藤原定家

藤原定家の和歌

価値観の変遷と歌風の変遷をめぐる

この小論の対象は藤原定家の価値観の変遷及び和歌の作風を言葉の用法の面より辿ることにある。それに到るまえに、簡単な伝記、文学史上の業 績等について若干ふれたい。

藤原定家は応保二年(一一六二年)に俊成四十九才の時の子として生まれ、仁治二年(一二四一年) 八十才で歿した。彼の生きた時 代は国史上の分類では鎌倉初期にあたる

定家の父、俊成は永久二年に生まれ 《新古今和歌集≫撰進の前年元久元年に九十一才で歿した。生涯に於て達し得た最高位は正三位 皇太后宮大夫である。また彼は藤原道長より数えて五代目にあたる。歌人としては今戴和歌集の撰者として今日迄知られて居り、 当時の歌壇で多くの尊敬を集めていた。俊成の時代の歌壇は清輔等の六条家と俊成の御子左家との抗争が激しかった時代である。しか しながら永万二年(定家六才)に行なわれた中宮亮重家朝臣家歌合には俊成が判者に迎えられている。重家は清輔の弟である。

年(定家十五才)に右大臣家歌合(九条兼実)が行なわれた。歌合の判者は清輔である。この二つの歌合の間が両家の権威の移行期と 見てよい。この翌年に清輔は歿した。この後も六条家と御子左家との間に抗争はなお続くが、歌壇の中心は俊成に移った。なお、俊成 が九条家に親しく出入したのは、清輔の歿後である。

定家の母は若狭守藤原親忠の女である。 美福門院の女房であり、加賀と呼ばれた。最初大原三寂の一人、為隆に嫁し、康治元年隆信 を得ている。為隆は翌年出家している。親忠女が俊成と再婚した年は不明である。歿年は建久四年であり、約七十才と推定されている。 定家の兄弟で名前が判明して居る者はかなりの数にのぼる。同腹の兄弟姉妹の中には《健寿御前日記》の著者として知られている八 条院中納言もいる。

定家の妻で確実な者は二人いる。季能女と実宗女である。後に家を継いだ為家は実宗女との間に生れた。

俊成に始まり、定家、為家と続いた歌の家は四代目に於て、為氏(二条家)、為教 (京極家)、為相(冷泉家)の三家に分立し、様様 の抗争を繰り返しながら室町時代に到った。

定家は幼名を光季と云った。仁安元年(定家五才)に従五位下に叙せられ、名を季光と改めた。定家となったのは翌年、 紀伊守に任 じられた折である。定家が生涯に於て達し得た最高位は権中納言である。貞永元年、七十一才の時である。定家の家系は俊成を除き、 代代大納言、中納言の家柄である。 定家も家系の例外ではなかったが、この地位に達するまで、特に四十台の終りまでは長い期間にわ たり、低い地位に甘んじた。この点定家の子、為家が三十九才で権中納言、そして更には権大納言となったのとは対照的である。

定家は十四才で侍従となった。十四年後、文治元年に左権少将、それから十二年後、四十一才の建仁二年に左権中将、内蔵頭となっ たのが更に八年後の四十九才の承元四年である。この昇進の遅かった前半生に於ては、他方経済生活も恵まれてはいない また、健康 もそこねている。これら不遇の生活を定家は細かく日記に書き残している。

後半生の定家は、社会的地位の面に於てはかなり恵まれていた。建暦元年、五十才の折に従三位となり侍従に再任されている。三年 五十三才で参議となり、更に伊豫権守、治部卿、民部卿、播磨権守、等をへて、六十一才で従二位、五年後に正二位となっている。

権中納言に任ぜられたのは貞永元年正月、七十一才の折であるが、同年十二月にはこれを辞している。翌年天福元年に出家した。 法名を明静という。

なお定家は宮中に出仕する他に、若年の頃は九条家に家司として仕えている。九条家は定家の和歌の発展の上でも重要な背景であ る。定家の社会的面で援助者として大きな比重を占めているのは、晩年に於ける西園寺家である。これに反する立場の者、敵対者には 中年の頃の久我源氏がある。

