和男の詠草

842
19
令和六年六月
水茎の 夜に岡に飛ぶ 命こそ はかなき恋に つどふほたるび
山翠

「水茎の 夜に岡に飛ぶ 命こそ はかなき恋に つどふほたるび」

判者評:

841
19
令和六年六月
寄草恋
露の身の忘れはしまじ忍草逢はずともなお恋しかるらむ
山翠

「露の身の忘れはしまじ忍草逢はずともなお恋しかるらむ」

判者評:

840
19
令和六年六月
山家郭公
身を隠し山路にむせぶ郭公伏屋におふる帚木のごと
山翠

「身を隠し山路にむせぶ郭公伏屋におふる帚木のごと」

判者評:

812
19
令和六年五月
つれなきにうらみて人をみ熊野の浦の浜木綿重ねてぞとふ
山翠

「つれなきにうらみて人をみ熊野の浦の浜木綿重ねてぞとふ」

判者評:

811
19
令和六年五月
こころざしなからましかばわがこひは深山がくれの朽ち木ならまし
山翠
へだてける人の心にわがこひは深山がくれの朽ち木ならまし
愛情がもしなかったら、わが恋は深い山に隠れた朽ち果てた木であろう。こちらも反実仮想の歌で、同じく内容がわかりづらい。読み取れば「愛情があるので、私の恋は表に表れている」ということで、「恨」の感情は乏しく思える。たとえば「深山なる朽木のごごくこころざし見えなば君に恨まらるべし」

「こころざしなからましかばわがこひは深山がくれの朽ち木ならまし」

判者評:愛情がもしなかったら、わが恋は深い山に隠れた朽ち果てた木であろう。こちらも反実仮想の歌で、同じく内容がわかりづらい。読み取れば「愛情があるので、私の恋は表に表れている」ということで、「恨」の感情は乏しく思える。たとえば「深山なる朽木のごごくこころざし見えなば君に恨まらるべし」

779
19
令和六年四月
三月尽
ゆく春の深山おろしに花はいま笑みのあるじを藤にやるらむ
山翠

「ゆく春の深山おろしに花はいま笑みのあるじを藤にやるらむ」

判者評:

778
19
令和六年四月
会不逢恋
見てもまた逢ふ夜まれなる世の中に慣れにし人の思ひとどめよ 
山翠
見たとしても、逢える夜はめったにない世の中に、慣れ親しんだ人の思いをとどめよ。「会不逢恋」の題にふさわしい詞が用いられているが、意味がはっきりしない。「見てもまた」は「夢」なのか?※実際に会っているのなら「会不逢恋」にかなわない。「思ひとどめよ」は誰が、どこに?など。例えば、「夢さへも/逢ふ夜まれなる/世の中に/慣れにし人の/影もきえゆく」とか。

「見てもまた逢ふ夜まれなる世の中に慣れにし人の思ひとどめよ 」

判者評:見たとしても、逢える夜はめったにない世の中に、慣れ親しんだ人の思いをとどめよ。「会不逢恋」の題にふさわしい詞が用いられているが、意味がはっきりしない。「見てもまた」は「夢」なのか?※実際に会っているのなら「会不逢恋」にかなわない。「思ひとどめよ」は誰が、どこに?など。例えば、「夢さへも/逢ふ夜まれなる/世の中に/慣れにし人の/影もきえゆく」とか。

743
19
令和六年三月
秋浦
因幡路は空澄みわたり水清く雁鳴き渡る秋の浦富(うらどめ)
山翠

「因幡路は空澄みわたり水清く雁鳴き渡る秋の浦富(うらどめ)」

判者評:

742
19
令和六年三月
憚人目恋
初雁のなきこそわたれつつみつつゆく隠れ沼の下にかよひて
山翠
初雁のなきわたる。隠しつつ吹く秋風の下に通って。初雁に自らを重ねた歌。三句目以降、「つつみ(慎み)つつ吹く秋風」の「下に通ひながら」がわからない、秋風を吹かせているのは女性の方か? (和歌では通例で「秋風」に「飽き」が掛けられる)

「初雁のなきこそわたれつつみつつゆく隠れ沼の下にかよひて」

判者評:初雁のなきわたる。隠しつつ吹く秋風の下に通って。初雁に自らを重ねた歌。三句目以降、「つつみ(慎み)つつ吹く秋風」の「下に通ひながら」がわからない、秋風を吹かせているのは女性の方か? (和歌では通例で「秋風」に「飽き」が掛けられる)

