858
6
令和六年六月
寄海恋
立ちかへり逢ひたしと思ふゆふぐれに深き心をおきつ白波
花野
857
6
令和六年六月
山家郭公
あかつきに鳴くほととぎす奥山の梢はるかに昔や思ふ
花野
810
6
令和六年五月
待恋
待つ人の来ぬゆふぐれに野風ふき小萩の露ぞこぼれぬるかな
花野
恋人が来ない夕暮れに野風が吹いて、小萩の露がこぼれ落ちた。小萩の露でむなしき涙を暗示させる、情景が美しい余情深い歌。「小萩の露」というのが妙。
「待つ人の来ぬゆふぐれに野風ふき小萩の露ぞこぼれぬるかな」
判者評:恋人が来ない夕暮れに野風が吹いて、小萩の露がこぼれ落ちた。小萩の露でむなしき涙を暗示させる、情景が美しい余情深い歌。「小萩の露」というのが妙。
796
6
令和六年四月
会不逢恋
あき風の吹く深草にありし日のことの葉色をかへてゆくらむ
花野
秋風が吹く深草ならぬ、秋風が吹いた深草の宿に、かつての火の言の葉をかえてゆくようだ。あきに「秋」と「飽き」を掛け、ことのはに「言葉」を掛けた技巧的な歌、また「深草」は「年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ」を踏まえ、「かつての里」を暗示させる、練られた歌。「あき風は~色をかへてゆく」ではないか。例えば「深草を/吹くあき風は」
「あき風の吹く深草にありし日のことの葉色をかへてゆくらむ」
判者評:秋風が吹く深草ならぬ、秋風が吹いた深草の宿に、かつての火の言の葉をかえてゆくようだ。あきに「秋」と「飽き」を掛け、ことのはに「言葉」を掛けた技巧的な歌、また「深草」は「年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ」を踏まえ、「かつての里」を暗示させる、練られた歌。「あき風は~色をかへてゆく」ではないか。例えば「深草を/吹くあき風は」
795
6
令和六年四月
会不逢恋
ありし日のことの葉ちぢに色をかへ朝な夕なにあき風ぞ吹く
花野
「ありし日のことの葉ちぢに色をかへ朝な夕なにあき風ぞ吹く」
判者評:
764
6
令和六年三月
憚人目恋
水無瀬川下に通はむつつみにて音には立てじ思ひ死ぬとも
花野
水無瀬川の下にかよふような慎みなので、音には立てない、恋死しようと。ここでも「水無瀬川のつつみ」が成り立つか確認したい。不自然な場合、たとえば「水なれや」とする。
「水無瀬川下に通はむつつみにて音には立てじ思ひ死ぬとも」
判者評:水無瀬川の下にかよふような慎みなので、音には立てない、恋死しようと。ここでも「水無瀬川のつつみ」が成り立つか確認したい。不自然な場合、たとえば「水なれや」とする。
727
6
令和六年二月
後朝恋
かへるさのなごりの空になく鳥はこころ時雨るる朝をしらなむ
花野
「かへるさのなごりの空になく鳥はこころ時雨るる朝をしらなむ」
判者評:
726
6
令和六年二月
夜間梅花
おぼろ夜のほのかにうつる梅の香にむかしの夢の心地こそすれ
花野
「おぼろ夜のほのかにうつる梅の香にむかしの夢の心地こそすれ」
判者評:
696
6
令和六年一月
釈教
十二月二十四日に詠める
冬薔薇(さうび)くれなゐ白のことほげる星光る夜ぞしづかなりける
花野
「冬薔薇(さうび)くれなゐ白のことほげる星光る夜ぞしづかなりける」
判者評:
695
6
令和六年一月
霜
はつ霜を雪とみまがひたはむるる南の国の童べのゑみ
花野
「はつ霜を雪とみまがひたはむるる南の国の童べのゑみ」
判者評:
694
6
令和六年一月
霜
霜枯れのひとつのいろとなりにけるわが宿のあさ訪ふひとぞなき
花野
「霜枯れのひとつのいろとなりにけるわが宿のあさ訪ふひとぞなき」
判者評:
693
6
令和六年一月
雪
み雪ふり思ひ消えぬる山里の草にも木にも花ぞ咲くらむ
花野
「み雪ふり思ひ消えぬる山里の草にも木にも花ぞ咲くらむ」
判者評:
692
6
令和六年一月