さきに述べた如く定家の生きた時代は国史の分類での鎌倉時代初期、或るいわ前期である。定家の歿年、仁治二年は泰時が執権の頃 である。いうまでもなくこの時代は、武士がその社会的権力を政治制度として定着した時代である。定家十九才の治承四年に諸国の源 氏が挙兵し、二十四才の文治元年に平家は滅亡している。この一連の事件は定家の生涯に於ける第一の社会的な出来事である。彼の日 記である《明月記》治承四年九月の条に、

世上乱逆追討雖満耳不注之 紅旗征戎非吾事

とあるのはよく知られている。

定家三十八才の折に頼朝は他界している。その後、貴族の手に武士より権力を奪回する動きがあり、その結果が定家六十才の承久三 年の変となった。それは衆知の如く京都側の敗北となった。これが定家生涯の第二の社会的出来事である。

この他に社会的な動きとしては久我源氏の抬頭、或は実朝の暗殺などある。

宗教上の変革としては、念仏宗の流行、及び禅宗が支持者を増したことなどがあげられる

定家の文芸上の業跡は多岐にわたっている。そして量の上でも群を抜いて多い。和歌、歌論、撰歌、歌合判詞、古典の校勘等がある。 また《松浦宮物語》も定家の作と考えられている。文芸作品とは云えないが治承四年十九才から嘉禎元年七十六才までの五十余年間に わたり書き記された日記《明月記》がある。

定家の家集を「拾遺愚草」という。上中下の三巻及び員外の計四巻より成っている。その成立は上巻の奥書に説明されている。拾 遺愚草≫に先立ち百番の自歌合が為された、それが編纂の直接の動機である、詠作を始めた≪学百首》の頃、拾遺の官(侍従の唐名) に居り、家集を編纂の時、またその官に再任されている、これが書名の由来である、とこのように記されている。年代は建保四年三月 十八日と記されているが、家集にはこれ以後の歌も多い。故に建保四年は一応の構想の整った年と見られる。本書は冷泉家に自筆本が 伝わっており、この自筆本を基として、冷泉為臣氏が自筆遺草、《明月記》、撰集、諸家集、歌合等の中に含まれている詠作、及び伝定 家卿詠歌(未来記、雨中吟等)を増補し刊行された 《藤原定家全歌集≫には四五七一首の歌がある。このうち伝定家卿詠歌は五二八首 である。信んずべきは四〇四三首となる。この他に近年刊行された《未刊中世歌合集》(谷山茂、樋口芳麻呂氏編)に五首従来未収録 の歌がある故、詠歌の総数は四〇四八首となる。

歌論も多く伝わっている。 定家作として疑わしい書物も相当量ある。近代秀歌》 《詠歌大概》《毎月抄》の三巻は信頼出来る。特に 近代秀歌は自筆本が伝わっている。

定家の撰した勅撰集は二集ある。《新古今和歌集》と《新勅撰和歌集》である。前者は源通具、藤原有家、藤原家隆、藤原雅経、寂 蓮、定家の計六人で撰した。後者は定家の単独撰である。勅撰集の他の大部な撰歌としては二四代集がある。この他にも撰歌は数多 い。多少の疑問も残されているが《小倉百人一首なども定家の撰である。

註1 定家の家系に関して石田吉貞氏の 《藤原定家の研究に最もくわしい。多く参照した。

経済、健康に関しても石田氏の著書は詳細である。 多く参照した。

歌を詠ずることの価値即ち行為の価値と、詠ずるに価するもの、詠ずる内容の価値とは異なる。価値の問題としては、これらの他に 詠作によって得るものの価値もある。それは作品それ自身、及び作品の社会に於ける評価に対応して得られるもの、例えば名声、地位、

