竹ぼうきの詠草

854
7
令和六年六月
かきさぐる袖のわかれの手まくらに昔を今とにほふたちばな
竹ぼうき

853
7
令和六年六月
山家郭公
ほととぎす鳴き響めたり奥山の草の庵にとふ人もがも
竹ぼうき

852
7
令和六年六月
寄草恋
南蛮煙管(ナンバンギセル)に
わが恋は尾花がもとの思ひ草ことくにの野に人知れず咲く
竹ぼうき

809
7
令和六年五月
待恋
おきまよふくれなゐのつゆまつよひの花のあしたをそめるなりけり
竹ぼうき
待宵草は夜を待って咲く花で、一夜だけ咲いて朝には赤くなってしおれてしまいます。そんなわけで、「来るあてのない恋人を待つ宵」の花が紅の露で染まる様子を表してみました。(しおれる様子も想像していただけたら良いなぁと思うのですが、待宵草を知らないとできませんよね。「うつろふ」という言葉を入れられず!)
乱れて置く紅色の露、すなわちわが涙は、 待つ宵が明けた朝の待宵草を赤く染めるのだった。「待宵草」は夜を待って咲く花で、一夜だけ咲いて朝には赤くなってしおれてしまうとのこと、それを踏まえた余情深い歌。上の句の「の」の声調がよくないか、「おきまよふ/涙の露は」としても紅涙を想起できるのではないか。「まつよひの/花のあしたを/そめる」は達磨歌的表現となっているが許容されるか? 若干直して、「おきまよふ涙の露はまつよひのあしたの花をそめるなりけり」。

「おきまよふくれなゐのつゆまつよひの花のあしたをそめるなりけり」

判者評:乱れて置く紅色の露、すなわちわが涙は、 待つ宵が明けた朝の待宵草を赤く染めるのだった。「待宵草」は夜を待って咲く花で、一夜だけ咲いて朝には赤くなってしおれてしまうとのこと、それを踏まえた余情深い歌。上の句の「の」の声調がよくないか、「おきまよふ/涙の露は」としても紅涙を想起できるのではないか。「まつよひの/花のあしたを/そめる」は達磨歌的表現となっているが許容されるか? 若干直して、「おきまよふ涙の露はまつよひのあしたの花をそめるなりけり」。

776
7
令和六年四月
会不逢恋
いくへにも むすびちぎりし さねかづら あきのきたりて たちかるらめや
竹ぼうき
何重にも約束したサネカズラよ、秋がきて断ち刈ったのだろうか。蔦が絡まったサネカズラを男女の「契り」に見立て、それが秋・飽きがきて、関係を切ったのか、とまとめた秀歌。サネカズラに「幾重」はふさわしいか確認。もしかすると「刈る」ではなく「枯る」がふさわしいか、その場合は「あきぞきたりて/たちかるるらむ」※この場合の「たち」は「断ち」ではなく接頭語

「いくへにも むすびちぎりし さねかづら あきのきたりて たちかるらめや」

判者評:何重にも約束したサネカズラよ、秋がきて断ち刈ったのだろうか。蔦が絡まったサネカズラを男女の「契り」に見立て、それが秋・飽きがきて、関係を切ったのか、とまとめた秀歌。サネカズラに「幾重」はふさわしいか確認。もしかすると「刈る」ではなく「枯る」がふさわしいか、その場合は「あきぞきたりて/たちかるるらむ」※この場合の「たち」は「断ち」ではなく接頭語

775
7
令和六年四月
会不逢恋
ふとさめて かへらぬひとを かきさぐる たちばなにほふ かたときのゆめ
竹ぼうき

「ふとさめて かへらぬひとを かきさぐる たちばなにほふ かたときのゆめ」

判者評:

760
7
令和六年三月
散るならば心して散れとつくにへ花ふるさとのにほひとどけよ
竹ぼうき

「散るならば心して散れとつくにへ花ふるさとのにほひとどけよ」

判者評:

759
7
令和六年三月
憚人目恋
朝霧にこもりて咲ける花枇杷のひとめよきても香はかくすまじ
竹ぼうき
朝霧のなかにこもって咲いているビワのように、人目を避けても香は隠さない。月下の梅に匹敵する見事な情景、ビワ(びは)が新鮮だが許容か? 歌のこころはとても挑戦的で、美しい姿をなしている。ただ題には叶わないか。

