11
3
令和五年二月
立春
あけぼのの富士の高峰はかすみつつけぶりとともに春ぞ立ちける
攝津
17
3
令和五年二月
梅
うぐひすのとくる涙か梅の花あさ日を宿す露のしらたま
攝津
古今集の「うくひすのこほれる涙」を踏まえた歌。ここでは涙は見立てとなって「梅の花に置く露の白玉」であり、なんとそれが朝日を宿しているという、晴れの正月の朝にふさわしい発想抜群の歌である。
28
3
令和五年一月
晩冬
空こほる雄島の海のさざなみを緑に染むるいその松原
攝津
32
3
令和五年一月
晩冬
武蔵の国なる御岳山に登りしに
しろがねの朴(ほほ)の木立の枝まよりさやかに見ゆる冬の空かな
攝津
「朴の木」は万葉集に用例がある(我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋)。「しろがねの朴」とは雪を被った姿か、その枝の間から冬の空が見える。詞書のとおり実景を詠んだ、見事な風景歌である。やはり「朴(ほほ)の木」が活きている。
「しろがねの朴(ほほ)の木立の枝まよりさやかに見ゆる冬の空かな」
判者評:「朴の木」は万葉集に用例がある(我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋)。「しろがねの朴」とは雪を被った姿か、その枝の間から冬の空が見える。詞書のとおり実景を詠んだ、見事な風景歌である。やはり「朴(ほほ)の木」が活きている。
50
3
令和四年十二月
年暮
ひととせのことを思ひめぐらしたるに
道のへの松につもれるゆきくれてひととせ来たる旅をしぞ思ふ
攝津
松に積もる「雪」からの「行き暮れる」につなげ、一年を振りかえる年暮のうた。一年を「行く」「来たる」と旅に例えたところがうまい。
「道のへの松につもれるゆきくれてひととせ来たる旅をしぞ思ふ」
判者評:松に積もる「雪」からの「行き暮れる」につなげ、一年を振りかえる年暮のうた。一年を「行く」「来たる」と旅に例えたところがうまい。
63
3
令和四年十一月
初冬
風ふけばもみぢちりぬる山の井のあかでむかふる秋のくれかな
攝津
「風ふけばもみぢちりぬる山の井のあかでむかふる秋のくれかな」
判者評:
70
3
令和四年十一月
初冬
はつしもに木の葉かれたるそのはらやふせやの夢の覚むるあかつき
攝津
わびしき冬の朝の景、「そのはら」は固有名詞か。幽玄な姿であるが、反面、上句と下句の繋がりが弱い
「はつしもに木の葉かれたるそのはらやふせやの夢の覚むるあかつき」
判者評:わびしき冬の朝の景、「そのはら」は固有名詞か。幽玄な姿であるが、反面、上句と下句の繋がりが弱い
85
3
令和四年十月
晩秋
ひさかたの空に霧こそ立ちのぼれながるゝ川と見ゆる月かげ
攝津
「ひさかたの空に霧こそ立ちのぼれながるゝ川と見ゆる月かげ」
判者評:
96
3
令和四年十月
晩秋
奥山に思ひ入りてとふ鹿見てや萩のうは葉もいろづきぬらむ
攝津
伊勢物語にある「年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ」を後に俊成が「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」と、後日談を妄想して詠んだように、百人一首にも採られた俊成の「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」に後付けしたような儚き秋山の歌。萩を擬人化し、それに心を合わせるように色づくという定石のようで定石でない独特な詠みぶり。「思ひ入りてとふ」が字余りなので「思ひ入りぬる、思ひ入りにし」としたい。
「奥山に思ひ入りてとふ鹿見てや萩のうは葉もいろづきぬらむ」
判者評:伊勢物語にある「年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ」を後に俊成が「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」と、後日談を妄想して詠んだように、百人一首にも採られた俊成の「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」に後付けしたような儚き秋山の歌。萩を擬人化し、それに心を合わせるように色づくという定石のようで定石でない独特な詠みぶり。「思ひ入りてとふ」が字余りなので「思ひ入りぬる、思ひ入りにし」としたい。