詠作の技法も作品の内容の価値を支えるものとして、価値の問題に含めて考えたい。これら各様の価値が魂により統一 され作品として完成し我々の前に提示されてはいるが、価値の統一以前、完成される以前に於ては、行為の価値、行為の価値を委ねる 行為の対象の価値、技法、行為により得るもの(作品ではなく、より物質的な利得)の価値を分離して考える。 定家の和歌創作の生涯を 観察すると、作品に於ける価値の統一のされ方が一様ではなく、その多様な段階を通じてこのような命題に達する。そして定家の価値 観の変遷が歌風の変遷と年代の上で近接している。即ち、1建久初期迄の時期、建久中期より元久、承元頃迄の時期、建暦以降、 註 の三期である。強いて区分点の明確さを期するなら 百番歌合》と《新古今和歌集》の二つの文壇上の出来事を以って区切られ

区分はそれ自体には価値はない。区分の対象を文芸に限定するならば、区分は我々の感受性乃至は認識を整理することを目的とす る。区分、整理、分類等は我々が他者にむかい語りかけた時に意義を生ずる。その価値は目的論的なものと判断される

七十才を過ぎる迄詠作を続けた定家の歌人としての出発点は、作品に残されている限りに於ては、定家十七才治承二年の<賀茂別雷 社歌合Vである。俊成の家集長秋詠藻もその年に成立した。六条家の清輔が歿したのはその前年である。

養和元年(二十才)に定家は最初の百首歌<初学百首Vを、そして、翌年<堀河百首Vを詠出している。 <堀河百首Vは家集の員外 に収録されている。文治建久の頃は(文治元年定家二十四才、建久九年定家三十七才)『新儀非拠達磨歌』と云われた、正治建仁の頃は(正 治元年定家三十八才、建仁三年定家四十四才)主上の勅愛を受け、そして家跡を継ぐことが出来たとある。

和歌に於ける定家の生涯に、何等かの形で影響を与えていた人々には、例えば、隆信、寂蓮、家隆の如き親属がいる。また九条家の 慈円、良経、或は西行の如き理解者もある。しかし、定家の関心は俊成、後鳥羽院の二者に強く向いている。この二者は、定家が自分 自身を判断する場合その基準となっている。俊成は定家の歌人としての出発点に影響を与え、しかも終生念じた家跡を継ぐ意識の母胎 となっている。後鳥羽院は中年の定家にとって家跡を継ぎ得たか否かの基準である。院は最初定家の理解者であるが、後年はかなり厳 しい批判者であった。それは《後鳥羽院御口伝》により明らかである。 後鳥羽院、俊成を定家がどのように受けとっていたかは二十才 台の自己を回顧して晩年に記した<堀河百首Vの序文によっても判明する。

「初学百首」、「堀河百首」以後の定家は二十才台を習作ともいうべき詠作に費している。それらの頂点は文治五年より建久二年(三 十才)までの三年間である。

この十年間の定家の詠作の目的は、表現の技法を身につけることであった。それは百首歌等の連作の題のとり方、構想、詠作に費し た期日などから判断される。例えば<堀河百首Vの如く多様な題を詠みわける技法、反対に花月百首の如く僅か二題で百首を詠む 技法、或るいは速吟の修練等である。そしてこれら技法の修練を通じて定家は詠作に価する対象を見出そうとしていた。但し、詠ずる 内容は不定であった。 詠作に積極的であるところから、行為の価値には無反省であり、詠作によって得たものは作品以外にはなにもな い。地位、名声、富すべてない。

建久二年の詠作には家集の員外に加えられているものが多い。員外の成立は正篇三巻以後である。その目次のところに、家集には一 首も入れないが、両首は撰り入れる歌があるので書した、とある。家跡を継ぐに到り何等かの形式で歌の典型を伝える、との意図で正 篇三巻の家集が編まれたとしたなら、員外一巻は後世の歌人に習作の過程を示す為に編まれた書物であろう。百首百題の典型<堀河百 首V、難題百首とさえいわれる八藤川百首V、速吟の大作などが含まれていることがこれの証となる。

