4
6
令和五年二月
梅
白雪のふる梅が枝にうぐひすの来ゐて鳴くなり春の立つ日に
花野
9
6
令和五年二月
立春
春やとき花やおそきとうぐひすの鳴きぬる朝に雪ぞふりける
花野
22
6
令和五年二月
立春
差したればあらたまの春となりにけるほのあをき瓶の松のおほ枝
花野
瓶に飾った松のお飾り、晴れやかな正月の景色である。「差したれば」に、飾り付けたことで春を実感するのだ、という作者の実感がこもっている。ところで瓶の色は「あを」だろうか、透明だろうか? 三句目は「なりにけり」として区切った方がリズムが生まれる。
30
6
令和五年一月
晩冬
さえわたる池の底ひにとぢられしすがたをてらす冬の夜の月
花野
34
6
令和五年一月
晩冬
さゆるほどさやけく光る月かげに氷とみゆる艶ぞありける
花野
いたってシンプルな歌ながら、まことに難しい一首である。凍りつくほどの清き月影、それで氷ができるのは順当だが、氷と見える「艶」があると結ぶ。いはば「清浄」と相対する「艶」が対照されている。その艶とはなんなのか、額面どおり氷の美しさなのか。私はここに死に化粧さえ想像してしまう。
「さゆるほどさやけく光る月かげに氷とみゆる艶ぞありける」
判者評:いたってシンプルな歌ながら、まことに難しい一首である。凍りつくほどの清き月影、それで氷ができるのは順当だが、氷と見える「艶」があると結ぶ。いはば「清浄」と相対する「艶」が対照されている。その艶とはなんなのか、額面どおり氷の美しさなのか。私はここに死に化粧さえ想像してしまう。
45
6
令和四年十二月
雪
春ならば花とぞ見ましみ吉野の山をおほへるつごもりの雪
花野
「春ならば花とぞ見ましみ吉野の山をおほへるつごもりの雪」
判者評:
57
6
令和四年十二月
雪
ひさかたの天霧る雪のふりぬるをあなたに舞へる花とこそ見れ
花野
来るべき春を予感させる雪の歌、これぞ和歌の美しさといえる。「雪のふりぬる」という連用修飾語が若干耳につく。例えば「ひさかたの天霧る雪は遥かなる」として下句へ繋げたい。
「ひさかたの天霧る雪のふりぬるをあなたに舞へる花とこそ見れ」
判者評:来るべき春を予感させる雪の歌、これぞ和歌の美しさといえる。「雪のふりぬる」という連用修飾語が若干耳につく。例えば「ひさかたの天霧る雪は遥かなる」として下句へ繋げたい。
64
6
令和四年十一月
初冬
月影は冬ぞさやけさまさりける誰(た)もおとづれぬみ山にありて
花野
「月影は冬ぞさやけさまさりける誰(た)もおとづれぬみ山にありて」
判者評:
72
6
令和四年十一月
初冬
冬ごもりせる雪間にて草も木も春さく花の夢をみるらし
花野
「雪降れば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける(紀貫之)」を踏まえる。貫之詠では「雪」と「草と木」は別物だが、ここでは「草も木」は自分たちの未来の姿を夢で見ている。
「冬ごもりせる雪間にて草も木も春さく花の夢をみるらし」
判者評:「雪降れば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける(紀貫之)」を踏まえる。貫之詠では「雪」と「草と木」は別物だが、ここでは「草も木」は自分たちの未来の姿を夢で見ている。
83
6
令和四年十月
晩秋
もみぢ葉の錦となれる竜田川わが恋ひとつちぢにうつせり
花野
「もみぢ葉の錦となれる竜田川わが恋ひとつちぢにうつせり 」
判者評:
94
6
令和四年十月
晩秋
うつろふとは露も思はじもみぢ葉の深むる色に人ぞ恋ひしき
花野
紅葉の風景に恋を重ねた歌。「露」と副詞の「つゆ」を掛け、紅葉の色に人の心を見る巧みさが見える。初句は「うつろふと」で構わない、「露は思はじ」だと「露も思わなかった」という意味が出てくるので、「つゆ」は副詞用法を主として音の上で「露」を響かせた方がよい、よって「つゆ思はれぬ」となる。また上句で「心変わりするとは決して思わなかった」として、下句で「色が深くなった(さらに恋しい)」とあるので違和感がある。よって下句を「深き色こそむかしなりけれ」とか。
「うつろふとは露も思はじもみぢ葉の深むる色に人ぞ恋ひしき」
判者評:紅葉の風景に恋を重ねた歌。「露」と副詞の「つゆ」を掛け、紅葉の色に人の心を見る巧みさが見える。初句は「うつろふと」で構わない、「露は思はじ」だと「露も思わなかった」という意味が出てくるので、「つゆ」は副詞用法を主として音の上で「露」を響かせた方がよい、よって「つゆ思はれぬ」となる。また上句で「心変わりするとは決して思わなかった」として、下句で「色が深くなった(さらに恋しい)」とあるので違和感がある。よって下句を「深き色こそむかしなりけれ」とか。