初逢恋
うちとけて睦ごとつきずあかつきに見えにけるかななでしこの花
花野
「うちとけて睦ごとつきずあかつきに見えにけるかななでしこの花」
判者評:
691
6
令和六年一月
初逢恋
ゆふぐれの花の香にほふおく山に袖のこほりぞうちとけにける
花野
「ゆふぐれの花の香にほふおく山に袖のこほりぞうちとけにける」
判者評:
690
6
令和六年一月
初逢恋
行く方もなしと歎きし恋こよひ小野の若草むすびつるかな
花野
「行く方もなしと歎きし恋こよひ小野の若草むすびつるかな」
判者評:
689
6
令和六年一月
水鳥
あさ霧にあふみの海のさざれ波みづ鳥うかべあやを織りぬる
花野
「あさ霧にあふみの海のさざれ波みづ鳥うかべあやを織りぬる」
判者評:
688
6
令和六年一月
除夜
冬草も雪のふりつむあらたまの年の終はりに春をまつかな
花野
「冬草も雪のふりつむあらたまの年の終はりに春をまつかな」
判者評:
687
6
令和六年一月
千鳥
ゆふぐれに跡ふみつくる浜ちどり雲のあなたへ恋をわたせよ
花野
686
6
令和六年一月
千鳥
みづ海の小島のあなた見わたせばかたぶく月に千鳥なくなり
花野
685
6
令和六年一月
不遇恋
みなせ川むすばぬ水にわが袖も岸の千草も露けかりけり
花野
684
6
令和六年一月
不遇恋
思ひつつひとり寝ればやゆきつらむ関守のなき夢の通ひ路
花野
683
6
令和六年一月
初逢恋
霞立ちいづくともなくにほふてふこえぬ山ぢの桜花かな
花野
682
6
令和六年一月
時雨
あきはてて時雨もわれもふる里に訪ふひともなき神な月かな
花野
681
6
令和六年一月
時雨
ちりてゆく紅葉のあやをたてぬきに時雨ぞふかき杜にふりける
花野
「ちりてゆく紅葉のあやをたてぬきに時雨ぞふかき杜にふりける」
判者評:
680
6
令和六年一月
時雨
おく山にさだめを知らぬはつしぐれふりみふらずみ錦をりかく
花野
「おく山にさだめを知らぬはつしぐれふりみふらずみ錦をりかく」
判者評:
679
6
令和六年一月
忍恋
忍ぶれど月影もれて露けかる萩の下葉に思ひうつれり
花野
「忍ぶれど月影もれて露けかる萩の下葉に思ひうつれり」
判者評:
678
6
令和六年一月
忍恋
けぶり立つ思ひは雲のはたてへとわびて消えぬる富士の下もえ
花野
「けぶり立つ思ひは雲のはたてへとわびて消えぬる富士の下もえ」
判者評:
677
6
令和六年一月
忍恋
我が恋はかがり火の影うばたまの夜川の底にとどまりてもゆ
花野
「我が恋はかがり火の影うばたまの夜川の底にとどまりてもゆ」
判者評:
676
6
令和六年一月
忍恋
影となり思ひをうつすうばたまの夜のかがり火みづの底ひに
花野
「影となり思ひをうつすうばたまの夜のかがり火みづの底ひに」
判者評:
675
6
令和六年一月
忍恋
うばたまの夜川の底にかがり火のあつきしたもえ我が恋の影
花野
「うばたまの夜川の底にかがり火のあつきしたもえ我が恋の影」
判者評:
658
6
令和六年一月
初逢恋
明くるまで睦言かはしうちとけて見えにけるかななでしこの花
花野
「明くるまで睦言かはしうちとけて見えにけるかななでしこの花」
判者評:
657
6
令和六年一月
初逢恋
行く方もなしと歎きし恋こよひ小野の若草むすびつるかな
花野
行方も知れない嘆いていた恋。それが今宵、小野の若草が結ぶように、恋を結んだ。三句目が特徴的だが歌の声調・リズムが心地よい。小野の若草が「むすぶ」で逢瀬を暗示させるのも独創的である。ただ本来、「草を結ぶ」には祈願(旅、恋愛)の意味が強く、初遇恋の本意で使うには違和感があるか。
「行く方もなしと歎きし恋こよひ小野の若草むすびつるかな」
判者評:行方も知れない嘆いていた恋。それが今宵、小野の若草が結ぶように、恋を結んだ。三句目が特徴的だが歌の声調・リズムが心地よい。小野の若草が「むすぶ」で逢瀬を暗示させるのも独創的である。ただ本来、「草を結ぶ」には祈願(旅、恋愛)の意味が強く、初遇恋の本意で使うには違和感があるか。
