虚白の詠草

3
4
令和六年一月
年経れどなほ色褪せぬ松が枝に吉事(よごと)の雪のいよよ降り積む
虚白

4
4
令和六年一月
初逢恋
煙立つ室の八島の我が心逢ひて後こそ燃えまさるなれ
虚白
煙が立ちのぼる室の八島のような我が心は、逢瀬を遂げた後にこそ益々燃え盛るのだ。「室の八島」は栃木市の歌枕、大神(おおみわ)神社の池の水が蒸発して煙のように見えたことから、つねに煙の立つ所として用いられる。感傷的な和歌ではわりとめずらしい、ラテン系の情熱的な恋の歌で、こういうのもいい。

54
4
令和五年十二月
不遇恋
恋すれどあふこ無き身の心にはふりつむ嘆きばかり負ふなり
虚白
恋をしても「あふご」ならぬ「逢うこと」がない身の心には、ふりつむ歎きばかり背負うようだ。「あふご」は荷物に通して担ぐために用いる棒のこと、天秤棒。「あふご」の掛詞から「積む」「負ふ」と縁語で構成された巧みな歌。ちなみに古今集には「人恋ふることを重荷と担ひもてあふごなきこそわびしかりけれ」がある。詞を優先したためか「ふりつむ(歎き)」、「ばかり(負ふ)」と無理に含んだ言葉が声調をさまたげている。例えば「恋すれどあふこなきこそ辛からめなげきを負ひてゆく由もなし」。

「恋すれどあふこ無き身の心にはふりつむ嘆きばかり負ふなり」

判者評:恋をしても「あふご」ならぬ「逢うこと」がない身の心には、ふりつむ歎きばかり背負うようだ。「あふご」は荷物に通して担ぐために用いる棒のこと、天秤棒。「あふご」の掛詞から「積む」「負ふ」と縁語で構成された巧みな歌。ちなみに古今集には「人恋ふることを重荷と担ひもてあふごなきこそわびしかりけれ」がある。詞を優先したためか「ふりつむ(歎き)」、「ばかり(負ふ)」と無理に含んだ言葉が声調をさまたげている。例えば「恋すれどあふこなきこそ辛からめなげきを負ひてゆく由もなし」。

92
4
令和五年十一月
紅葉
吹く風に深山の紅葉散り敷けば道はむもれて跡形も無し
虚白

「吹く風に深山の紅葉散り敷けば道はむもれて跡形も無し」

判者評:

93
4
令和五年十一月
忍恋
思ふ心伝(つ)つるくちなし染めたるはいわでの里の山吹の花
虚白
忍ぶ恋心を伝える口がないので言わない。そのクチナシを染めているのは、いわでの山の山吹の花であった。山吹にまつわる「物の名」を巧みに取り入れた、技巧が光る忍恋である。ただ本来、山吹色を染めるのがクチナシであって、表の意味が通っていないのはやむを得ないか。

「思ふ心伝(つ)つるくちなし染めたるはいわでの里の山吹の花」

判者評:忍ぶ恋心を伝える口がないので言わない。そのクチナシを染めているのは、いわでの山の山吹の花であった。山吹にまつわる「物の名」を巧みに取り入れた、技巧が光る忍恋である。ただ本来、山吹色を染めるのがクチナシであって、表の意味が通っていないのはやむを得ないか。

151
4
令和五年十月
秋ごとにかりほに戻りてかりかりと変わらぬ声で鳴き渡るかな
虚白

「秋ごとにかりほに戻りてかりかりと変わらぬ声で鳴き渡るかな」

判者評:

152
4
令和五年十月
初恋
秋山に妻問ふ鹿は見ぬ人を焦がるる我と同じ心か
虚白
秋の奥山にて、女鹿を求め彷徨う鹿に我が身を重ねる。古典的な情景で構成された巧みな一首。「初恋」の心が弱いか。

「秋山に妻問ふ鹿は見ぬ人を焦がるる我と同じ心か」

判者評:秋の奥山にて、女鹿を求め彷徨う鹿に我が身を重ねる。古典的な情景で構成された巧みな一首。「初恋」の心が弱いか。

204
4
令和五年九月
待恋
月見ては君が来(き)なむとまつ虫の声の侘しき夜を過ぐすかな
虚白

「月見ては君が来(き)なむとまつ虫の声の侘しき夜を過ぐすかな」

判者評:

225
4
令和五年九月
武蔵野や野におほとるる銀(しろかね)の尾花の波より出づる望月
虚白

「武蔵野や野におほとるる銀(しろかね)の尾花の波より出づる望月」

判者評:

242
4
令和五年八月
秋風・荻
秋来ぬるしるしとなるは夕暮れの河辺にそよぐ荻のうは風
虚白
秋が来たという明白なことは、夕暮れの川辺にそよぐ荻のうは風でわかる。きわめて伝統的な和歌らしい秋の歌。二句まで「る」のリズムに乗せ、三句目で「の」で休止させる韻律が心地よい。

「秋来ぬるしるしとなるは夕暮れの河辺にそよぐ荻のうは風」

判者評:秋が来たという明白なことは、夕暮れの川辺にそよぐ荻のうは風でわかる。きわめて伝統的な和歌らしい秋の歌。二句まで「る」のリズムに乗せ、三句目で「の」で休止させる韻律が心地よい。

269
4
令和五年七月
夕立
村雨の十市(とをち)の里に去ぬるなり涼しくもあるか野辺の夕風
虚白
夕立は十市の里に去っていった、涼しくなってきたなぁ、野辺の夕風よ。十市大和国にあった地であろうか、いにしえを偲ぶ、夏の情景である。三句「なり」の断定に違和感がある、例えば「過ぎ行けば」とか。

280
4
令和五年六月
ほととぎす
ほととぎす雨(あま)つつみせよ我が宿に一声だにもなほ聞かまほし
虚白

「ほととぎす雨(あま)つつみせよ我が宿に一声だにもなほ聞かまほし」

判者評:

299
4
令和五年六月
五月雨
かき暗し晴るる方なき五月雨のふりにしことをひとり偲ばむ
虚白
五月雨が続く中、ひとりもの思いに耽っている。「降る」と「経る」を掛け心情に繋げる技巧(掛詞からの序詞)が光る。「かき暗し」に「晴るる方なき」は同意となって歌病ともいえる。よって「かき暗し絶ゆることなき」などとすれば、下の句の心情もより深まる。結句「偲ばむ」には意志が見えるが、そうでないほうがふさわしい。すなわち「かき暗し絶ゆることなき五月雨にふりにしことぞ思ひ出さるる」など。

307
4
令和五年五月
花橘
五月待つ花のかをれる夕暮れは昔おぼゆる心地こそすれ
虚白

「五月待つ花のかをれる夕暮れは昔おぼゆる心地こそすれ」

判者評:

319
4
令和五年五月
更衣
衣をばけふ白(しら)かさねにたちかふるたわに咲きたる卯の花のころ
虚白
衣を白重ねに着替えた今日、たわわに卯の花が咲いた。衣の「白」重ねと卯の花の「白」を合わせた歌。二句目が八文字、また上句は下句の序ではなく取り合わせになっている、そのため明確に切った方がいいのではないか、すなわち「衣をば白らかさねにぞあらたむる・たちかふる」。

352
4
令和五年四月
山吹
花散りて心許なき春の暮れに見てこそ行かめ井手の山吹
虚白
春の王たる桜花が散ったあとの気晴らしに、晩春の山吹を見に行こうという趣向。ユニークだが、だからこそ「心許なき(待ち遠しい)」の詞が不自然に感じる。歌の本意としては「花散りて暮れ行く春の慰めに」などとしたい。

「花散りて心許なき春の暮れに見てこそ行かめ井手の山吹」

判者評:春の王たる桜花が散ったあとの気晴らしに、晩春の山吹を見に行こうという趣向。ユニークだが、だからこそ「心許なき(待ち遠しい)」の詞が不自然に感じる。歌の本意としては「花散りて暮れ行く春の慰めに」などとしたい。

371
4
令和五年三月
荒れ果つるけふ春雨のふる里は昔ながらの桜花かな
虚白
荒れ果てた古里に春雨が降る、しかし桜花は昔と変わらずに咲いている。ふる(降る、古)の掛詞を用た、技巧と抒情が見事に止揚した歌。日本人であれば誰しもが切なる感情を抱くだろう。

392
4
令和五年二月
今朝はまだ霞まぬ山に白妙の梅綻ぶる春は来にけり
虚白
暦の上で立春といえど、やすやすとは進まぬのが現実。まだ春霞は立たないが、梅はほころんで確かに春は来たのだ。「白妙の」は枕詞として使われておらず、おそらく「白梅」の想起を狙っていると思うが、これが成功しているか問われれば難しいだろう。また四句目「梅綻(ほころ)ぶる」の声調が悪い。素直に「梅の綻ぶ」でいいのではないか。

414
4
令和五年一月
晩冬
小夜ふけて野田の玉川風寒みしのに呼び合ふ友千鳥かな
虚白
六玉川のひとつ「野田の玉川」が詠まれている。野田の玉川は能因法師が詠んで以来、千鳥をあわせて詠む歌枕となった。ちなみに山城の「井手の玉川」は山吹を、近江の「野路の玉川」は萩をあわせて詠む。ここでも素直に千鳥が詠み込まれているが、陸奥の寒き冬風にあたって、「しんみり」と声を掛け合うさまがあはれをさそう。

