木喬の詠草

1
2
令和六年一月
釈教
いちにちとまたいちにちと脱ぎ捨てむ西へとしづむ光を追ひかけ
木喬

2
2
令和六年一月
初逢恋
今宵こそ袖の氷もうちとけてさ蕨萌ゆる春をしるらむ
木喬

52
2
令和五年十二月
除夜
わづらひは暦とともに捨てはてむ今年をこゆるすゑののどけさ
木喬

「わづらひは暦とともに捨てはてむ今年をこゆるすゑののどけさ」

判者評:

53
2
令和五年十二月
不遇恋
逢はで寝る夜のなみだに思ひあらばせめて浮かべよ虹の架け橋
木喬

「逢はで寝る夜のなみだに思ひあらばせめて浮かべよ虹の架け橋」

判者評:

90
2
令和五年十一月
羇旅
花いかだ風ふくはてはこほりつつ吹飯(ふけゐ)の浦に波の花みゆ
木喬

「花いかだ風ふくはてはこほりつつ吹飯(ふけゐ)の浦に波の花みゆ」

判者評:

91
2
令和五年十一月
忍恋
もらさじとくもゐにかくしとほすべき月もしられぬ恋をするかな
木喬

「もらさじとくもゐにかくしとほすべき月もしられぬ恋をするかな」

判者評:

153
2
令和五年十月
羇旅
山賤は旅ゆくらむか鳴く鹿の奥なる方の山の音聴きに
木喬

「山賤は旅ゆくらむか鳴く鹿の奥なる方の山の音聴きに」

判者評:

154
2
令和五年十月
あひみてののちのこころにしろたへの雪ふりやまず君よ踏まなむ
木喬

「あひみてののちのこころにしろたへの雪ふりやまず君よ踏まなむ」

判者評:

193
2
令和五年九月
待恋
かむなびのみむろの山の楢の葉やふめどちらざるおもひこそしれ
木喬

「かむなびのみむろの山の楢の葉やふめどちらざるおもひこそしれ」

判者評:

212
2
令和五年九月
しののめをうらみさへする秋の夜のあかぬひかりぞ袖に映れる
木喬

230
2
令和五年八月
撫子
人麻呂詠みしとふ淡路島の歌に唱和し詠める
秋きぬと野島が崎の風に澄む日もゆふぐれのなでしこの花
木喬
秋が来たと、野島が崎の風に澄み渡る、紐を結んでくれた妻を思い出す夕暮れの撫子の花。詞書の歌は「淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす」で、野島は淡路島の北端の地、「日もゆふぐれ」の「なでしこ」は「紐を結ふ」ってくれた「妹(妻)」という本歌の暗示となる。すなわち羇旅歌であり、遠い旅先の地で出会った撫子の花に愛しい妻を思い出すという意になる。三句目の「風に澄む(住む?)」が意味がとおりにくいか(素直に「風わたる」など)

「秋きぬと野島が崎の風に澄む日もゆふぐれのなでしこの花」

判者評:秋が来たと、野島が崎の風に澄み渡る、紐を結んでくれた妻を思い出す夕暮れの撫子の花。詞書の歌は「淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす」で、野島は淡路島の北端の地、「日もゆふぐれ」の「なでしこ」は「紐を結ふ」ってくれた「妹(妻)」という本歌の暗示となる。すなわち羇旅歌であり、遠い旅先の地で出会った撫子の花に愛しい妻を思い出すという意になる。三句目の「風に澄む(住む?)」が意味がとおりにくいか(素直に「風わたる」など)

253
2
令和五年七月
蚊遣火
瀬戸内寂聴と井上光晴とその妻を描く映画を見て詠める
さしも草もゆるおもひをかちのきにくべておくらな蚊遣り火の寺
木喬

266
2
令和五年七月
蚊遣火
待つ宵の月の赤さもあけぬればしたもえきゆるかやりびのはて
木喬

「待つ宵の月の赤さもあけぬればしたもえきゆるかやりびのはて」

判者評:

278
2
令和五年六月
杜若
かきつばたあをば茂きをきそふらし露けくあらぬ屏風絵のなか
木喬

「かきつばたあをば茂きをきそふらし露けくあらぬ屏風絵のなか」

判者評:

301
2
令和五年六月
五月雨
国産みのさみだれはれて忘れ水たまる広野ににほのうみ見ゆ
木喬

「国産みのさみだれはれて忘れ水たまる広野ににほのうみ見ゆ」

判者評:

306
2
令和五年五月
五月闇
松の芽の伸ぶる日盛りひとめなき皐月闇にも身はこがれつつ
木喬

「松の芽の伸ぶる日盛りひとめなき皐月闇にも身はこがれつつ」

判者評:

317
2
令和五年五月
花橘
恋あらば花橘ぞたまくらのそでに秘めをきその香聞かまし
木喬
もし恋心があるのなら、手枕した袖に秘めた花橘の香りを聞きたい。当然ながら「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」を踏まえた歌だが、この歌で男は「五月待つ」より女へのアプローチが強い、というか「五月待つ」にひと押し追加した一首のようだ。「花橘ぞたまくらの」と文脈を一度切って、結句で「その香聞かまし」と結んだのが妙。

326
2
令和五年四月
雑春
ちはやぶる斎の宮の槻(つき)ならで立つ身たださむざざめく風に
木喬

「ちはやぶる斎の宮の槻(つき)ならで立つ身たださむざざめく風に」

判者評:

330
2
令和五年四月
落花
ひとひらとふたひらみひら春の風けふ千萬と散りもゆくかな
木喬

「ひとひらとふたひらみひら春の風けふ千萬と散りもゆくかな」

判者評:

336
2
令和五年四月
雑春
蓮の葉にたまぬく露やをさむらむあをばこくする春のひかりを
木喬
蓮の葉の上に春雨の名残であろう、露がおさまって、その色を濃く染める春のひかりを集めている。作者ならではの美しい春の情景が見事に詠まれている。難は「蓮」は夏の景物であること、また「たまぬく露」とあるが本来「露」のみで十分(玉を抜くのは糸である)。しかし金槐和歌集に「浅緑そめてかけたる青柳の糸にたまぬく春雨そふる」とあり、春の景であり、「糸にたまぬく春雨」という表現は「糸に抜かれる」とはしていないので、「たまぬく露」を転じて「露」としてもいいのかもしれない

「蓮の葉にたまぬく露やをさむらむあをばこくする春のひかりを」

判者評:蓮の葉の上に春雨の名残であろう、露がおさまって、その色を濃く染める春のひかりを集めている。作者ならではの美しい春の情景が見事に詠まれている。難は「蓮」は夏の景物であること、また「たまぬく露」とあるが本来「露」のみで十分(玉を抜くのは糸である)。しかし金槐和歌集に「浅緑そめてかけたる青柳の糸にたまぬく春雨そふる」とあり、春の景であり、「糸にたまぬく春雨」という表現は「糸に抜かれる」とはしていないので、「たまぬく露」を転じて「露」としてもいいのかもしれない

355
2
令和五年三月
えだえだにつぼみし春のみちていま花ぞこぼるるあをきなかぞら
木喬

「えだえだにつぼみし春のみちていま花ぞこぼるるあをきなかぞら」

判者評:

364
2
令和五年三月
さくらばなしづこころなくちりぬればおもかげあはく思ひ寝にみむ
木喬
こちらも友則を踏まえた、桜花へのひとり語り。「しづこころなく」と「おもかげあはく」の関連が弱いか。たとえば「つれなくひとり」

384
2
令和五年二月
立春
岩にいづる雪げのみづに墨染めを濯げば春はひとぞ恋しき
木喬

「岩にいづる雪げのみづに墨染めを濯げば春はひとぞ恋しき」

判者評:

