海螢の詠草

872
26
令和六年六月
夕風にかをる橘身にしみてかたみにしのぶ昔なりけり
海螢

871
26
令和六年六月
山家郭公
朝ぼらけ深山がくれの庵にも山郭公訪ひて鳴きけり
海螢

870
26
令和六年六月
寄海恋
あだ波のさわぐ恋路の果てまでもみをつくしてぞ通ふうき舟
海螢

816
26
令和六年五月
ほととぎす
郭公鳴きて帰るや山の端にふるさとしのぶ月のぼりけり
海螢

「郭公鳴きて帰るや山の端にふるさとしのぶ月のぼりけり 」

判者評:

815
26
令和六年五月
五月雨
五月雨にうちしめりたるあやめぐさ玉のしづくに入日映れり
海螢

「五月雨にうちしめりたるあやめぐさ玉のしづくに入日映れり」

判者評:

814
26
令和六年五月
うらみてもさらにあだなりあき風の吹かでも浅き葛の葉裏を
海螢
裏を見ても、恨んでもいっそう無駄だ。飽きた風が吹かなくとも、そもそも浅い葛の裏葉を。わかるようで、わかりにくい歌。恨んでも無駄なことだろう、飽きがくるより前から浅いこころだった、という意味であろうか。上句と結句に「うら」があるが、「うらみ」は掛詞としてひとつにした方がスマート。「うらみてもあだとおもはむあき風の吹くよりさきに移ろふ葛に」

「うらみてもさらにあだなりあき風の吹かでも浅き葛の葉裏を」

判者評:裏を見ても、恨んでもいっそう無駄だ。飽きた風が吹かなくとも、そもそも浅い葛の裏葉を。わかるようで、わかりにくい歌。恨んでも無駄なことだろう、飽きがくるより前から浅いこころだった、という意味であろうか。上句と結句に「うら」があるが、「うらみ」は掛詞としてひとつにした方がスマート。「うらみてもあだとおもはむあき風の吹くよりさきに移ろふ葛に」

813
26
令和六年五月
待恋
来ぬ人を待ちてむなしく更くる夜は月も泪に霞むうき舟
海螢

「来ぬ人を待ちてむなしく更くる夜は月も泪に霞むうき舟」

判者評:

771
26
令和六年四月
目黒川の桜
咲きそめし桜の揺るる目黒川ささ波残し風吹きわたる
海螢

「咲きそめし桜の揺るる目黒川ささ波残し風吹きわたる」

判者評:

770
26
令和六年四月
述懐
子を抱けば春日のごとく憂さ晴れてよしなしことにゑみまぐれけり
海螢

「子を抱けば春日のごとく憂さ晴れてよしなしことにゑみまぐれけり」

判者評:

769
26
令和六年四月
述懐
散るゆゑに花はうるはし人もまた命尽くして夢を生きなむ
海螢

「散るゆゑに花はうるはし人もまた命尽くして夢を生きなむ」

判者評:

768
26
令和六年四月
更衣
多摩川にさらすをとめの夏衣花散る水に白雲流る
海螢

「多摩川にさらすをとめの夏衣花散る水に白雲流る」

判者評:

767
26
令和六年四月
更衣
風たちて空に流るる白雲はあまつをとめの夏衣やも
海螢

「風たちて空に流るる白雲はあまつをとめの夏衣やも」

判者評:

766
26
令和六年四月
三月尽
はかなくも散りゆく花よゆく春を今ひとたびの夢にとどめむ
海螢

「はかなくも散りゆく花よゆく春を今ひとたびの夢にとどめむ」

判者評:

765
26
令和六年四月
会不逢恋
ともに見し花もふたたび咲く春のわが身ひとつに冷ゆる風かな
海螢
一緒に見た花が再び咲く春なのに、我が身はひとつ冷たい風が吹いている。「ともに」と「ひとつ」、「咲く花」と「冷ゆる風」が対比され、現状の孤独感が表されている。「春」、「わが身ひとつ」は業平詠(月やあらぬ)を踏まえるが、「咲く春」と「わが身ひとつ」を結ぶ助詞「の」が素直でない、これを繋げるのは困難か。いっそうのこと「わが身ひとつに」は捨てて詠むべし。例えば「ともに見し/花もふたたび/咲く春に/などわれひとり/なげき暮らすや」。