建久初期に到るまでの約十年間、そのうちの前半が父俊成の直接の影響下にあったことは、先哲により指摘されている。後半、即ち 文治の頃よりは、俊成の影響下より脱して、後年の独特の歌風の基礎を堅めている。 定家自身も述懐している如くに、この期は詠作が 「達磨歌」と難ぜられた時期である。彼の理解者も身近な人々、隆信 (二十才年長)、家隆 (十四才年長)、良経(七才年少)

最晩年の西行(四十四才年長)に限られていた。特に西行は自歌合である宮川歌合の判定家に行なわせている点からして、理解 が深く、定家にとっても心強いことであったろう。この頃の定家の歌に例えば次のようなのがある。

み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苦屋の秋の夕ぐれ(二見浦百首・二十五才)

そしてこの約十年の歌壇の動きとして、千載和歌集》の成立、西行の他界等がある。社会的出来事としての平家滅亡もこの期間内 のことである。

建久の中期以後は定家が徐々に一般に認められて来た時期である。作風の上からは八六百番歌合Vに於ける歌風の展開が注目され る。また、定家身辺の出来事としては、定家の母の他界がある。これは定家の歌と現実の感情とが結びつく因となっている。その時、 俊成ととり交した歌に

たまゆらの露も涙もとどまらずなき人とふる宿の秋風(建久四年)

建久四年(定家三十二才)の八六百番歌合は文治より建久初期にかけての定家の修練の結実である。和歌史上に於ては、十数年後 に撰進された<新古今和歌集≫成立の第一段階である。 <新古今和歌集Vに撰入された歌も多い。左大将九条良経邸で行なわれ、判者 は俊成であった。

その頃の定家は多少認められていたとはいえ、それは親しく出入している九条家、或はその周辺に於てにすぎない。 定家が念じてい たであろうように認められたのではない。しかし、八六百番歌合V以降の約十年間に最も優れた歌が幾つか創られている。その頂点は 建久九年(定家三十七才)の八仁和寺五十首Vである。例えば次のような歌がある。

春の夜の夢のうきはしとだえして峯にわかるる横雲のそら

正治二年(三十九才)は歌人としての定家の社会的面に於ける画期的な年である。この頃より後鳥羽院を中心とする歌壇の動きが活 溌となり、定家もその歌壇の中に加えられた年である。 まず八月には<院御百首の作者に加えられている。

歌人の第一人者二十三名に百首歌を詠進させたものである。 定家が作者となるについては源通親等の妨害もあったが、俊成の奔走によ り員数の中に入れられた。 定家の詠進した歌は院の御感を得、翌日定家に内昇殿を許す旨の勅旨があった。

為道面目幽玄、為後代美談也

と日記に喜びを書している。

この<院御百首Vを境として、定家の詠作の場は九条家より院を中心とする歌壇に移った。正治二年九月には仙洞十人歌合の作 者となり、翌年二月には老若五十首歌合Vの作者となっている。後年家集の員外に先述の如く、

及正治建仁蒙天満天神之冥助 聖主聖朝之勅愛

と記したのはこの間の事情を指している。

建久四年の八六百番歌合Vを<新古今和歌集>への第一段階とするなら、正治二年の院御百首に始まる後鳥羽院歌壇の動き、翌 建仁元年の八千五百番歌合、和歌所の設置等は第二段階である。勿論定家は八千五百番歌合≫の作者となって居り、和歌所の寄人と もなっている。

<新古今和歌集V撰進の院宜が前記和歌所寄人の中より定家などの六人の撰者に下されたのは建仁元年の十一月である。そして撰者 よる歌集が成立したのは四年後の元久二年(定家四十四才)である。 <新古今和歌集Vはその後も後鳥羽院により切継がれ、歌の出 入が行なわれた。現今の体裁を得たのはそれより更に五年後の承元四年頃と推定されている。院による新古今和歌集の切継は後年 二者の間を離反させる因となった。