395
2
令和五年二月
立春
春たちて雪気(ゆきげ)の雲もかすれつつしろき吐息も空のはたてに
木喬
「春立つ」といえど、景色はまだまだ極寒である。今にも雪が降りそうに霞が立ちこめて、そんな白さに合わせるように吐く息が空の向こうへと消えてゆく。結語「はたてに」が余韻を残し、色と奥行きを感じる、美しい風景歌だ。

401
2
令和五年一月
晩冬
柴舟を堰(せ)きてわれたるうすごほり浪たつ春にならましものを
木喬

「柴舟を堰(せ)きてわれたるうすごほり浪たつ春にならましものを」

判者評:

413
2
令和五年一月
晩冬
ひと冬をこゆるかぎりのちぎりとて羽根かはしけり夜半のをしどり
木喬
なるほど、オシドリの番は一冬だけの契りであったのか。さすれば、その慰めあう姿にはことさらに情け深い。人の夫婦もこうありたいたいがそうはいかないから、人は鴛に惹かれるのだろう。

「ひと冬をこゆるかぎりのちぎりとて羽根かはしけり夜半のをしどり」

判者評:なるほど、オシドリの番は一冬だけの契りであったのか。さすれば、その慰めあう姿にはことさらに情け深い。人の夫婦もこうありたいたいがそうはいかないから、人は鴛に惹かれるのだろう。

420
2
令和四年十二月
雪折れの杉のほつえは匂ひつつ峰の木立はしづかなりけり
木喬

427
2
令和四年十二月
年暮
ゆく川にわたしぶねさす棹うせてながれもはやき年の暮れかな
木喬
年月の流れの速さを「渡し舟のさす棹うせる」で表現したところが見事。百人一首の「由良の戸を」にも通じ、また赤穂義士伝の「年の瀬や水の流れと人の身はあした待たるるその宝船」も彷彿させる、手練れの歌。

437
2
令和四年十一月
初冬
更くる夜にころもかたしき聞くものは軒のたまみづ氷れるしじま
木喬

「更くる夜にころもかたしき聞くものは軒のたまみづ氷れるしじま」

判者評:

452
2
令和四年十一月
初冬
鳰鳥(にほどり)のしたのかよひぢ閉ぢながら氷れる空をうつす池の面(も)
木喬
凍てつく冬の美しき景。ただ「鳰鳥(にほどり)のしたのかよひぢ」がわかりづらい。人目にあらわれない「忍ぶ心」を思わせるが、歌は恋になっていない。

458
2
令和四年十月
晩秋
みやこびとうつりしあとの月すがし長月とをかのみかの原かな
木喬

459
2
令和四年十月
晩秋
玉の緒を霜にとぢたる菊の花掬はば袖にたまぞうつらむ
木喬

469
2
令和四年十月
晩秋
おく霜に玉の緒こほりむらさきの菊の花こそ目ににほひけれ
木喬
しもやけ(むらさき)した白菊の歌。「玉の緒」の解釈に難儀するが、ここでは菊の命か。「目」も唐突な印象だが、「緒」の縁語で「結び目」と関連するか? 正直わからない。

475
2
令和四年九月
仲秋
葛の葉をうらかへしふく風あつめ旅びと馬と並めてゆくかな
木喬

485
2
令和四年九月
仲秋
をみなへしあけゆく空ゆ色まさり月夜ををしむきぬぎぬのとき
木喬
「月夜」とあるが、逢瀬を惜しむ後朝の別れの歌。「女郎花」が「明けゆく空」の枕詞として巧みに用いられ、秋の情景と抒情を豊かにしている。