「ともに見し花もふたたび咲く春のわが身ひとつに冷ゆる風かな」

判者評:一緒に見た花が再び咲く春なのに、我が身はひとつ冷たい風が吹いている。「ともに」と「ひとつ」、「咲く花」と「冷ゆる風」が対比され、現状の孤独感が表されている。「春」、「わが身ひとつ」は業平詠(月やあらぬ)を踏まえるが、「咲く春」と「わが身ひとつ」を結ぶ助詞「の」が素直でない、これを繋げるのは困難か。いっそうのこと「わが身ひとつに」は捨てて詠むべし。例えば「ともに見し/花もふたたび/咲く春に/などわれひとり/なげき暮らすや」。

763
26
令和六年三月
憚人目恋
滾り立つうき瀬知られじ思川通ふ心のとがさへ甘し
海螢
しぶきを上げながら立つうき瀬(つらく苦しい立場)は知られないだろう、思川は。通う心の罪までも甘い。「たぎる」「うき瀬」「思川」「とがさへ甘し」と伝統的な和歌のこころと、作者の思いが激しくぶつかった印象の歌。ちなみに「思川」は「おもひ川絶えず流るる水の泡のうたかた人に逢はで消えめや」〈伊勢〉がある。激情的であるが、歌としてのまとまりがつかなくなっている印象。作者の独白である「通ふ心のとがさへ甘し」に絞てはどうか。

「滾り立つうき瀬知られじ思川通ふ心のとがさへ甘し」

判者評:しぶきを上げながら立つうき瀬(つらく苦しい立場)は知られないだろう、思川は。通う心の罪までも甘い。「たぎる」「うき瀬」「思川」「とがさへ甘し」と伝統的な和歌のこころと、作者の思いが激しくぶつかった印象の歌。ちなみに「思川」は「おもひ川絶えず流るる水の泡のうたかた人に逢はで消えめや」〈伊勢〉がある。激情的であるが、歌としてのまとまりがつかなくなっている印象。作者の独白である「通ふ心のとがさへ甘し」に絞てはどうか。

762
26
令和六年三月
ゆかしとて花なき萌黄野ゆきにけり君や見つらむ契りし花を
海螢

「ゆかしとて花なき萌黄野ゆきにけり君や見つらむ契りし花を」

判者評:

699
26
令和六年二月
夜間梅花
懐かしき人のかをりぞ偲ばるる朧月夜に匂ふ白梅
海螢

「懐かしき人のかをりぞ偲ばるる朧月夜に匂ふ白梅」

判者評:

698
26
令和六年二月
後朝恋
忘られぬ夜のなごりの移り香をよすがに仰ぐしののめの空
海螢

「忘られぬ夜のなごりの移り香をよすがに仰ぐしののめの空」

判者評:

697
26
令和六年二月
釈教
大日経 三句の法門
大きなる悲しびこそは慈しみ悲しき人の尽きぬ世なれば
海螢

「大きなる悲しびこそは慈しみ悲しき人の尽きぬ世なれば」

判者評:

639
26
令和六年一月
雪やみて月冴えわたるふる里の梢に白き花咲きこぼる
海螢

「雪やみて月冴えわたるふる里の梢に白き花咲きこぼる」

判者評:

638
26
令和六年一月
もり出づる月影に咲く霜の花しののめ待ちて消ゆる命や
海螢

「もり出づる月影に咲く霜の花しののめ待ちて消ゆる命や」

判者評:

637
26
令和六年一月
釈教
『大日経の三句の法門』
御仏の真の言は秘むれどもわれの心の慈しみ問ふ
海螢

「御仏の真の言は秘むれどもわれの心の慈しみ問ふ」

判者評:

636
26
令和六年一月
釈教
『法華経の還著於本人』
恨みつるわが身へ還れ人恨む心の罪の重くしあれば
海螢

「恨みつるわが身へ還れ人恨む心の罪の重くしあれば」

判者評:

635
26
令和六年一月
神祇
ちはやふる神の御業に三峰の清き雪すら暖けきかな
海螢

「ちはやふる神の御業に三峰の清き雪すら暖けきかな」

判者評:

634
26
令和六年一月
初逢恋
かき抱く月の顔ばせ隠れなば今宵ひと夜の命ならまし
海螢
抱いている月の顔が隠れてしまったら、今宵一夜の命となりましょう。ここで月は恋人(女性)の暗示、それが隠れるすなわち遇えなくなったら、今宵だけの命となる死んでしまおうという歌。強烈で印象的な後朝の歌である。「顔ばせ」は和歌であまり聞き馴れない。「今宵ひと夜の」が冗長と言えなくもない。よって「あひ見えし月の面影かくれなば今宵かぎりの命とぞせむ」

「かき抱く月の顔ばせ隠れなば今宵ひと夜の命ならまし」

判者評:抱いている月の顔が隠れてしまったら、今宵一夜の命となりましょう。ここで月は恋人(女性)の暗示、それが隠れるすなわち遇えなくなったら、今宵だけの命となる死んでしまおうという歌。強烈で印象的な後朝の歌である。「顔ばせ」は和歌であまり聞き馴れない。「今宵ひと夜の」が冗長と言えなくもない。よって「あひ見えし月の面影かくれなば今宵かぎりの命とぞせむ」

609
26
令和五年十二月
羇旅
松風にむせぶ新井の城ゆけば暗き水面の油壷見ゆ
海螢

608
26
令和五年十二月
除夜
つごもりの鐘の音消えて年ふれば静けき空に淡雪流る
海螢

「つごもりの鐘の音消えて年ふれば静けき空に淡雪流る」

判者評:

607
26
令和五年十二月
千鳥
ゆく方もしらぬ汀の浜千鳥波間に消ゆる声ぞ悲しき
海螢

「ゆく方もしらぬ汀の浜千鳥波間に消ゆる声ぞ悲しき」

判者評:

606
26
令和五年十二月
不遇恋
遥かなる雲居のはての月なれば逢はで死ぬるもさだめなるらむ
海螢
遥か遠く雲の果てにある月のようなあなただから、逢わないで死ぬのも運命なのだろう。決して叶わない恋、遠い人、身分違いの恋… いろいろと物語を想像させる歌である。「逢はで死ぬる」では完了となるので「逢はで死なむ」としたい。

「遥かなる雲居のはての月なれば逢はで死ぬるもさだめなるらむ」

判者評:遥か遠く雲の果てにある月のようなあなただから、逢わないで死ぬのも運命なのだろう。決して叶わない恋、遠い人、身分違いの恋… いろいろと物語を想像させる歌である。「逢はで死ぬる」では完了となるので「逢はで死なむ」としたい。

584
26
令和五年十一月
桃色に艶めきたりし舞姫も遠き昔の夢に咲く花
海螢

583
26
令和五年十一月
花火を見て亡き人を思ひて詠める歌
よにひらくたまゆらの花落ちぬれど在りし光の彩を忘れじ
海螢

「よにひらくたまゆらの花落ちぬれど在りし光の彩を忘れじ」

判者評:

541
26
令和五年十一月
羇旅
夜の更けて二見七浦なぎわたり漁火ふたつ交じり離るる
海螢

540
26
令和五年十一月
紅葉
紅を黄に織りかさねもみぢ葉の錦流るるせせらきの里
海螢

539
26
令和五年十一月
紅葉
月凍る夜風に眠るししの仔の臥所温めよ散りしもみぢ葉
海螢

538
26
令和五年十一月
紅葉
甲州の山中にて詠める歌
更くる夜にたいまつ焚けば奥山の紅葉まばゆし月や惑はむ
海螢

537
26
令和五年十一月
忍恋
しぐるれどなほ下燃ゆる埋め火の心ならずや人を思へば
海螢
時雨が降ってもそれでもくすぶる埋め火のように、本意ではない、人を思えば。序詞、倒置を用いた巧みな歌である。ところで「心ならずや」だけでなく「思ひは消えじ」といった表現も可能で素直である。

533
26
令和五年十一月
夕暮れ
夕暮れの汀に寄するささ波になづさふうき世の身の儚さよ
海螢

「夕暮れの汀に寄するささ波になづさふうき世の身の儚さよ」

判者評:

488
26
令和五年十月
羇旅
武蔵國の三峯神社に詣でて詠める歌
ちはやふる神の宮なる三峰の御山(みやま)に清き白雪ぞ降る
海螢

487
26
令和五年十月
夕月夜ほのかに見ゆる白菊はいにしへ人のあはれなりけり
海螢

486
26
令和五年十月
夕空をわたる雁が音消えゆけば過ぎし歳月(としつき)沁むる秋風
海螢

485
26
令和五年十月
初恋
しろたへの衣のうちに秘むれども色にやいづらむ思ひそめしは
海螢

484
26
令和五年十月
初恋
ゆくりなくはつかに見えし面影を慕ふ心ぞ月や知るらむ
海螢
偶然にもわずかに見えた面影、それを慕う心を月は知っているのだろうか。垣間見えた女性を月に喩える風情ある一首である。状況を説明する「ゆくりなく」と「はつか」はどちらかに、「面影」と「月」も意味で重なるため言葉を選びたい。また結句を「月や知るらむ」としたことで、意味が複雑になっている。「垣間見」と「相手の心を探る」心情はどちらかに絞ってはどうか。すなわち単純化して、「ひさかたの雲居はるかに漏れ出づる影を見しより恋ぞわたれる」とか。

「ゆくりなくはつかに見えし面影を慕ふ心ぞ月や知るらむ」

判者評:偶然にもわずかに見えた面影、それを慕う心を月は知っているのだろうか。垣間見えた女性を月に喩える風情ある一首である。状況を説明する「ゆくりなく」と「はつか」はどちらかに、「面影」と「月」も意味で重なるため言葉を選びたい。また結句を「月や知るらむ」としたことで、意味が複雑になっている。「垣間見」と「相手の心を探る」心情はどちらかに絞ってはどうか。すなわち単純化して、「ひさかたの雲居はるかに漏れ出づる影を見しより恋ぞわたれる」とか。

467
26
令和五年九月
待恋
ゆくりなくおとなふ夜の面影を恋ひてさびしき有明の月
海螢

「ゆくりなくおとなふ夜の面影を恋ひてさびしき有明の月」

判者評:

453
26
令和五年九月
澄みわたる月影映す露の玉こぼれ散りぬる初恋の夢
海螢

「澄みわたる月影映す露の玉こぼれ散りぬる初恋の夢」

判者評:

444
26
令和五年八月
雑秋
わたつみは秋の深藍湛へけり波のきらめき凪ぎわたれども
海螢

「わたつみは秋の深藍湛へけり波のきらめき凪ぎわたれども」

判者評:

438
26
令和五年八月
秋風・萩・鹿
鹿の声絶えて久しき奥山の露おく萩に秋風ぞ吹く
海螢
鹿の声が長い間途絶えている奥山の露が置いた萩に秋風が吹いている。「鹿」「奥山」「露」「萩」「秋風」と和歌の秋の景物がこれでもかと詠みこまれ、秋の風景をいっそう強く詠んだ歌。であるがゆえに散漫(特に鹿の声絶えて久しき)で歌の本意が取りづらく、印象を弱くしてしまっている。たとえば「鳴く鹿の声も聞こえぬ奥山の露おく萩に秋風ぞ吹く」(自分しか知らない深山の秋という趣向)

422
26
令和五年七月
飛び交はす螢な追ひそせせらぎに儚き魂の光映れり
海螢

405
26
令和五年七月
恋がため命尽くせる蝉しぐれ絶ゆとも絶えず君を思ほゆ
海螢
恋とは突き詰めると子孫を残すこと、そのために命を懸けて蝉が鳴いている、絶えても絶えない君を思いながら。これは蝉にたとえた人の恋心だろうが、「命尽くす」と「絶ゆとも絶えず」によほどの執着心が見える、激情の恋の歌である。「尽くせる」とは「尽くす」が存続している状態で、矛盾しているように思う。また「絶ゆとも絶えず」の「とも」は仮定の意味合いがあるがふさわしいか。すなわち「恋がため命を尽くし蝉しぐれ絶ゆれど絶えぬ思ひなるかな」