「朝霧にこもりて咲ける花枇杷のひとめよきても香はかくすまじ」

判者評:朝霧のなかにこもって咲いているビワのように、人目を避けても香は隠さない。月下の梅に匹敵する見事な情景、ビワ(びは)が新鮮だが許容か? 歌のこころはとても挑戦的で、美しい姿をなしている。ただ題には叶わないか。

720
7
令和六年二月
後朝恋
たまゆらの露のわかれのさねかづらたぐりて結ぶ八重九重に
竹ぼうき

「たまゆらの露のわかれのさねかづらたぐりて結ぶ八重九重に」

判者評:

719
7
令和六年二月
夜間梅花
唐梅の風にたぐひて薫る夜はかなはぬ恋に掻き乱れ寝る
竹ぼうき

「唐梅の風にたぐひて薫る夜はかなはぬ恋に掻き乱れ寝る」

判者評:

502
7
令和五年十月
初恋
老いらくの来むと知りつつ花の香に思ひ惑ふも人の性なり
竹ぼうき
老いが来るとは知りつつも、人を恋し思い悩むのは人の性なのだなあ。中年の初恋という着眼が見事で、これは現実でもある。新しい恋は若者の特権ではない。「性(さが)」は単純に「こころ」としてはどうか、またすでに「老いた身」として詠んでも面白い、すなわち「老いてなほ花の色香にまどひけるかはらぬものは人の心ぞ」。

「老いらくの来むと知りつつ花の香に思ひ惑ふも人の性なり」

判者評:老いが来るとは知りつつも、人を恋し思い悩むのは人の性なのだなあ。中年の初恋という着眼が見事で、これは現実でもある。新しい恋は若者の特権ではない。「性(さが)」は単純に「こころ」としてはどうか、またすでに「老いた身」として詠んでも面白い、すなわち「老いてなほ花の色香にまどひけるかはらぬものは人の心ぞ」。

465
7
令和五年九月
待恋
君見むと夜ごとに咲けるまつよひの花のあしたは露もむすばじ
竹ぼうき

449
7
令和五年九月
いざゆかなくまだにもなきつきかげにいにしへうつす広沢の池
竹ぼうき

「いざゆかなくまだにもなきつきかげにいにしへうつす広沢の池」

判者評:

435
7
令和五年八月
秋風・恋
かきやりし髪のなごりもきえゆかむかたしくそでにただあきのかぜ
竹ぼうき
私の髪をかきやりし名残も消えゆくだろう、片敷く袖にあき風が吹いている。こちらも秋に飽きを掛ける恋の歌。「かきやりし髪」には定家の「かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影ぞ立つ」などが想起されるが、「髪のなごり」、「片敷く袖」とイメージが具体的でより生々しい印象を描く。「消えゆかむ」、「ただの秋風」に半端な印象を受ける、ここは「消えにけり片敷く袖に秋風ぞ吹く」などとしたい。

413
7
令和五年七月
雑夏
名におへる高麗うぐひすこゑきけば你好吗(ニーハオマー)とむべあたへかし
竹ぼうき
高麗うぐひすという名があるその声を聞けば、なるほどニーハオマーと聞こえる。「何し負はば」の「高麗うぐひす」バージョン、洒落の聞いた歌である。結句がよくわからない、「むべ/あたへ/かし」と「なるほど、与えたのだなぁ」であろうか。「かし」は終止形につくので、「むべあたふかし」なる。となると歌の意味の上では語順を整える必要がある、すなわち「你好吗(ニーハオマー)鳴くこえきけばむべ高麗のうぐひすの名を負ふるかし」

359
7
令和五年五月
雑夏
花もややなづさひけりな雨もよにやまぬながめを愛でしばかりと
竹ぼうき
「やや」はわずかに、「なづさふ」は水面にただよう、「よに」はたいそう。よって「花がわずかに水面に漂っている、雨もたいそう止まない長雨を愛したとばかりと」。言わんとすることは分かるが、口から先に言葉が出て、歌として整理されていない印象。「雨もよに」と「やまぬ」との連結だが、もしかして「雨もよう」はだろうか、雨模様に眺めするということ。それでも「雨模様」と「長雨」は重複(歌病)となってよくない。結句「愛でしばかりと」の主体がはっきりしない「花」か「雨」か「詠歌主体」か。一番の問題は、夏ではなく春の景であること。趣向は個性的なので、整理すると「散りてなほなづさひけりな桜花やまぬながめを愛づるごとくに」