632
6
令和五年十二月
羇旅
あさ霧にあふみの海のさざれ波みづ鳥うかべあやを織りぬる
花野
631
6
令和五年十二月
除夜
冬草も雪にふりぬるあらたまの年の終はりに春をまつかな
花野
630
6
令和五年十二月
千鳥
ゆふぐれに跡ふみつくる浜ちどり雲のあなたへ恋をわたせよ
花野
629
6
令和五年十二月
千鳥
みづ海の小島のあなた見わたせばかたぶく月に千鳥なくなり
花野
628
6
令和五年十二月
不遇恋
みなせ川むすばぬ水にわが袖も岸の千草も露けかりけり
花野
627
6
令和五年十二月
不遇恋
思ひつつひとり寝ればやゆきつらむ関守のなき夢の通ひ路
花野
626
6
令和五年十二月
不遇恋
霞立ちいづくともなくにほふとふこえぬ山ぢの桜花かな
花野
「霞立ちいづくともなくにほふとふこえぬ山ぢの桜花かな」
判者評:
625
6
令和五年十二月
不遇恋
思ひつつひとり寝ればやゆきつらむ関守のなき夢の通ひ路
花野
「思ひつつひとり寝ればやゆきつらむ関守のなき夢の通ひ路」
判者評:
624
6
令和五年十二月
不遇恋
霞立ちいづくともなき香りするこえぬ山ぢの桜花かな
花野
霞が立ってどこからともなく香りがする、まだ越えていない山路には桜花があるのだろう。こちらもまだに見む人を霞の奥の山桜に喩えた。このようなレトリックが散見されるということは、本会のレベルが随分上がってきた証だと思う。ただこの歌は、二句目が説明的でもったいない。たとえば「越えられぬ山路に立てる霞には奥こそ花の盛りなるらめ」とか
「霞立ちいづくともなき香りするこえぬ山ぢの桜花かな」
判者評:霞が立ってどこからともなく香りがする、まだ越えていない山路には桜花があるのだろう。こちらもまだに見む人を霞の奥の山桜に喩えた。このようなレトリックが散見されるということは、本会のレベルが随分上がってきた証だと思う。ただこの歌は、二句目が説明的でもったいない。たとえば「越えられぬ山路に立てる霞には奥こそ花の盛りなるらめ」とか
562
6
令和五年十一月
初冬
あきはてて時雨もわれもふる里に訪ふひとのなき神な月かな
花野
「あきはてて時雨もわれもふる里に訪ふひとのなき神な月かな」
判者評:
561
6
令和五年十一月
紅葉
散りてゆく紅葉のあやをたてぬきに時雨ぞ深き杜にふりける
花野
「散りてゆく紅葉のあやをたてぬきに時雨ぞ深き杜にふりける」
判者評:
560
6
令和五年十一月
紅葉
奥山にさだめを知らぬはつしぐれふりみふらずみ錦をりかく
花野
「奥山にさだめを知らぬはつしぐれふりみふらずみ錦をりかく」
判者評:
559
6
令和五年十一月
忍恋
けぶり立つ思ひは雲のはたてへとわびて消えぬる富士の下もえ
花野
「けぶり立つ思ひは雲のはたてへとわびて消えぬる富士の下もえ」
判者評:
558
6
令和五年十一月
忍恋
春霞秋霧の立つ奥山の花紅葉のいろ知る人のなき
花野
「春霞秋霧の立つ奥山の花紅葉のいろ知る人のなき」
判者評:
557
6
令和五年十一月
忍恋
忍ぶれど月影もれて露けかる萩の下葉に思ひうつれり
花野
「忍ぶれど月影もれて露けかる萩の下葉に思ひうつれり」
判者評:
556
6
令和五年十一月
忍恋
わが恋はかがり火の影うばたまの夜川の底の水に燃えけり
花野
わたしの恋は、かがり火の影である。まっくらな夜の川の底の水に燃えている。ひそやかな恋を川底に映るかがり火の影に喩えた。二句切れ、句またがりと構成が巧みで調べに妙がある。「水に燃える」は素直でないか、たとえば「わが恋はかがり火の影うばたまの夜水底ふかく見えで燃えけり・ほのかにぞ燃ゆ」
「わが恋はかがり火の影うばたまの夜川の底の水に燃えけり」
