではないか。
「たまづさの妹がみだれし黒髪をかきやるあさに秋風ぞ吹く」
判者評:「たまづさ」はここでは「手紙」ではなく「妹」に掛かる枕詞。別れの際の男女の妖艶な場面に、秋風を合わせた理由が不明瞭。和歌的に勘繰ると、「秋」に「飽き」が掛かり、じつは男の方の「別れの意志」を暗示させているのではないか。
142
7
令和四年七月
盛夏
ひもすがら虫の羽の音のたえざるを見ればまがきにひとむらの花
竹ぼうき
一日中絶えない虫の羽の音、この音の先を見れば一群の花があった。俗と雅が対照された歌になっている。瞬間的な音に気付き、思わずみれば〇〇があった…という構成はよくあるが、ずっと音がやまない中で「見れば」とする動作は若干の違和感を抱く。例えば…『たえねどもまがきの花は知らぬ顔なり』
「ひもすがら虫の羽の音のたえざるを見ればまがきにひとむらの花」
判者評:一日中絶えない虫の羽の音、この音の先を見れば一群の花があった。俗と雅が対照された歌になっている。瞬間的な音に気付き、思わずみれば〇〇があった…という構成はよくあるが、ずっと音がやまない中で「見れば」とする動作は若干の違和感を抱く。例えば…『たえねどもまがきの花は知らぬ顔なり』
143
7
令和四年七月
盛夏
いともまれなる蝉の声に
うたたねにふるさとみゆるここちしてふとめさむればせみの鳴きをり
竹ぼうき
詞書に「いともまれなる蝉の声に」とあり、作者は現在蝉の声がめずらしい土地に住んでいることがわかる。そんな地で蝉が鳴き、その声に懐かしさをおぼえたという、素直な懐旧の歌。一首の構成は「橘の匂ふあたりのうたたねは夢もむかしの袖の香ぞする」などの変形であるが、これは多様な場面で使えるということがわかる。「見ゆる」「目覚める」から「鳴き声」つまり視覚的作用の原因が聴覚にあることに違和感がある。それを和らげるとして『耳をすませば蝉ぞなきぬる』など。「をり」は王朝和歌では聞きななれない用法。
「うたたねにふるさとみゆるここちしてふとめさむればせみの鳴きをり」
判者評:詞書に「いともまれなる蝉の声に」とあり、作者は現在蝉の声がめずらしい土地に住んでいることがわかる。そんな地で蝉が鳴き、その声に懐かしさをおぼえたという、素直な懐旧の歌。一首の構成は「橘の匂ふあたりのうたたねは夢もむかしの袖の香ぞする」などの変形であるが、これは多様な場面で使えるということがわかる。「見ゆる」「目覚める」から「鳴き声」つまり視覚的作用の原因が聴覚にあることに違和感がある。それを和らげるとして『耳をすませば蝉ぞなきぬる』など。「をり」は王朝和歌では聞きななれない用法。
150
7
令和四年六月
雨
朝ぼらけ窓のながめに五月蝿らも手すり足すり空あふぐらし
竹ぼうき
「五月蝿(さばえ)」を詠んだ大胆な一首。一茶(やれ打つな蝿が手をすり足をする)を彷彿とさせるが、仰ぐとあり、なぜ外に出られないのかなど想像を掻き立てられて面白い。「朝ぼらけ」でる必要はあるか、おそらく作者の実景が詠まれているのだと思う。また「窓のながめ」が言い足りていないか、窓からの眺めか、そこからの眺めを見て空を仰ぐということ。「ひかりさす」などにしたほうが渇望感が出るのではないか。もうひとついえば、「らし」ではなく「あおぎみる」と言い切っても面白い。
「朝ぼらけ窓のながめに五月蝿らも手すり足すり空あふぐらし」
判者評:「五月蝿(さばえ)」を詠んだ大胆な一首。一茶(やれ打つな蝿が手をすり足をする)を彷彿とさせるが、仰ぐとあり、なぜ外に出られないのかなど想像を掻き立てられて面白い。「朝ぼらけ」でる必要はあるか、おそらく作者の実景が詠まれているのだと思う。また「窓のながめ」が言い足りていないか、窓からの眺めか、そこからの眺めを見て空を仰ぐということ。「ひかりさす」などにしたほうが渇望感が出るのではないか。もうひとついえば、「らし」ではなく「あおぎみる」と言い切っても面白い。
169
7
令和四年五月
立夏
夏さりて夜ひとよまたむしのびねのまてどきこえぬほととぎすはや
竹ぼうき
「夏さりて夜ひとよまたむしのびねのまてどきこえぬほととぎすはや」
判者評:
170
7
令和四年五月
立夏
さよごろもかへすがへすもいまだ見ぬあふちにほへるかたときの夢
竹ぼうき
返す返す(繰り返す)、片時(わずかな間)。願っても願っても叶わない逢瀬が巧みに表現されている。「あふち」には「逢ふ路」が掛けられているだろう。「にほふ」は橘は類型があるが、あふちは関連が薄いため、素直に「あふちうつろふ」としてはどうか
「さよごろもかへすがへすもいまだ見ぬあふちにほへるかたときの夢」
判者評:返す返す(繰り返す)、片時(わずかな間)。願っても願っても叶わない逢瀬が巧みに表現されている。「あふち」には「逢ふ路」が掛けられているだろう。「にほふ」は橘は類型があるが、あふちは関連が薄いため、素直に「あふちうつろふ」としてはどうか