100
6
令和四年九月
仲秋
月影のつつめる宵にありたればうつつの争ひ消ゆる心地す
花野
「月影のつつめる宵にありたればうつつの争ひ消ゆる心地す」
判者評:
122
6
令和四年八月
初秋
ひさかたの光にゆるる秋草とたはむれちぢのささめききかむ
花野
下の句を読みやすくすると「戯れ千々のささめき聞かむ」。「ひさかたの光」と「千々」で月を詠んでいると想像されるが、主題である「月」は明確に詠み込むべき。
「ひさかたの光にゆるる秋草とたはむれちぢのささめききかむ」
判者評:下の句を読みやすくすると「戯れ千々のささめき聞かむ」。「ひさかたの光」と「千々」で月を詠んでいると想像されるが、主題である「月」は明確に詠み込むべき。
133
6
令和四年七月
盛夏
三つ四つ蛍飛びかひたそかれの川辺ほのかに夏を点しぬ
花野
穏やかで懐かしき夏の風景。蛍たちが黄昏の川辺にやんわりと夏を「点しぬ(とぼしぬ)」す。詠んでやろうではなく、穏やかに心のままに口をついて出てきたような、そんな優しい夏の風景だ。
「三つ四つ蛍飛びかひたそかれの川辺ほのかに夏を点しぬ」
判者評:穏やかで懐かしき夏の風景。蛍たちが黄昏の川辺にやんわりと夏を「点しぬ(とぼしぬ)」す。詠んでやろうではなく、穏やかに心のままに口をついて出てきたような、そんな優しい夏の風景だ。
157
6
令和四年六月
雨
草と木のなほもあをめば五月雨に乱るる思ひぞ澄みてくるらむ
花野
草と木が青むのと、五月雨に乱れる思い、それが澄んでくるとう、一見してわかりづらい歌。「乱れるるおもい・ぞ」は字余り。
「草と木のなほもあをめば五月雨に乱るる思ひぞ澄みてくるらむ」
判者評:草と木が青むのと、五月雨に乱れる思い、それが澄んでくるとう、一見してわかりづらい歌。「乱れるるおもい・ぞ」は字余り。
158
6
令和四年六月
雨
五月雨にひたと鳴きけるほととぎす今は昔の恋語るごと
花野
歌語としてのほととぎすが美しく詠まれている。一首の見どころは「ひたと(ぴったりと)」で、五月雨に寄り添うようにほととぎすが鳴くという物憂げな風景が描かれている。「恋語るごと」が「五月雨にひたと」鳴くほととぎすを曖昧にしている。ほととぎすが、夢語るごと鳴くように聞こえる。そういう狙いかもしれないが、「五月雨ひたと」が弱くなるし、誰と恋を語っているかわからない。また「と」が重なって声調の上でも落ち着かない。「今は昔の夢の枕に」などで締めて、煩悶とする恋の思いを想像させるのでよいではないか。
「五月雨にひたと鳴きけるほととぎす今は昔の恋語るごと」
判者評:歌語としてのほととぎすが美しく詠まれている。一首の見どころは「ひたと(ぴったりと)」で、五月雨に寄り添うようにほととぎすが鳴くという物憂げな風景が描かれている。「恋語るごと」が「五月雨にひたと」鳴くほととぎすを曖昧にしている。ほととぎすが、夢語るごと鳴くように聞こえる。そういう狙いかもしれないが、「五月雨ひたと」が弱くなるし、誰と恋を語っているかわからない。また「と」が重なって声調の上でも落ち着かない。「今は昔の夢の枕に」などで締めて、煩悶とする恋の思いを想像させるのでよいではないか。
167
6
令和四年五月
立夏
夏の夜の夢のかよひぢうちへば花橘の香ぞにほひける
花野
こちらも「昔の人の香」の挑戦である。三句目「うち思へば」が字余りとなっているので避けたい。「うち」も取ってつけたような印象。「来る人は」などしてみたい。
「夏の夜の夢のかよひぢうちへば花橘の香ぞにほひける」
判者評:こちらも「昔の人の香」の挑戦である。三句目「うち思へば」が字余りとなっているので避けたい。「うち」も取ってつけたような印象。「来る人は」などしてみたい。
168
6
令和四年五月
立夏
藤波の風とわたれるほととぎす待つ汝のもとへこゑをつたへよ
花野
「ほととぎす」と「藤波の風」というユニークな取り合わせ。「門渡れる」か「と、渡れる」か? いずれにしても「渡るる」。「門渡るる」の場合、風は不要。「汝」は「お前」といった意味、「我(あ)を待つ妻に」と分かりやすくしてはどうか。
「藤波の風とわたれるほととぎす待つ汝のもとへこゑをつたへよ」
判者評:「ほととぎす」と「藤波の風」というユニークな取り合わせ。「門渡れる」か「と、渡れる」か? いずれにしても「渡るる」。「門渡るる」の場合、風は不要。「汝」は「お前」といった意味、「我(あ)を待つ妻に」と分かりやすくしてはどうか。