判者評:わたしの恋は、かがり火の影である。まっくらな夜の川の底の水に燃えている。ひそやかな恋を川底に映るかがり火の影に喩えた。二句切れ、句またがりと構成が巧みで調べに妙がある。「水に燃える」は素直でないか、たとえば「わが恋はかがり火の影うばたまの夜水底ふかく見えで燃えけり・ほのかにぞ燃ゆ」
510
6
令和五年十月
羇旅
天つ空さ渡る月と草枕夕のはたてに人をしぞ思ふ
花野
「天つ空さ渡る月と草枕夕のはたてに人をしぞ思ふ」
判者評:
509
6
令和五年十月
雁
玉づさをかけて鳴きぬる初雁に萩の下葉ぞ色づきにける
花野
「玉づさをかけて鳴きぬる初雁に萩の下葉ぞ色づきにける」
判者評:
508
6
令和五年十月
菊
うつろひて照れる千歳のかざしとは老いせぬ秋の露の白菊
花野
「うつろひて照れる千歳のかざしとは老いせぬ秋の露の白菊」
判者評:
507
6
令和五年十月
菊
うつろひてなほにほふとき月影に色わきがたき白露の菊
花野
「うつろひてなほにほふとき月影に色わきがたき白露の菊」
判者評:
506
6
令和五年十月
初恋
早き瀬の激つ岩なみ行く水のまにまにあるはわが恋ならむ
花野
「早き瀬の激つ岩なみ行く水のまにまにあるはわが恋ならむ」
判者評:
505
6
令和五年十月
初恋
雲間よりはつかに漏るる月影に見えし人こそ恋しかりけれ
花野
「雲間よりはつかに漏るる月影に見えし人こそ恋しかりけれ」
判者評:
504
6
令和五年十月
初恋
吹く風にきくの白つゆ下照るを消ぬべき恋のしるしとぞ思ふ
花野
吹いてくる風に菊の白露が光っているのを、消えるであろう恋のしるしと思う。複雑に構成された一首である。いまは下照る白露であるが風が吹いてきて、それはやがて消えるであろう、という儚さすなわち初恋でありながら破綻を予感するという悲劇が歌われている。
「吹く風にきくの白つゆ下照るを消ぬべき恋のしるしとぞ思ふ」
判者評:吹いてくる風に菊の白露が光っているのを、消えるであろう恋のしるしと思う。複雑に構成された一首である。いまは下照る白露であるが風が吹いてきて、それはやがて消えるであろう、という儚さすなわち初恋でありながら破綻を予感するという悲劇が歌われている。
464
6
令和五年九月
待恋
雲間よりうつろふ月の影こぼれ萩の下葉ぞ露けかりける
花野
448
6
令和五年九月
月
秋の風吹くも吹かぬもひさかたの月の光ぞさやけかりける
花野
「秋の風吹くも吹かぬもひさかたの月の光ぞさやけかりける」
判者評:
439
6
令和五年八月
秋風・荻
うち吹ける風は白くもいろどりを萩の葉に告ぐ秋の立つ日に
花野
白一色である秋風がたくさんの彩りに染まる萩の葉に秋の到来を告げる、この立秋の日に。「白秋」という言葉があるように、五行説で秋は白とされる。その秋風が白だけでなく赤紫といった彩りに咲く萩の花に吹き付けるという色彩対比の趣向。ちなみに古今集には「白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉を千々にそむらむ」という同趣の歌がある。初句「うち」は接頭語だが耳になじまない、また「萩の葉に告ぐ秋の立つ日に」は若干説明調となっている、声調もたどたどしいか。たとえば「秋を告ぐ白き風こそ渡るめれ籬に彩(いろ)ふ萩の花かな」
414
6
令和五年七月
七夕
恋ひ恋ひてとしひとたびの星合ひにそよとな吹きそ秋のはつかぜ
花野
恋焦がれてようやく逢えるという年に一度の逢瀬の夜に、「そよ」と吹いてくれるな、秋の初風よ。初秋の風物たる七夕をその風景とともにみごとに詠んだ歌である。「そよ」は風の擬音だが、「そうよ」という同意の意味が含まれ歌もこれを踏まえるが、意味が読めない(秋に「飽き」が掛かっているということか)。たとえば「逢はむとぞ願ふこころのかよひなばそよと吹かまし秋の初風」などとしたい。
389
6
令和五年六月
五月雨
五月雨の明けの空へとふたへみへ夏をうつせる青もみぢかな
花野
378
6
令和五年六月
五月雨