171
7
令和四年五月
立夏
かきさぐるそでのわかれのたまくらに昔を今とにほふたちばな
竹ぼうき
立夏の題であるが、濃厚な恋の歌。見どころは「掻き探る」であるが、濃厚である分情事の直後の印象があり、昔の橘との時間関係がちょっとずれているようにも思える。ところで「昔の人の香」は古来和歌で数多詠みこまれ、名人による名歌も多くこれを詠み込むのはある意味歴史への挑戦である。
「かきさぐるそでのわかれのたまくらに昔を今とにほふたちばな」
判者評:立夏の題であるが、濃厚な恋の歌。見どころは「掻き探る」であるが、濃厚である分情事の直後の印象があり、昔の橘との時間関係がちょっとずれているようにも思える。ところで「昔の人の香」は古来和歌で数多詠みこまれ、名人による名歌も多くこれを詠み込むのはある意味歴史への挑戦である。
178
7
令和四年四月
三月尽
あけそめし潮(うしほ)にかすむ山吹のちりゆく今をとどめてしがな
竹ぼうき
下句の抒情は素晴らしい。ただ『明け初めし潮』とはどういうことか、海辺の風景だが、山吹の花とあわない。
「あけそめし潮(うしほ)にかすむ山吹のちりゆく今をとどめてしがな」
判者評:下句の抒情は素晴らしい。ただ『明け初めし潮』とはどういうことか、海辺の風景だが、山吹の花とあわない。
179
7
令和四年四月
三月尽
とがめじとこよひ夢路のひをともしちるとも待たむ夜桜のもと
竹ぼうき
夢路の灯、現実では決して会えない人、それでも待つ。夜桜の情景が儚さと美しさを演出している。初句『とがめじと』が歌に奥行きをもたせている。
「とがめじとこよひ夢路のひをともしちるとも待たむ夜桜のもと」
判者評:夢路の灯、現実では決して会えない人、それでも待つ。夜桜の情景が儚さと美しさを演出している。初句『とがめじと』が歌に奥行きをもたせている。
200
7
令和四年三月
春興
夢にさへかへらぬ花のうつり香をつと枕(ま)くそでにしのぶ春の夜
竹ぼうき
「つと枕く」とは「枕と枕く(まくらとまく)」か。薫物の香りが移る枕、に一人寝の女が思いしのぶ春の夜らしい妖艶な恋の歌であるが、正確に読み解こうとすると難がある。「夢にさへ」が「夢にまでも変わらず匂う花の移り香を、枕の袖にしのぶ春の夜」語順に違和感がある。例えば…「夢にさへ変わらずにほふ花の香はまくらにしのぶ袖の移り香」
219
7
令和四年二月
立春
春たつをしるやあはゆき梅が枝にいまはかぎりと六つの花寄す
竹ぼうき
「六つの花=雪の結晶」、梅と雪の共演が歌われている。個人的には梅と白雪という表現でいい、「六つの花」というは奇麗なようで、とってつけたような感じも受ける。「あひそひにけり」としてはどうか
「春たつをしるやあはゆき梅が枝にいまはかぎりと六つの花寄す」
判者評:「六つの花=雪の結晶」、梅と雪の共演が歌われている。個人的には梅と白雪という表現でいい、「六つの花」というは奇麗なようで、とってつけたような感じも受ける。「あひそひにけり」としてはどうか
220
7
令和四年二月
立春
うたたねの夢に羽の音めさむれば春立ちぬるととぶくろき蝿
竹ぼうき
すごい取り合わせ、まったく予想できない歌。小野小町のような流れが、結句で異様な黒い蝿で締められる。うぐいすのようは優美さは皆無、なにか迷信のある歌か?
「うたたねの夢に羽の音めさむれば春立ちぬるととぶくろき蝿」
判者評:すごい取り合わせ、まったく予想できない歌。小野小町のような流れが、結句で異様な黒い蝿で締められる。うぐいすのようは優美さは皆無、なにか迷信のある歌か?
221
7
令和四年二月
立春
春来ぬとたれやつげけむあめんどう(アーモンド)まだきも花のさきそめにけり
竹ぼうき
アーモンドは桜と同じバラ科のサクラ属の落葉高木。アーモンドの方がソメイヨシノより早く、2月上旬には咲く、梅と同じような時期か? 告げた「たれ」は誰か? おそらくアーモンドになるだろう、ただ一首の趣向を考えると、「春はまだ遠くむこうにありぬれど」とか「春尽きぬときて、まだ花はある」とかした方が成立する。ちなみに「まだき」と「咲き初める」は類似語となろう
「春来ぬとたれやつげけむあめんどう(アーモンド)まだきも花のさきそめにけり」
判者評:アーモンドは桜と同じバラ科のサクラ属の落葉高木。アーモンドの方がソメイヨシノより早く、2月上旬には咲く、梅と同じような時期か? 告げた「たれ」は誰か? おそらくアーモンドになるだろう、ただ一首の趣向を考えると、「春はまだ遠くむこうにありぬれど」とか「春尽きぬときて、まだ花はある」とかした方が成立する。ちなみに「まだき」と「咲き初める」は類似語となろう