歌に理解が深かったとはいえ院にとって歌道は定家に於ける歌道ほどの比重はない。生活のごく一部であり、専ら力を注がれたとこ ろは後に具体化した政治的な面、失なわれた皇族、貴族の権力を武士の手より取戻す事であった。また歌に対する趣向、判断、例えば の心に於ける見解も定家と異なっている。社会的地位に到っては雲泥の差である。全ての面に於て異質である。それ故、院と定家の 離反は当然の成行とも云える。

ともかく家跡を継ぐこと、 俊成の後継者となることを歌道修練の目的の一つとしていた定家にとって、正治建仁期に、最高権威者

ある院の勅愛を得たことはその当時非常な満足であったにちがいない。俊成の後継者となり得たことの証しを後鳥羽院によって得たと 定家は考えたにちがいない。もし定家の生涯を歌人としての社会的立場から区分するなら、院御百首Vの頃を以て分つのが至当であ る。即ち九条家などの貴族歌壇で詠作した時期、院或いは内裏などの歌壇で詠作した時期の二つの時期である。が、作風の上からこの 二期はそれ程の相違はない。詠作の状況の異りは和歌の上に反映しているが、 <六百番歌合以後の建久期の歌と正治建仁期の歌の異 なりは、建久期と文治期、或は正治建仁期と建保期程の差となっていない

院と定家は異質の歌人であると述べた。 それなら何故に院は正治期の定家を院歌壇に受け入れたのか。一つには俊成の力もあろう。 院は俊成を厚遇しておられる。 建仁三年の俊成の九十賀が院の思召によったことなどその一例である。また定家が<院御百首>に加え られたのが俊成の推挙によることからも類推される。が、それらの事実は院と定家の関係の全てを明らかにはしない。何故なら後鳥 羽院御口伝Vの記述は、定家について最も詳細である。他の歌人に対する院の批判は歌人として或は社会人として一段高い点より為さ れているが、定家に関しては強いて高い立場であることを主張しているように思える。それは院の関心が定家に注がれていたことを証 すものでもあろう。院の歌壇とそれ迄の歌壇、例えば九条家の歌壇とはその構成のされ方が異なる。九条家の歌壇は、良経、慈円、 成、定家、家隆、寂蓮など同一の流派が中心となっている。有家、顕照などは異流派であることを自他ともに意識して参加している。 そこには後鳥羽院歌壇の如き明確な中心はない。歌の指導者は俊成であろうし、対人関係の中心は良経であろうし、歌風の上では俊成 影響下の複数であろう。しかし全てを統一する人は不在である。他方、院の歌壇に於て、これらが全て逆となっている。 和歌所の寄人 の構成も院の趣向が反映していても、寄人という立場に於ては正統も異端もなく対等である。そして中心は院により明確に示されてい る。一般貴族歌壇が各家の私的立場を反映しているのに対して、院歌壇は院という名の下に成立してるが故に公の存在である。それら は、例えば八六百香歌合が俊成の単独判であるのに対し、厖大であるとは云え<千五百番歌合が十人の分担による判であること、 判者が各派にわたっていることからも理解される。また、時の方向ではあるが、歌合に衆議判の傾向が見えることからも理解される。 このような総合的歌壇の一員として定家は受け入れられた。中心は院である。しかし定家は新古今和歌集》成立までは他の歌人に 比し重く用いられている。地位が高く自責心の強い院のもてなし方と、同様に自尊心は高いが微官の定家のもてなされ方、院からの処遇の受けとり方に行き違いがあった。院の定家に対する評価と、院歌壇に於ける定家の自己評価が食違っていた。院のもてなし方は厚 かったが、それは歌壇の重要な一員としてのそれであろう。 家跡を継ぐことを念じていた定家にとって、院の厚遇はそのまま、二十年 余にわたり俊成が維持していた指導的立場への幻想をいだかせた、少なくともそれへの直接の足がかりと受けとれた。だが、事実を識 ったのは新古今和歌集の切継の折であり、自分の見込違いを知らされた。それが