訪ふ人のなき五月雨の深草に山ほととぎすしげく鳴くなり
花野
五月雨によってか草が茂り、誰も訪い来ない深草の宿を、いっそうわびしく感じささせるようにほととぎすが鳴いている。独創性もあり見事な一首である。細かいことをいうようだが、「深草」で「侘しい宿」を想起させる場合、必ず「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」が想起され、秋の景を感じさせるのは注意である。
354
6
令和五年五月
卯花
卯の花の垣根しののに濡れそぼちほととぎすつと鳴きてさ渡る
花野
卯花がしっとりとびっしょり濡れて、ほととぎすが急に鳴き渡る。こちらも上・下句で風景が取り合わせの関係になっている。ただこの関連性が読みづらい、和歌的には単なる景の取り合わせは好まれず、なんらかの因果をつけたい。また「しのの」と「濡れそぼつ」は重複(歌病)してるといえる。よって「ほととぎす鳴きて渡れるわが宿に卯の花さへも濡れそぼつかな」(ほととぎすの鳴き声で、私だけでなく卯花まで濡れてしまった)
326
6
令和五年四月
落花
うつろふと知るや知らずや夕風の空波立ちて花ぞちりける
花野
夕暮れの落花の情景。 花よ知っているのか? この夕暮れはそれだけでなく春の終わりであることを、一日の終わりと春の終わりが重なって無常感を強くしている。であれば初句「うつろふと」より「暮れぬると」にしてはどうか。また「夕風の空波たちて」が混み入った印象を受ける、直すと「夕暮れに波と見るまで散る花の流れて早き時にぞありける」(※「波」に意味を持たせるため、縁語「流れ」を加えた)
300
6
令和五年三月
桜
かすみつつ桜柳の錦へと雲ゐぞ春の物語りする
花野
「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」を念頭に置くか。霞・桜・柳と春の情景が組み合わさった美しい歌。ただ雲居に加え、見立ての錦に物語と、名詞が多く煩雑になっている。雲居が春の物語する、というのもわかりにくい。シンプルに再構成するならば、「春くれば柳桜の花集ひ人に知られぬ物語する」
296
6
令和五年二月
梅
白雪のふる梅が枝にうぐひすの来ゐて鳴くなり春の立つ日に
花野
291
6
令和五年二月
立春
春やとき花やおそきとうぐひすの鳴きぬる朝に雪ぞふりける
花野
278
6
令和五年二月
立春
差したればあらたまの春となりにけるほのあをき瓶の松のおほ枝
花野
瓶に飾った松のお飾り、晴れやかな正月の景色である。「差したれば」に、飾り付けたことで春を実感するのだ、という作者の実感がこもっている。ところで瓶の色は「あを」だろうか、透明だろうか? 三句目は「なりにけり」として区切った方がリズムが生まれる。
270
6
令和五年一月
晩冬
さえわたる池の底ひにとぢられしすがたをてらす冬の夜の月
花野
266
6
令和五年一月
晩冬
さゆるほどさやけく光る月かげに氷とみゆる艶ぞありける
花野
いたってシンプルな歌ながら、まことに難しい一首である。凍りつくほどの清き月影、それで氷ができるのは順当だが、氷と見える「艶」があると結ぶ。いはば「清浄」と相対する「艶」が対照されている。その艶とはなんなのか、額面どおり氷の美しさなのか。私はここに死に化粧さえ想像してしまう。
「さゆるほどさやけく光る月かげに氷とみゆる艶ぞありける」
判者評:いたってシンプルな歌ながら、まことに難しい一首である。凍りつくほどの清き月影、それで氷ができるのは順当だが、氷と見える「艶」があると結ぶ。いはば「清浄」と相対する「艶」が対照されている。その艶とはなんなのか、額面どおり氷の美しさなのか。私はここに死に化粧さえ想像してしまう。
255
6
令和四年十二月
雪
春ならば花とぞ見ましみ吉野の山をおほへるつごもりの雪
花野
243
6
令和四年十二月
雪
ひさかたの天霧る雪のふりぬるをあなたに舞へる花とこそ見れ