490
2
令和四年八月
初秋
天離る向かふへ秋の風わたり稲穂ふくらむ金の海見む
木喬
「天離る」は「向かふ」へかかる枕詞。豊かな秋の田園風景が詠まれ、脳内が一瞬で黄金色に染まる。あえて「稲穂」といわず、たとえば「稲田」として「金の海」で「稲穂」を連想させても面白かったかもしれない。

501
2
令和四年八月
初秋
なほさかる雲居を惑ふはつあきにぶだうの玉を刈れる豊けさ
木喬
「なほ・さかる」=「依然として離れていく」ということか? その雲居に思い乱れる初秋? 下の句の明瞭さに比べて、上の句がイメージしづらい。上の句の「豊かさ」に対する上の句の「悩み」がすっと理解されない。

518
2
令和四年七月
盛夏
はるかすみこめたる松の岩根にも呼子鳥なくこゑしみわたる
木喬
松の岩根と呼子鳥の声という取り合わせ、新奇性がある。作者にはこのように取り合わせた意図を聞きたい

519
2
令和四年七月
盛夏
にがうりの黄の実うれゆくゆふづくよすだれのうちにものおもふらむ
木喬
「苦瓜=ゴーヤ」、苦瓜は熟すと緑から黄色になる。その色と夕月夜が対照されている、ここに個性と新奇性がある。しかし下の句への連絡、「おもおもふ」こととの関係性が定かでない。苦瓜はみずからの暗喩か、つまり御簾の裏で待ち続ける女の嘆息である。

531
2
令和四年六月
たまくらにをるべきひとも雨もよにかすみゆきつつ袖ひちにけり
木喬
「たまくらにをるべきひと」とは面白い表現。「彼女」だろうか? それも雨もよに(非常に)霞んで、つまりそれほど泣きぬれて、袖が濡れた。待つ恋の歌。少々わかりにくいか。例えば…「たまくらにをるべきひとも見えぬまで掻き暮らしゆく雨はふりけり」

532
2
令和四年六月
逢ひ見てしのちの長雨にとだえせば軒の糸水ひくもうらめし
木喬

546
2
令和四年五月
立夏
春を忘れみやこわすれに染まりしか都鳥とぶ黒きかむりに
木喬
「ミヤコワスレ」題材が独創的でいい。順徳院を踏まえた歌。例えば…「いかにして契りおきけむ白菊を都忘れと名づくるも憂し」

549
2
令和四年五月
立夏
あらたへの裳裾(もすそ)はつかにそぼちけり吾妹すずしやみたらしがはに
木喬
荒妙(そまつな)、吾妹(わぎも)。葵祭の風景か? 詞書がほしいところ。「はつか」と「そぼつ」は反する詞であり違和感がある。「みたらしがはに」という倒置の結びはいかが? 分かりやすさのために、語順を入れ替えてはつまらないか? 例えば…「みそぎせし吾妹すずしやみたらしのかはにもすそはそぼちぬれつる」

562
2
令和四年四月
三月尽
柴の戸におち溜まりなば夕日影わかれの春をとめざらめやも
木喬
おもしろい一首。落ち溜(た)まる(どどまる)夕日影と別れのとめることができようか、との関連をどのように考えたのか?

563
2
令和四年四月
三月尽
みじかかるおぼろづくよの夢なれや手と手のひまに花ぞ散りける
木喬
『みじかかる』の違和感、助動詞に接続の形(みじかかる・なり)、しかし歌例(『草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ』(茂吉))がある。手と手のひま、掴もうとして掴めない、むなしさの秀逸な表現。

577
2
令和四年三月
春興
川菜草(かはなぐさ)をかきわけ行ける春のみづに雪こそ見えねさくらばな散る
木喬
五字+一字の並びがテクニック。「川菜草」は川に生える藻の古名、これをかき分けてゆく春の水に、雪は見えないけれど桜が散る? 違和感が残る歌。例えば…「川菜草(かはなぐさ)をかきわけ行ける春のみづは底の影さえ花ぞ咲きける」