の如き<明日記》 の記述となっている。また「堀河百首」に後年書した

の如き、建保年間以後の歌人としての定家の立場としては意外な程ひかえ目の述懐ともなっている。

しかしながらこの期の定家は歌を詠ずる行為の価値或るいわ理由に何の疑問も持ってはおらず(但し、これは元久迄の時期に於てで ある)また、詠ずべき内容も見定めており、内容にふさわしい技法も得ていた。詠作によって得る作品以外のもの、目的論的価値は、 第一期よりは得ているが、定家が望む点、家跡を継ぎ得たか否かに関しては不充分である。《新古今和歌集の切継の事実を定家はそ のように判断している。この点に関しては第一期と結果的に同質である。以上の事によりこの期は次の点に於て第一期と区別される。 1詠ずべき内容を得ていたこと、2詠ずるに必要な技法を有していたこと、以上の二点である。それ故、この期は和歌を中心に見た場 合、第一期よりの文学的な発展と考えてよい。

この期の定家の業積に含められるものに、近代秀歌がある。 定家の著としては最も信んずべきものであり、また現在伝わる彼の 歌論の中で最初の作である。承元三年に実朝に献じた、と鑑にある。文壇の動きとしてはすでに記した事柄の他に、俊成の古 来風体抄の成立があり、歌壇の損失としては式子内親王、寂蓮、俊成、隆信、良経が歿している。政治的には頼朝の他界、久我源氏 の抬頭、そして久我源氏の当主、通親の死がある。

定家五十才の年は建暦元年である。この建暦元年に到る数年間は詠作に乏しい年である。正確に云えば現存する作品が少ない。が、建保承久年間(五十二才~六十才)にはかなりの作品が残されている。 就中、三年、六年には二百首以上の歌を詠んでいる。 承久三年 以後(六十才以後)の十年間は著るしく詠歌が少ない。そして最晩年の貞永元年に最後の大作<関白左大臣家百首Vを残している。 建保承久年間は順徳天皇の代である。内裏に於て数多くの歌合が行なわれている。歌壇が院より内裏に移動した。院は和歌より多少 遠ざかり、俊成が他界したこの頃は、定家が家隆と並び歌壇の指導的立場に立った。順徳天皇と定家の間は、後鳥羽院と俊成の間に比 較出来るものがある。が、後鳥羽院と定家との間柄は遂に俊成とのそれの如くにはならなかった。 定家は内裏をはじめ、各家各社の歌合 に列し、或は判者ともなっている。しかし、詠作に対し意欲的であったとは云い難い。連歌を愛好する傾向が強く、行為の方向が、「学ぶ」 ことよりも「楽しむ」ことに向っている。 詠作に対する感想として「太難堪」という語句、或はそれに近い語がしばしば見られる。例えば 如此数寄 老臣太難堪 無入興思━中略━鶏鳴退出 心神失度 太無益之道也、但今夜始終無片雲(建保元年九月十三日) などとある。このようにこの期の定家は歌の価値よりも、詠作それ自身、行為の価値を見失なっていた。