「小夜ふけて野田の玉川風寒みしのに呼び合ふ友千鳥かな」

判者評:六玉川のひとつ「野田の玉川」が詠まれている。野田の玉川は能因法師が詠んで以来、千鳥をあわせて詠む歌枕となった。ちなみに山城の「井手の玉川」は山吹を、近江の「野路の玉川」は萩をあわせて詠む。ここでも素直に千鳥が詠み込まれているが、陸奥の寒き冬風にあたって、「しんみり」と声を掛け合うさまがあはれをさそう。

419
4
令和四年十二月
凍(い)つる月の明(さや)かに照らす深山路に通ふ跡無き銀(しろかね)の雪
虚白

426
4
令和四年十二月
年暮
年暮れて思ひ返さば来し方に去年(こぞ)と変はらぬ悔いぞ覚ゆる
虚白
誰しもが抱く後悔の念、和歌的な風情によらず、自らの心のうちを歌にしたところに新鮮みを感じる(特に和歌的な詠みぶりに精通する作者であるだけに)。ただ「返さば」は順接仮定条件となるが、ここでは「返せば」と順接確定条件がふさわしい。

439
4
令和四年十一月
初冬
風寒み人目離れ行く山里に高鳴く鵙(もず)の音(ね)のみ響けり
虚白

「風寒み人目離れ行く山里に高鳴く鵙(もず)の音(ね)のみ響けり」

判者評:

449
4
令和四年十一月
初冬
冴え渡る枯れ野に色を添えたるは真白(ましろ)に咲きし霜の花かも
虚白
凍てつく冬の朝の景。和歌で「霜」はさみしさを際立させる景物だが、ここでは「美しき花」になっていて新鮮な感じを受ける。初句の「冴え渡る」が結句への意識が強く少々説明くさいので「冬枯れの野辺に」とか「朝まだき枯れ野に」くらいでいい

456
4
令和四年十月
晩秋
時雨つつ宿の白菊移ろひて紫立ちたる様ぞ貴(あて)なる
虚白

467
4
令和四年十月
晩秋
更級や姨捨山を眺むれば後の月こそ照りまさるなれ
虚白
「姥捨山」に「後の月(十三夜)」を詠んだ、直しようもない完璧な歌。見事に古典世界に入り浸っているが、反面個性的ではないといえる(これは和歌という文芸では非にはならない)。

473
4
令和四年九月
仲秋
風にそよぐ尾花が下で密(ひそ)と鳴く誰まつ虫の声ぞさびしき
虚白

483
4
令和四年九月
仲秋
鏡山くもらぬ秋の最中にはただ眺むらむ澄める望月
虚白
仲秋の隈なき満月を眺めようというシンプルな歌だが、「鏡山」に工夫がある。「鏡山」は具体的な山ではなく「くもらぬ」を導くいわゆる枕詞、これが結句の「澄める望月」にまで響いている。ただ眺めるのは詠歌主体であるから、現在推量の「らむ」ではなく意志である「てむ」などが適切。

489
4
令和四年八月
初秋
朝まだき垣根に咲けるあさがほは夕べも待たずはかなかりけり
虚白
朝顔のしごく当たり前の風景。結句が「はかなかりけり」となって言い足りていない、例えば「はかなくなりぬ」など。

504
4
令和四年八月
初秋
夕立ちの露置く庭の夏草をかすかに揺らす秋の初風
虚白
立秋の美しい風景を切り取った歌。「夕立」「露」「夏草」「初風」と総じて登場する景物が多いが、散漫にならないのは「立秋」でまとまっているから。ただ秋の歌に「夏草」を詠むのは好ましくない。例えば…「夕立にしほるる野辺の下草をかすかに揺らす秋の初風」

「夕立ちの露置く庭の夏草をかすかに揺らす秋の初風」

判者評:立秋の美しい風景を切り取った歌。「夕立」「露」「夏草」「初風」と総じて登場する景物が多いが、散漫にならないのは「立秋」でまとまっているから。ただ秋の歌に「夏草」を詠むのは好ましくない。例えば…「夕立にしほるる野辺の下草をかすかに揺らす秋の初風」

508
4
令和四年七月
盛夏
夏の日に青海の原の耀(かがよ)ひて果てには雲の峰ぞそびゆる
虚白
夏といえばこれ、といった絵葉書になりそうな大海原と入道雲の風景。しかし現代的には典型的な夏の情景だとしても、和歌では挑戦となる。「耀ふ」は万葉集に用例があるが、平安和歌にはめずらしい。「そびゆる」も歌は分からないが文学では用例がある。「夏の日」「耀ふ」「そびゆる」と若干説明調になっているのが残念。「雲」と直接的な表現を避け、「白き峰」などすれば軽減されるか。