花野
来るべき春を予感させる雪の歌、これぞ和歌の美しさといえる。「雪のふりぬる」という連用修飾語が若干耳につく。例えば「ひさかたの天霧る雪は遥かなる」として下句へ繋げたい。
236
6
令和四年十一月
初冬
月影は冬ぞさやけさまさりける誰(た)もおとづれぬみ山にありて
花野
228
6
令和四年十一月
初冬
冬ごもりせる雪間にて草も木も春さく花の夢をみるらし
花野
「雪降れば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける(紀貫之)」を踏まえる。貫之詠では「雪」と「草と木」は別物だが、ここでは「草も木」は自分たちの未来の姿を夢で見ている。
217
6
令和四年十月
晩秋
もみぢ葉の錦となれる竜田川わが恋ひとつちぢにうつせり
花野
「もみぢ葉の錦となれる竜田川わが恋ひとつちぢにうつせり 」
判者評:
206
6
令和四年十月
晩秋
うつろふとは露も思はじもみぢ葉の深むる色に人ぞ恋ひしき
花野
紅葉の風景に恋を重ねた歌。「露」と副詞の「つゆ」を掛け、紅葉の色に人の心を見る巧みさが見える。初句は「うつろふと」で構わない、「露は思はじ」だと「露も思わなかった」という意味が出てくるので、「つゆ」は副詞用法を主として音の上で「露」を響かせた方がよい、よって「つゆ思はれぬ」となる。また上句で「心変わりするとは決して思わなかった」として、下句で「色が深くなった(さらに恋しい)」とあるので違和感がある。よって下句を「深き色こそむかしなりけれ」とか。
200
6
令和四年九月
仲秋
月影のつつめる宵にありたればうつつの争ひ消ゆる心地す
花野
178
6
令和四年八月
初秋
ひさかたの光にゆるる秋草とたはむれちぢのささめききかむ
花野
下の句を読みやすくすると「戯れ千々のささめき聞かむ」。「ひさかたの光」と「千々」で月を詠んでいると想像されるが、主題である「月」は明確に詠み込むべき。
167
6
令和四年七月
盛夏
三つ四つ蛍飛びかひたそかれの川辺ほのかに夏を点しぬ
花野
穏やかで懐かしき夏の風景。蛍たちが黄昏の川辺にやんわりと夏を「点しぬ(とぼしぬ)」す。詠んでやろうではなく、穏やかに心のままに口をついて出てきたような、そんな優しい夏の風景だ。
143
6
令和四年六月
雨
草と木のなほもあをめば五月雨に乱るる思ひぞ澄みてくるらむ
花野
草と木が青むのと、五月雨に乱れる思い、それが澄んでくるとう、一見してわかりづらい歌。「乱れるるおもい・ぞ」は字余り。
142
6
令和四年六月
雨
五月雨にひたと鳴きけるほととぎす今は昔の恋語るごと
花野
歌語としてのほととぎすが美しく詠まれている。一首の見どころは「ひたと(ぴったりと)」で、五月雨に寄り添うようにほととぎすが鳴くという物憂げな風景が描かれている。「恋語るごと」が「五月雨にひたと」鳴くほととぎすを曖昧にしている。ほととぎすが、夢語るごと鳴くように聞こえる。そういう狙いかもしれないが、「五月雨ひたと」が弱くなるし、誰と恋を語っているかわからない。また「と」が重なって声調の上でも落ち着かない。「今は昔の夢の枕に」などで締めて、煩悶とする恋の思いを想像させるのでよいではないか。
133
6
令和四年五月
立夏
夏の夜の夢のかよひぢうちへば花橘の香ぞにほひける
花野
こちらも「昔の人の香」の挑戦である。三句目「うち思へば」が字余りとなっているので避けたい。「うち」も取ってつけたような印象。「来る人は」などしてみたい。
132
6
令和四年五月
立夏
藤波の風とわたれるほととぎす待つ汝のもとへこゑをつたへよ
花野
「ほととぎす」と「藤波の風」というユニークな取り合わせ。「門渡れる」か「と、渡れる」か? いずれにしても「渡るる」。「門渡るる」の場合、風は不要。「汝」は「お前」といった意味、「我(あ)を待つ妻に」と分かりやすくしてはどうか。