他方、歌によって得られるもの、詠作の目的の一つであった家跡を継ぎ得たか否かについては、先に引用した如くに、ひかえめであ るが自認している。更に、俊成の後継者としての定家が後人に残すことを目的として家集を編んだことは、この点を一層明らかにして いる。しかし、念じていたことの何程かを達し得たと感ずることがかえって次の行為に対する価値を見失なう因ともなっていよう。 大 きな目標を達成し得なかったことへの挫折感と、目的の僅かを達し得たことに対する小さな安堵が、未来への飛躍を放棄させ、過去を 価値附ける方向に定家を向わせた。とはいえ、それら定家の個人的な事情を離れ彼は歌の価値は充分究めている。周囲の人々もそう考 えた。知名人に献ぜられた歌論、撰歌集の多くが、 「無益之道」という語句とは反対にこの期に多く成立していることはその証左であ る。しかもそれが十体論の如くに、内容的に巾広く、従来の歌論よりも組織的になっている。この点彼の感受性が知的に整理されてい ること、観念化されていることを示している。歌について云えば、その頃の定家はそれ以前よりもなお確実な技法を駆使している。 以上の点を総合すると次の如くなる。歌に詠ずべき内容は熟知しているが、彼の実作或るいわ感情を離れた地点に於てであり観念化 されている。技法はより着実なものとなってはいるが、前代よりの継承と見てよい。技法が確実なものに見えるのは、感情の動揺が少 なくなったが為である。感情の揺めきとひきかえに得たものである。これら二点、内容、技法に関してはかなり異なっている。が、それは感情の裏付けがあるかないかの問題に集約出来る。感情の裏付けの有無の問題と関連するが、価値観が明確な対比を持っているの は、定家が詠作それ自体の意義、行為の価値に疑問を持っている点である。これは先の建保元年の《明月記の記述を一例としてお この行為の価値の点に関連する他の問題は、詠作の目的論的価値に関してであるが、それは定家が念じていた程でないにしろ得て いた。内裏歌壇での定家の位置、家集の成立は多少はそれの証しとなる。

建保承久期の詠作でよく知られているものには次のような歌がある。

とぬ人をまつほのうらのゆふなぎにやくやもしほの身もこがれつつ(建保四年内裏歌合)

承久迄の歌壇、或は文学史上の事実としては内裏歌壇の動きの他に、八方丈記><金槐和歌集><宇治拾遺物語><愚管抄V<平家 語V等の成立がある。他方、長明、有家、実朝などを失なっている。栄西もとの間に他界してい

承久の変以後の定家は最晩年の貞永の頃を除き、詠歌をあまり残していない。それは詠作に積極的でなかったことが理由である。ま た外的な理由として、詠作の機会に恵まれなかったことがある。後鳥羽院等和歌に熱心であられた三上皇が遷幸されたことが第一の原 因であり、新古今和歌集》への道程を切開いた多くの歌人が物故したことが第二の原因である。勿論、貴族の和歌への無気力も原因 となっている。 詠作への積極性を失なっていても、定家は和歌への関心を失なったわけではない。建保承久期の延長として歌論、撰歌 などを表している。また古典の校合、写経なども行なっている。

貞永元年六月(定家七十一才)の折に後堀河天皇より定家に勅撰和歌集撰進の勅命が下っている。これが奉覧されたのは定家七十三 才の天福二年(文暦元年)である。これが新勅撰和歌集》である。

《新古今和歌集≫に比し 《新勅撰和歌集》の歌風は枯淡平明なものだ。 この歌風は後に二条家の歌風として受継がれた。新古今和

と≪新勅撰和歌集》の著るしい異なりについて古くから各様の説がある。整理すれば次の如くなる。1定家の歌の理念及び撰歌 態度(理念及び、主として対外的な思惑を加味した態度)に変化があったとする説。 定家の理念、態度の変化とはあまり関係がない とする説。例えば 新古今和歌集》を後鳥羽院の親撰と見なし、二つの和歌集を院と定家の理念の異なりであるとする見解。当時の 歌壇の風潮の変化、或は歌人の力量の差に原因があるとする説。其他、多少の含みの異なりを持つ多くの説がある。