102
3
令和四年九月
仲秋
秋ふかくなりにけるかな鈴虫のなくねにつけて涙こそふれ
攝津
「秋ふかくなりにけるかな鈴虫のなくねにつけて涙こそふれ」
判者評:
112
3
令和四年九月
仲秋
大空におれる錦と見えつるは雲間にやどる月にぞありける
攝津
使われている景物や詞はつねのものだが、「雲居の月」を「大空の錦」の錦を見立てたのは新しい。ただ、いわば単色の衣を「錦」とするには無理があるか。色とりどりの紅葉を錦を見立てるのは和歌の常套「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり」。声調が麗しいのは「る」の韻律によるもので、作者の工夫がみえる。
「大空におれる錦と見えつるは雲間にやどる月にぞありける」
判者評:使われている景物や詞はつねのものだが、「雲居の月」を「大空の錦」の錦を見立てたのは新しい。ただ、いわば単色の衣を「錦」とするには無理があるか。色とりどりの紅葉を錦を見立てるのは和歌の常套「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり」。声調が麗しいのは「る」の韻律によるもので、作者の工夫がみえる。
119
3
令和四年八月
初秋
夕さればいりあひの鐘をつくづくと秋を告げつるせみぞなくなる
攝津
「入あひの鐘」からつくづく「法師」へと連想をつなげ、和歌的でありながら新鮮な秋の風景。とても面白い歌。
「夕さればいりあひの鐘をつくづくと秋を告げつるせみぞなくなる」
判者評:「入あひの鐘」からつくづく「法師」へと連想をつなげ、和歌的でありながら新鮮な秋の風景。とても面白い歌。
125
3
令和四年八月
初秋
空の色に秋ぞ見えけるおく山はあつさもしげき木陰なりとも
攝津
「しげき」様が暑さと木陰に掛かっている、また二句で倒置され、シンプルながらも技巧に工夫がある歌。
「空の色に秋ぞ見えけるおく山はあつさもしげき木陰なりとも」
判者評:「しげき」様が暑さと木陰に掛かっている、また二句で倒置され、シンプルながらも技巧に工夫がある歌。
144
3
令和四年七月
盛夏
五月やみ沢のほたるは夜さへも照る日持ちつつくるしかるらむ
攝津
なるほど、私たちは闇夜に蛍で癒されるものだが、当の蛍としても闇が続きくのはつらかったのだ。夜に「照る日」がでることなどありえないが、それほど蛍はひかりを求めているのだという逆説的な切迫感を感じさせてくれる。面白い一首だが、「五月雨」の題がよりふさわしかった。
「五月やみ沢のほたるは夜さへも照る日持ちつつくるしかるらむ」
判者評:なるほど、私たちは闇夜に蛍で癒されるものだが、当の蛍としても闇が続きくのはつらかったのだ。夜に「照る日」がでることなどありえないが、それほど蛍はひかりを求めているのだという逆説的な切迫感を感じさせてくれる。面白い一首だが、「五月雨」の題がよりふさわしかった。
145
3
令和四年七月
盛夏
須磨の浦のまつ夕暮はわくらばにとはれでしふる村雨ぞうき
攝津
優れた手練れの一首。「須磨の浦の松」と「村雨」とくれば当然謡曲「松風」だが、この物語を見事三十一文字に組み入れた。「わくらばに」といえば行平だが、これも古歌の引用で、複数の関連語と風景を雑然とすることなく一首に仕立てあげたのは見事。
「須磨の浦のまつ夕暮はわくらばにとはれでしふる村雨ぞうき」
判者評:優れた手練れの一首。「須磨の浦の松」と「村雨」とくれば当然謡曲「松風」だが、この物語を見事三十一文字に組み入れた。「わくらばに」といえば行平だが、これも古歌の引用で、複数の関連語と風景を雑然とすることなく一首に仕立てあげたのは見事。
151
3
令和四年六月
雨
さみだれに美豆のまこもの乱れつつものを思へば身こそ濡れぬれ
攝津
「美豆(みずら=上代の成人男子の髪の結い方)」。真菰(まこも=水草)はヘアスタイルだと思われるが、このような用例があるのだろう。「さみだれ」に乱れがかかるか、もの想いに耽る男。まこもの乱れを想像させる物語がある。古風なことばが巧みに用いられるなかに個性が認められるすぐれた歌
「さみだれに美豆のまこもの乱れつつものを思へば身こそ濡れぬれ」
判者評:「美豆(みずら=上代の成人男子の髪の結い方)」。真菰(まこも=水草)はヘアスタイルだと思われるが、このような用例があるのだろう。「さみだれ」に乱れがかかるか、もの想いに耽る男。まこもの乱れを想像させる物語がある。古風なことばが巧みに用いられるなかに個性が認められるすぐれた歌