701
19
令和六年二月
夜間梅花
うぐひすのまだこぬ夜の梅なれど春の心ぞ香ににほひける
山翠

「うぐひすのまだこぬ夜の梅なれど春の心ぞ香ににほひける」

判者評:

700
19
令和六年二月
後朝恋
わが袖はまたのあしたの別れにて露の宿りになるぞはかなき
山翠

「わが袖はまたのあしたの別れにて露の宿りになるぞはかなき」

判者評:

649
19
令和六年一月
羇旅
串柿の里の景をよめる
山里を染むるは柿の玉すだれ秋をあらそふ錦なりけり
山翠

648
19
令和六年一月
初逢恋
双葉よりあひみむことを思へれば今朝はうれしき涙なりけり
山翠
双葉から、あなたとあふことを思っていたら、(逢瀬を遂げた)今朝はうれし涙がながれてきた。双葉は「双葉葵(あふひ)」からの連想か、上の句と下の句の関連が弱く一首をとおした内容の理解が難しい、また「思へれば」は声調に難あり。たとえば「思ひやれ双葉あふひをひきむすび今ぞかぎりと思ふ我が身を」

594
19
令和五年十二月
不遇恋
つれなきに身を知る袖の村雨の逢はぬ日数をかぞえてぞ降る
山翠
涙のみが我が身を知らしめてくれる。涙の村雨が逢えない日数を数えながら降っている。こちらは「身を知る雨」ならぬ「身を知る袖」であるが、先ほどの「身を知る野辺」と比べれば同意の範囲だろう。涙で濡れた袖のありさまによって我が身を知るということは分かるが、一首全体を眺めると不明瞭は否めない。「涙」とあり「村雨」とあり袖を濡らすものが二つある、また下の句「村雨が逢わない日数を数えて降る」とはどいういうことか。混乱の原因は主語だろう、「われ」と「村雨」の主語をひとつにして、一首の趣旨を簡素にまとめる必要がある。例えば「逢へぬ日をかぞへて降れる村雨に身を知る袖は濡れにぞ濡れし」。場合によっては「身を知る〇〇」へのこだわりを捨ててもいいだろう。

527
19
令和五年十一月
忍恋
月にすむ桂のごとき君みれば身を知る雨のみかさまされり
山翠
月にある桂の木のようなあなたを見れば、身を知る雨の嵩がますばかりである。月の桂の木の「君」は、美しくそして手の届かない女性を喩えるのだろう。「身を知る雨」は我が身の不遇をたとえていう。よって叶わぬ恋をしたばかりに、悲嘆の涙で溢れるということだろうか。ただ「身を知る雨」は相手のつれなさによって降るので、この歌では使い方に若干の違和感がある。

「月にすむ桂のごとき君みれば身を知る雨のみかさまされり」

判者評:月にある桂の木のようなあなたを見れば、身を知る雨の嵩がますばかりである。月の桂の木の「君」は、美しくそして手の届かない女性を喩えるのだろう。「身を知る雨」は我が身の不遇をたとえていう。よって叶わぬ恋をしたばかりに、悲嘆の涙で溢れるということだろうか。ただ「身を知る雨」は相手のつれなさによって降るので、この歌では使い方に若干の違和感がある。

491
19
令和五年十月
初恋
しるべなき道とはかねてききしかど思ひ初めにき夢の浮橋
山翠
案内のない道とは聞いていたが、思い始めてしまった、夢の浮橋を。恋の行方を「夢の浮橋」にたとえた余情深い歌。ただ「夢の浮橋」に頼りすぎている感もあるし、おそらく単純には意味がとおらない。ここは素直に下句を「心さだめて恋ぞわたらむ」とか。(道とわたるは縁語)

470
19
令和五年九月
待恋
うつせみの羽におく露は待つ秋に人を見ぬ目の涙なりけり
山翠

「うつせみの羽におく露は待つ秋に人を見ぬ目の涙なりけり」

判者評:

451
19
令和五年九月
なき人の影すみはてぬ宿のそら仰げば照らす秋の夜の月
山翠

「なき人の影すみはてぬ宿のそら仰げば照らす秋の夜の月」

判者評:

443
19
令和五年八月
ひぐらし
ひぐらしと呼べども秋のうつつには朝な夕なに限りてぞ鳴く
山翠
「日暮(ヒグラシ)」と呼んでいるけれども、秋の現実には朝夕に限って鳴いている。「日暮」(一日中)という名でありながら、しかし現実的には朝夕の限られた時間帯にしか鳴かない、という名を所以とした俳諧歌。