「川菜草(かはなぐさ)をかきわけ行ける春のみづに雪こそ見えねさくらばな散る」

判者評:五字+一字の並びがテクニック。「川菜草」は川に生える藻の古名、これをかき分けてゆく春の水に、雪は見えないけれど桜が散る? 違和感が残る歌。例えば…「川菜草(かはなぐさ)をかきわけ行ける春のみづは底の影さえ花ぞ咲きける」

578
2
令和四年三月
春興
花ゑめば谷に隠れし山みづのいづるこゑにも香ぞうつりける
木喬
「花ゑむ」とは「花咲く」、和歌らしい共感覚が見事な歌。目、音、匂いすべてで春を感じる幸福感のある歌。

「花ゑめば谷に隠れし山みづのいづるこゑにも香ぞうつりける」

判者評:「花ゑむ」とは「花咲く」、和歌らしい共感覚が見事な歌。目、音、匂いすべてで春を感じる幸福感のある歌。

581
2
令和四年二月
立春
ゆづりはの生ひたつ春にあらたしき息すひ詠まんやまと歌の譜
木喬
松や竹と同様、ゆずりはの葉は正月飾りに用いられる。年始にもあったが、立春というまことの新年を迎えて、まさに歌初めにふさわしい歌。

582
2
令和四年二月
立春
旧る年の形見ぞしるく残るらむ霞にうかぶの春の峰かな
木喬
「著く=はっきりと」、まだ溶けやらぬ雪山の峰。今の時期にふさわしい美しい風景

596
2
令和四年一月
冬、年明く
思ふどち吐く息白くつどへねどあらたまの年を詠める嬉しさ
木喬
歌塾のそして詠み人としての新しい門出を祝う、晴れがましい歌。今年こそどこかで集って歌を歌いたいものだ

「思ふどち吐く息白くつどへねどあらたまの年を詠める嬉しさ」

判者評:歌塾のそして詠み人としての新しい門出を祝う、晴れがましい歌。今年こそどこかで集って歌を歌いたいものだ

597
2
令和四年一月
冬、年明く
ふる雪は浪に砕かれ実朝のまつ毛のさきも白く濡れつつ
木喬
海上に降る雪、「砕かれ」から実朝を連想か。それが「まつ毛のさきも白く濡れつつ」とつづく予想もしない展開。連歌の趣のある遊び心のある一首

598
2
令和四年一月
冬、年明く
浜千鳥花の重みの雪かづき浪のへに散る浪をながむや
木喬
「花の重みの雪」が面白い、海原を野辺に例えてさながら花のような波が散るのを惜しむ。しかしとうの本人の頭の上にはこれまた花に見立てた雪がある。面白さが二重三重と工夫されている。

610
2
令和三年十二月
立冬
赤がくる黄がくる山の衣がえいまはかぎりのにしきと思はば
木喬
冬の衣替えは歌にめずらしい。倒置が効いていない、『思へば、思はむ』とすべし。

611
2
令和三年十二月
立冬
冬寒み露草つつむこおりばな踏みて音咲き散りか過ぎなむ
木喬
夏に花をつけるつゆ草に、氷の花がつく。細かな自分だけの美の発見。下の句は不要かもしれない。例えば…「大君(おほきみ)の三笠の山の黄葉(もみぢば)は今日の時雨に散りか過ぎなむ」

613
2
令和三年十二月
立冬
山くだる木の葉の羇旅(きりよ)はなづみつつ時雨をかさね春は土くれ
木喬
『なづみ』は行き悩む、木の葉の旅、美しくあるかなと思いきやと結句『土くれ』と虚しいのが面白い。『万物は土より生じ、土に還る』という言葉もある