「花もややなづさひけりな雨もよにやまぬながめを愛でしばかりと」

判者評:「やや」はわずかに、「なづさふ」は水面にただよう、「よに」はたいそう。よって「花がわずかに水面に漂っている、雨もたいそう止まない長雨を愛したとばかりと」。言わんとすることは分かるが、口から先に言葉が出て、歌として整理されていない印象。「雨もよに」と「やまぬ」との連結だが、もしかして「雨もよう」はだろうか、雨模様に眺めするということ。それでも「雨模様」と「長雨」は重複(歌病)となってよくない。結句「愛でしばかりと」の主体がはっきりしない「花」か「雨」か「詠歌主体」か。一番の問題は、夏ではなく春の景であること。趣向は個性的なので、整理すると「散りてなほなづさひけりな桜花やまぬながめを愛づるごとくに」

340
7
令和五年四月
落花
ちりてなほなごりににほふ花をだにおもひねにただあふこともがな
竹ぼうき

331
7
令和五年四月
暮春
花さそふ風のゆくへもしらぬままかすむ春日はいまくれゆきぬ
竹ぼうき
「花さそふ風」に「かすむ春日」と優美な詞がつながり、暮れ行く春の虚しさより美しさを感じる。ただそれだけ、組み合わせの意味を大事にしたい。たとえば「花さそふ風のゆくへも見えぬまま霞のうちに春ぞ暮れるぬ」(※霞を春の行方を隠す存在とした)

318
7
令和五年三月
かりそめのよにきえゆかむ夢路こそいまとわたらめ花の浮橋
竹ぼうき

306
7
令和五年三月
こよひまたつきかげうつす夜桜をせめて夢路のともしびとせむ
竹ぼうき
前歌と同様に月と桜の取り合わせ。月影が夜桜に映るという、風雅を究めた情景である。ただ初句「こよひまた」の必要性と、夜桜に映る月影を灯にする発想は飛躍といえる。たとえば、「月の色をうつしとどめし夜桜の散るぞはかなき君が面影」

「こよひまたつきかげうつす夜桜をせめて夢路のともしびとせむ」

判者評:前歌と同様に月と桜の取り合わせ。月影が夜桜に映るという、風雅を究めた情景である。ただ初句「こよひまた」の必要性と、夜桜に映る月影を灯にする発想は飛躍といえる。たとえば、「月の色をうつしとどめし夜桜の散るぞはかなき君が面影」

299
7
令和五年二月
ふとさめてたまくらさぐるかたしきの夢ににほへる花のうつり香
竹ぼうき

293
7
令和五年二月
立春
ふと風にたぐひてかをる唐桃や春立つのべに咲きにほふらし
竹ぼうき

263
7
令和五年一月
晩冬
雪さゆる山橘の色に出ずこきもうすきもまことしきもの
竹ぼうき
雪間にひっそりと生ふる山橘の色に忍んでも忍びきれない恋心をあらわす、古来好まれた風景である(あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ)。ここでも山橘の赤き色は「心」の象徴となっている。しかもそれは濃くとも、薄くとも「まことの心」である、というところに発展がある。結句「まことしきもの」が説明調でもったいない。たとえば「雪間わく山橘の色なれば濃くも薄くもかはるものかは」。

「雪さゆる山橘の色に出ずこきもうすきもまことしきもの」

判者評:雪間にひっそりと生ふる山橘の色に忍んでも忍びきれない恋心をあらわす、古来好まれた風景である(あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ)。ここでも山橘の赤き色は「心」の象徴となっている。しかもそれは濃くとも、薄くとも「まことの心」である、というところに発展がある。結句「まことしきもの」が説明調でもったいない。たとえば「雪間わく山橘の色なれば濃くも薄くもかはるものかは」。