164
3
令和四年五月
立夏
ふかみどり木の下かげの山つつじ燃えてにほへる夏ぞ来にける
攝津
「ふかみどり」が木の枕言的表現になっており面白い。「萌える」ではなく「燃える」であり、暑い夏が来たことを想起させる。いい歌。
「ふかみどり木の下かげの山つつじ燃えてにほへる夏ぞ来にける」
判者評:「ふかみどり」が木の枕言的表現になっており面白い。「萌える」ではなく「燃える」であり、暑い夏が来たことを想起させる。いい歌。
188
3
令和四年四月
三月尽
うらうらと春日さしたるわが宿に光にまがふ山吹の花
攝津
うまい、見事な歌。山吹の色が強調されて、和歌らしく美しい一首。山吹と宿の取り合わせがわずかな懸念。
「うらうらと春日さしたるわが宿に光にまがふ山吹の花」
判者評:うまい、見事な歌。山吹の色が強調されて、和歌らしく美しい一首。山吹と宿の取り合わせがわずかな懸念。
189
3
令和四年四月
三月尽
こひすてふことのはる日にかはりゆき花ちる里のわれぞわびしき
攝津
虚しく捨てられてしまった女の歌。「夢の浮橋」が代表的だが、源氏物語に関連する詞があると歌が一気に物語性を秘める。ただ「ことのはる日」の意味が分かりずらい。わかりやすく、例えば…「ちかひてし春やむかしとなりぬらむ花散る里の…」としてはどうか。
「こひすてふことのはる日にかはりゆき花ちる里のわれぞわびしき」
判者評:虚しく捨てられてしまった女の歌。「夢の浮橋」が代表的だが、源氏物語に関連する詞があると歌が一気に物語性を秘める。ただ「ことのはる日」の意味が分かりずらい。わかりやすく、例えば…「ちかひてし春やむかしとなりぬらむ花散る里の…」としてはどうか。
197
3
令和四年三月
春興
月も出でであやなきやみにくるる夜は梅の花あらふ春さめのふる
攝津
「あやなき闇」とは躬恒の歌を内包、踏まえた見事な短縮表現。しかし下の句で梅の花をあらふ春雨との躬恒との関連、その情景による一首の狙いが見えてこない
198
3
令和四年三月
春興
世の中はのどけき春の色もなくいたづらにうつる桜花かな
攝津
コンクリートに囲まれた、色なき都会の春。花見もできず無駄に散る桜。共感できる都会の無風流。四句目が破調であり、避けたい。
212
3
令和四年二月
立春
しののめにきける初音はうくひずとなげきつむ日のかぎりなりけり
攝津
「初音」がうぐひすの到来とともに、春を待ち嘆き悲しんだ日々の終わりを告げるということ。
213
3
令和四年二月
立春
うすごほりかかるみぎはに一枝の花こそ春のしるしなりけれ
攝津
風景も声調も見事な一首。水際にかかる一枝とは、本当に一枝の花なのか、白浪の見立てか。本歌があるのかもしれない。
227
3
令和四年一月
冬、年明く
あらたしき年も来にけり渋谷に波とともにや春のたつらむ
攝津
字数的に「しぶたに」だが「しぶや」だろう。その地の名物新年のカウントダウンは2年連続で中止となってしまった。今年こそは人の波とともに、年越しができるようになってほしいものだ。
「あらたしき年も来にけり渋谷に波とともにや春のたつらむ」
判者評:字数的に「しぶたに」だが「しぶや」だろう。その地の名物新年のカウントダウンは2年連続で中止となってしまった。今年こそは人の波とともに、年越しができるようになってほしいものだ。
228
3
令和四年一月
冬、年明く
たまくしげ二上山にてる月のかたぶくままに年あけにけり
攝津
全体が「あく」を導くための序詞となる。ただ「二上山に傾く月」という美しい叙景が備わって手練れの人の歌とわかる
「たまくしげ二上山にてる月のかたぶくままに年あけにけり」
判者評:全体が「あく」を導くための序詞となる。ただ「二上山に傾く月」という美しい叙景が備わって手練れの人の歌とわかる
236
3
令和三年十二月
立冬
たぎりおちしたきの玉みづこほりけりをのへにみ雪はやつもるらし
攝津
下流の変化で上流を知る、間接的に知るという、和歌のテクニックを踏まえている。その情景が美しくみごと。
237
3
令和三年十二月
立冬
夏秋もいなばの山にふるゆきの波にまがへる冬の夕暮
攝津
「いなば」がの掛詞、雪の波の見立て。それで下句は新古今らしい風情がミックスされて面白い試み。白波に夕暮れがまがえる(見間違える)のは若干違和感か。