「ひぐらしと呼べども秋のうつつには朝な夕なに限りてぞ鳴く」

判者評:「日暮(ヒグラシ)」と呼んでいるけれども、秋の現実には朝夕に限って鳴いている。「日暮」(一日中)という名でありながら、しかし現実的には朝夕の限られた時間帯にしか鳴かない、という名を所以とした俳諧歌。

402
19
令和五年七月
日光二荒山神社 神橋(しんきょう)を訪ねて
神のます山下とよみ行く水のみはしによりて道ぞひらける
山翠
神祇の歌。蛇王権現(だおうごんげん)の座す豊かな川は、そのお作りになった端によって道が開かれた、日光の有名な神橋(しんきょう)の所以が詠まれている。上句と下句の接続が不安定、「神のます山下とよみ行く川は」とする。その上で「みはしによりて道ぞひらける」となるが、結句が「ぞ」があるため「道ぞひらけるる」となるので「開(あ)かるる」として、「神のます山下とよみ行く川はみはしによりて道ぞ開(あ)かるる」と直す。

「神のます山下とよみ行く水のみはしによりて道ぞひらける」

判者評:神祇の歌。蛇王権現(だおうごんげん)の座す豊かな川は、そのお作りになった端によって道が開かれた、日光の有名な神橋(しんきょう)の所以が詠まれている。上句と下句の接続が不安定、「神のます山下とよみ行く川は」とする。その上で「みはしによりて道ぞひらける」となるが、結句が「ぞ」があるため「道ぞひらけるる」となるので「開(あ)かるる」として、「神のます山下とよみ行く川はみはしによりて道ぞ開(あ)かるる」と直す。

382
19
令和五年六月
ひととせの思ひによせてあくがるる蛍はなどて闇に恋ふらむ
山翠
一年の思いに心をよせて魂が抜け出るような心地の、蛍はなぜ闇を恋するのだろう。わかるようで難しい歌である。思ひを寄せるのは、魂が抜け出るのは蛍か、詠歌主体か、闇は何かの暗喩か、もしかすると魂がそのまま蛍なのか、不明瞭な構成である。単純に結句に結論を求めるならば、「ひととせを土の下にぞくらしけるさても蛍は闇を恋ふらむ」

363
19
令和五年五月
昭和の日
昭和の日、国営昭和記念公園を訪ねて
寿ぎの日に青嵐吹き騒ぐしのぶよすがはすめろぎの蔭
山翠
『青嵐』は青葉のころに吹くやや強い風、せいらん。想いしのぶ頼りはすめろぎ(天皇)の蔭だけであるよ。『国営昭和記念公園』は昭和天皇在位50年を記念して造られた国営公園、吹き騒ぐ青嵐とは世間の喧騒であろうか。そんな中、作者はひとり昭和天皇の影を慕ってその御代を偲んでいる。天皇への信仰心を強く感じさせる歌である。

356
19
令和五年五月
花橘
橘樹神社(タチバナ神社)をたずねて
身に代えて君をささへし橘の花咲く庭に媛のおもかげ
山翠
和歌で「橘」といえば先の「五月待つ」が常套でいわば神格化されているわけだが、それ以前にも「橘」に由来する物語があることを学んだ。「代えて」は「代へて」、内容など直すところがないが、あえていうならば「庭」では少々野暮なので「杜」としてはどうか。

「身に代えて君をささへし橘の花咲く庭に媛のおもかげ」

判者評:和歌で「橘」といえば先の「五月待つ」が常套でいわば神格化されているわけだが、それ以前にも「橘」に由来する物語があることを学んだ。「代えて」は「代へて」、内容など直すところがないが、あえていうならば「庭」では少々野暮なので「杜」としてはどうか。

337
19
令和五年四月
雑春
「母の法要にて」
我が庭に咲く桃の花ほととぎす鳴く音な添へそ母の形見に
山翠
お母さまの法要の時期に咲く桃の花に合わせるように、ほととぎすよ鳴いてくれるな、という哀切の一首。「ほととぎす」の声には多様な意味がある、「夏を知る」など知られるが、ここでは山路の案内人として、思慕を掻き立てる声として詠まれている。難は「桃の花」は初春、「ほととぎす」は夏の景で、晩春という題には沿っていない