254
7
令和四年十二月
野にあればにはかに雲のせまりきてあれよあれよと雪ふりにける
竹ぼうき

247
7
令和四年十二月
年暮
袖笠に降りしく雪をとどめては家路をいそぐ山里の暮
竹ぼうき
「笠地蔵」の風景を思い起こす、きわめて日本的山里の年暮の景で、一筆の墨絵になりそうな風景である。「とどめては」には詠歌主体の積極性が思われるため、例えば「袖笠に降りしく雪はひまもなく」はどうか(隙間もなく、時間もなくの二重性が生きる)。

232
7
令和四年十一月
初冬
ちぢにそむやまのすそのにおりきたるたづのねをきくはつ冬のころ
竹ぼうき

221
7
令和四年十一月
初冬
ただかぜにこころまかせて振り放(さ)けば冬立つ空にたづ(鶴)わたりゆく
竹ぼうき
長け高い冬の景。人はこういう風景と出会うと、生きていてよかったと思うだろう。趣向を一捻りするとすれば、「風の音に」などと初めて、鶴の鳴き声を関連させるのもあり。

218
7
令和四年十月
晩秋
つくいきもしもふるあさのなごりには昔の秋をかきけちつべし
竹ぼうき

207
7
令和四年十月
晩秋
たえだえと薪(かまぎ)わる音のわたりたるやまべの秋もふけゆきにけり
竹ぼうき
「砧(ころもうつ)」ならぬ「薪(かまぎ)」わる音で深まる秋を描いた歌。個人的には「砧」よりもこちらの方が情趣を感じる。「わたりたる(連体形)」とあるので、「秋もふけゆく深山辺の秋」とする。

184
7
令和四年八月
初秋
吹きむすぶすゑばの露のたまゆらにこぼしてかへす葛の裏風
竹ぼうき
秋の野辺の風景。露の「たま」から「たまゆら」へと繋げたのが見どころの一つ。下の句の接続を「に」ではなく「を」にしたほうが自然。

169
7
令和四年八月
初秋
たまづさの妹がみだれし黒髪をかきやるあさに秋風ぞ吹く
竹ぼうき
「たまづさ」はここでは「手紙」ではなく「妹」に掛かる枕詞。別れの際の男女の妖艶な場面に、秋風を合わせた理由が不明瞭。和歌的に勘繰ると、「秋」に「飽き」が掛かり、じつは男の方の「別れの意志」を暗示させているのではないか。

158
7
令和四年七月
盛夏
ひもすがら虫の羽の音のたえざるを見ればまがきにひとむらの花
竹ぼうき
一日中絶えない虫の羽の音、この音の先を見れば一群の花があった。俗と雅が対照された歌になっている。瞬間的な音に気付き、思わずみれば〇〇があった…という構成はよくあるが、ずっと音がやまない中で「見れば」とする動作は若干の違和感を抱く。例えば…『たえねどもまがきの花は知らぬ顔なり』

157
7
令和四年七月
盛夏
いともまれなる蝉の声に
うたたねにふるさとみゆるここちしてふとめさむればせみの鳴きをり
竹ぼうき
詞書に「いともまれなる蝉の声に」とあり、作者は現在蝉の声がめずらしい土地に住んでいることがわかる。そんな地で蝉が鳴き、その声に懐かしさをおぼえたという、素直な懐旧の歌。一首の構成は「橘の匂ふあたりのうたたねは夢もむかしの袖の香ぞする」などの変形であるが、これは多様な場面で使えるということがわかる。「見ゆる」「目覚める」から「鳴き声」つまり視覚的作用の原因が聴覚にあることに違和感がある。それを和らげるとして『耳をすませば蝉ぞなきぬる』など。「をり」は王朝和歌では聞きななれない用法。

150
7
令和四年六月
朝ぼらけ窓のながめに五月蝿らも手すり足すり空あふぐらし
竹ぼうき
「五月蝿(さばえ)」を詠んだ大胆な一首。一茶(やれ打つな蝿が手をすり足をする)を彷彿とさせるが、仰ぐとあり、なぜ外に出られないのかなど想像を掻き立てられて面白い。「朝ぼらけ」でる必要はあるか、おそらく作者の実景が詠まれているのだと思う。また「窓のながめ」が言い足りていないか、窓からの眺めか、そこからの眺めを見て空を仰ぐということ。「ひかりさす」などにしたほうが渇望感が出るのではないか。もうひとついえば、「らし」ではなく「あおぎみる」と言い切っても面白い。