509
4
令和四年七月
盛夏
夏山の繁(しじ)に生ひたる忘れ草忘らえぬ身のなぐさめとせむ
虚白
「わすらえぬ(わすら+え(ゆ)+ぬ(ず))」で、助動詞「ゆ」は万葉集に見られる古語、現代では「忘れえぬ」。「繁(しじ)」という使い方は正しいか? 辞書に見当たらないず、こちらも万葉集由来か。「忘れ草」は、自分が昔の恋を忘れるために用いる場合(万葉集)と、人に忘れられること、その象徴(古今集)となる。歌は前者の用法だと考えられるが、忘れたくても忘れられない恋の慰めとするということで、はなから忘れ草に積極的に頼る心はないが、それだけ忘れられない恋だという訴えを強くしている。古語を巧みに用い、深い心の様相を詠んだ優れた一首。「忘れ草」と「忘れらえぬ」は歌病ともなり、避けるなら…『弱る心のなぐさめとせむ」など。

527
4
令和四年六月
ながめふる池のみぎわの花あやめ立ちぬれてなほ色はまされり
虚白
和歌の「あやめ」は草菖蒲だと言ったが、それを踏まえて「花あやめ」と明確にしている。いまの季節の美しいアヤメ畑の風景。「たちぬる」に擬人めいた表現を感じておもしろい。

「ながめふる池のみぎわの花あやめ立ちぬれてなほ色はまされり」

判者評:和歌の「あやめ」は草菖蒲だと言ったが、それを踏まえて「花あやめ」と明確にしている。いまの季節の美しいアヤメ畑の風景。「たちぬる」に擬人めいた表現を感じておもしろい。

528
4
令和四年六月
五月雨にしをるる庭のうの花を見てはうき事ばかり思ひぬ
虚白
五月雨と卯の花という古典的な題材に「憂きこと」を響かせるなど、型がある歌。明確に序詞にするのなら、同音反復にしたほうよい。例えば…「五月雨にしをるる庭のうの花の憂きこと尽きぬわが身なるかな」

「五月雨にしをるる庭のうの花を見てはうき事ばかり思ひぬ」

判者評:五月雨と卯の花という古典的な題材に「憂きこと」を響かせるなど、型がある歌。明確に序詞にするのなら、同音反復にしたほうよい。例えば…「五月雨にしをるる庭のうの花の憂きこと尽きぬわが身なるかな」

537
4
令和四年五月
立夏
早苗取る田子をいらつかほととぎす木の間がくれになきしきるなり
虚白
苛つ(いらだつ)。「木の間がくれに鳴きしきる」が言葉が続いていない、「木の間の陰に」としたほうがいい。しかしどういう理由でほととぎすがいら立って鳴いているのかわからない。ほととぎすは自分の暗喩?

538
4
令和四年五月
立夏
色深む青葉の山のほととぎすなくは昔の人を恋ふるか
虚白
古典に忠実で手本のような詠みぶり。一方で類型的といえ、退屈でもある。

553
4
令和四年四月
三月尽
ゆく春をかくも惜しむか桜花つれなき風にとく散りにけり
虚白

554
4
令和四年四月
三月尽
散りはてぬ春のとまりの桜花またひととせののちに逢はばや
虚白
こちらも同作者による巧みな一首。ただ「とまり(終点)」は、自分や何かものが行き着いた先という意味がつよいので、今回の静的な歌にはあまり効いていないように思える。『春くれて散りぞはてつる桜花またひととせ…』としてはどうか。

555
4
令和四年四月
三月尽
惜しめどもやがて散りぬる桜花名残りの春とともに行くらむ
虚白
巧みな構成、手本のような一首、まずはこのように詠めるようになりたい。ただ疑問も残る、名残の春と行くのはなにか、名残自体が花ではないのか。「らむ」の現在推量問題、「しづ心なく花の散るらむ」、見えているはずなのに推量とはこれいかに。

573
4
令和四年三月
春興
夕まぐれ青きしじまにほの白き桜を見ては昔思ほゆ
虚白
夕暮れ、青きしじま、白き桜と幻想的な色の風景。とくに青きしじはまいい表現。「さまざまなこと思い出す桜かな」は芭蕉の名句。シンプルな構成であるが、深みある良い歌。

574
4
令和四年三月
春興
吹く風はなほ寒けれど春来ぬとさやかに香る梅ぞ咲きける
虚白
今はまだ冷たい冬の風に、梅の香りを感じ春を知る。常套的であるが美しい風景。空気に湿度なくつめたいからこそ、梅がよけいにはっきり香るという趣向。「来ぬ」と「咲く」と歌を作る動詞が二つぶつかっている印象でもったいない。例えば結句を「梅の花かな」となさらりとやり過ごしたい

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