「山くだる木の葉の羇旅(きりよ)はなづみつつ時雨をかさね春は土くれ」

判者評:『なづみ』は行き悩む、木の葉の旅、美しくあるかなと思いきやと結句『土くれ』と虚しいのが面白い。『万物は土より生じ、土に還る』という言葉もある

614
2
令和三年十二月
立冬
冬の田は玻璃戸をへだて冴えわたり五徳のほそ火のガスの音たつ
木喬
『玻璃戸』はガラス戸、そこから見えるむなしき田、これを『冴えわたり』としたのが面白い。雪は「しんしん」と降るというが、作者は暖かい部屋のなかで音のない世界で、ただガスの音だけが聞こえる。雪国の冬枯れの風情

「冬の田は玻璃戸をへだて冴えわたり五徳のほそ火のガスの音たつ」

判者評:『玻璃戸』はガラス戸、そこから見えるむなしき田、これを『冴えわたり』としたのが面白い。雪は「しんしん」と降るというが、作者は暖かい部屋のなかで音のない世界で、ただガスの音だけが聞こえる。雪国の冬枯れの風情

615
2
令和三年十二月
立冬
都には冬の囲ひもみえねども山に谷間に雪は積むらむ
木喬
勅撰集の雪は優雅な雪、しかしそれは現実を直視していない。豪雪地帯では雪の害を防ぐために雪囲をする。それは間に合ったのか? 雪はすでに壁のように積まれている。

621
2
令和三年十一月
九月尽
水仕事ゆらりゆるりとあきぬやう冬支度せむ井水はぬくし
木喬
実感を得た歌、声調が和歌らしくないが、このような「ただごと歌」を詠みたいものだ

「水仕事ゆらりゆるりとあきぬやう冬支度せむ井水はぬくし」

判者評:実感を得た歌、声調が和歌らしくないが、このような「ただごと歌」を詠みたいものだ

622
2
令和三年十一月
九月尽
襟をまとふ風は玉梓つたふるは白き秋去り冬冷えの玄
木喬
難解な歌。「襟に絡みつく風が玉梓に伝言する」とある。秋が去り、冬が来たというメッセージか。秋を白、冬を玄とするのは陰陽五行の思想だが、わざわざ色を出す理由が見当たらない。

623
2
令和三年十一月
九月尽
衣打つ吉野山こそくれなゐをあをの松葉に綴り織るらめ
木喬
悩まされる歌。晩秋の風物「砧」と吉野山の取り合わせ。「砧」はアイロンのような役目だが、綴り折るとある。なにか本説があるのだろうか? 「紅葉の衣を横の縦抜き」、「青の松葉」を針に見立てて綴り織るのだろうか面白い。ただそれなら「松葉が」だが、「松葉に」とあるので違うかもしれない。

637
2
令和三年十月
秋の風景
ちぢみゆくさくらぎの葉も高き雲も須臾(しゆゆ)燃えたちて暮るる秋かな
木喬
「袖ひぢて」ではないが、四季を一巡するような歌。春の桜、夏の雲をイメージさせ、それらが秋色に染まり果てていく(「初句」に返っていく構造)。うまい、手練れの技。須臾(しゆゆ)の使い方が妙。「しゆゆ」と「くるる」が気持ちいい。

638
2
令和三年十月
秋の風景
銀のすぢ鬢(びん)にまぢるをあはれめば浅茅野わたる鈴虫のこゑ
木喬
もの思う秋をいっそう深くしてくれるさみしくもやさしい鈴虫の声である。なにかいわれのある句だろうか?

642
2
令和三年九月
ものおもふ秋の夜空に月まろし光(かげ)を頼りにしたたむ文を
木喬

648
2
令和三年九月
初秋
ふぢばかま散りしのち吹く秋風になごりの絮(わた)も闌(すが)れつ翔びつ
木喬

652
2
令和三年八月
土用波とよもす浜に舟やぶれ竜骨の陰を浜牛蒡ゑむ
木喬

653
2
令和三年八月
さよならは六兆哩(ろくちやうまいる)しろたへの袖ぬらしたる星の海かな
木喬