131
7
令和四年五月
立夏
夏さりて夜ひとよまたむしのびねのまてどきこえぬほととぎすはや
竹ぼうき

130
7
令和四年五月
立夏
さよごろもかへすがへすもいまだ見ぬあふちにほへるかたときの夢
竹ぼうき
返す返す(繰り返す)、片時(わずかな間)。願っても願っても叶わない逢瀬が巧みに表現されている。「あふち」には「逢ふ路」が掛けられているだろう。「にほふ」は橘は類型があるが、あふちは関連が薄いため、素直に「あふちうつろふ」としてはどうか

「さよごろもかへすがへすもいまだ見ぬあふちにほへるかたときの夢」

判者評:返す返す(繰り返す)、片時(わずかな間)。願っても願っても叶わない逢瀬が巧みに表現されている。「あふち」には「逢ふ路」が掛けられているだろう。「にほふ」は橘は類型があるが、あふちは関連が薄いため、素直に「あふちうつろふ」としてはどうか

129
7
令和四年五月
立夏
かきさぐるそでのわかれのたまくらに昔を今とにほふたちばな
竹ぼうき
立夏の題であるが、濃厚な恋の歌。見どころは「掻き探る」であるが、濃厚である分情事の直後の印象があり、昔の橘との時間関係がちょっとずれているようにも思える。ところで「昔の人の香」は古来和歌で数多詠みこまれ、名人による名歌も多くこれを詠み込むのはある意味歴史への挑戦である。

122
7
令和四年四月
三月尽
あけそめし潮(うしほ)にかすむ山吹のちりゆく今をとどめてしがな
竹ぼうき
下句の抒情は素晴らしい。ただ『明け初めし潮』とはどういうことか、海辺の風景だが、山吹の花とあわない。

121
7
令和四年四月
三月尽
とがめじとこよひ夢路のひをともしちるとも待たむ夜桜のもと
竹ぼうき
夢路の灯、現実では決して会えない人、それでも待つ。夜桜の情景が儚さと美しさを演出している。初句『とがめじと』が歌に奥行きをもたせている。

「とがめじとこよひ夢路のひをともしちるとも待たむ夜桜のもと」

判者評:夢路の灯、現実では決して会えない人、それでも待つ。夜桜の情景が儚さと美しさを演出している。初句『とがめじと』が歌に奥行きをもたせている。

100
7
令和四年三月
春興
夢にさへかへらぬ花のうつり香をつと枕(ま)くそでにしのぶ春の夜
竹ぼうき
「つと枕く」とは「枕と枕く(まくらとまく)」か。薫物の香りが移る枕、に一人寝の女が思いしのぶ春の夜らしい妖艶な恋の歌であるが、正確に読み解こうとすると難がある。「夢にさへ」が「夢にまでも変わらず匂う花の移り香を、枕の袖にしのぶ春の夜」語順に違和感がある。例えば…「夢にさへ変わらずにほふ花の香はまくらにしのぶ袖の移り香」

81
7
令和四年二月
立春
春たつをしるやあはゆき梅が枝にいまはかぎりと六つの花寄す
竹ぼうき
「六つの花=雪の結晶」、梅と雪の共演が歌われている。個人的には梅と白雪という表現でいい、「六つの花」というは奇麗なようで、とってつけたような感じも受ける。「あひそひにけり」としてはどうか

80
7
令和四年二月
立春
うたたねの夢に羽の音めさむれば春立ちぬるととぶくろき蝿
竹ぼうき
すごい取り合わせ、まったく予想できない歌。小野小町のような流れが、結句で異様な黒い蝿で締められる。うぐいすのようは優美さは皆無、なにか迷信のある歌か?

79
7
令和四年二月
立春
春来ぬとたれやつげけむあめんどう(アーモンド)まだきも花のさきそめにけり
竹ぼうき
アーモンドは桜と同じバラ科のサクラ属の落葉高木。アーモンドの方がソメイヨシノより早く、2月上旬には咲く、梅と同じような時期か? 告げた「たれ」は誰か? おそらくアーモンドになるだろう、ただ一首の趣向を考えると、「春はまだ遠くむこうにありぬれど」とか「春尽きぬときて、まだ花はある」とかした方が成立する。ちなみに「まだき」と「咲き初める」は類似語となろう