文芸と呼ぶに価するものは時代を越えて我我に呼びかけてくるものである、という既製の命題を前提とするならば《新勅撰和歌集> は新古今和歌集〉に比し劣る。文芸価値に乏しい。それの原因の大部分は歌壇的な事情にあろう。例えば、八六百番歌合Vからの時 期を新古今和歌集》の準備期と見なすなら、その最終的成立迄には十八年を要している。他方 《新勅撰和歌集》の場合は五年程にす ぎない。また、その形成期には新古今時代の有能な歌人は、定家、家隆を残して全てを失なっている。しかも、失なった歌人達の後継 者に価する歌人達は輩出しなかった。新人と旧人とを比較すると失なわれた価値の方が高い。最も注目される筈の実朝でさえすでに他界 していた。このような悪条件下ではあるが 新勅撰和歌集》はよい意味にも悪い意味にも当時の歌壇を説明する勅撰集である。それ故 註2 この場合も『定家は時代とともに生きる歌人』であるとの評価が適切となる。また定家の和歌、歴史、時流に対する態度が総合的であ るというのも妥当である。が、結果論となるが総合的というのは成果の上がった場合である。結果が良いとは、例えば十体論の如き場 合をいう。対象に対し強く働きかける主体を持ち得たと推定される場合である。十体論に於ては有心体の理念に定家の強い信念が表白 されている。しかし、新勅撰和歌集の場合には総合的態度の悪い面が表れている。迎合的或いは妥協的であるとは思えないが、 のような評価が起り得るかの如き印象を与える。文芸は時代精神を汲みあげ、それを言語の中に形象する。その面で恐らく新勅撰和

は成功している。京都歌壇、鎌倉歌壇とを比較して、集中の和歌の採り方は、《越部禅尼消息》或いわ後世の書物であるが当時 の風評を伝えたと思える《井蛙抄》等の記述が妥当とは思えない。にもかかわらず、定家の態度が妥協的、迎合的であるかの印象を与 えがちなのは、「時代に生きる」「総合的」歌人としての定家の行為の成果が、新古今時代に比し涸渇した時代を背景としたため新 古今和歌集》とくらべあまりに惨めであったからに他ならない。

定家は天福元年(七十二才)の時出家し、法名を明静とした。隠岐に遷幸となって居られた後鳥羽院は定家の出家を驚かれたという。 この時期には若干の詠作と歌合の判がある。しかし、専ら古典の書写校合、写経に日時を費していた。長く続いた日記《明日記》も 七十四才の年を以て終っている。

歿したのは仁治二年八十才の時である。すでに、家隆、後鳥羽院、 秀能等が他界していた。

以上、定家の価値観を推定し、それによる区分の素描を試みた。

第一期(六百番歌合以前の時期)

1詠作に価する内容はまだ見出していない。

2詠作に必要な技法も充分ではない。

1詠作の行為自身に関しては無反省である。

4詠作により何も得ていない。(家跡を継ぎ得たか否かの目的論的価値の領域)

第二期(≪六百番歌合》より現今の体裁の新古今和歌集》成立迄の時期)

1詠作に価する内容を見出した。(作風が安定して来た)

2詠作に必要な技法も得た。

6第一期と略同様。

4第一期と略同様(一且は目的を達した如くであるが、《新古今和歌集》撰進以後の失意は第一期と同様)

第三期(《新古今和歌集》切継完了以後)

1第二期と同様。(但し観念化した)

2第二期と同様。(但し感情の裏附に乏しい。)

詠作の行為自体に疑問を持った。(歌数の多少にかかわらず、詠作に対する積極性に乏しい)

4家跡を継ぎ得たか否かに関しては内裏歌壇に於て僅かに満足を得た。しかし、一旦失意の時期を経た定家にとって、庶幾の目的 を一応達したとはいえ、充分な満足ではない。

右の1264の価値の領域は、12が美的が倫理的、4が目的論的であると云い得る。

これら三期区分が定家の歌風と略一致すと述べた。 定家の歌風の変遷の印象を述べれば彼の長い歌歴に於て他と異なる一期がある。

歌題や部類を念頭に置かずに読む時、その歌が如何なる部類の歌か区別し難い、そのような歌を多く詠んだ時期がある。恋、述懐の歌 として詠まれた歌でも季の歌の如くに受けとれる歌がある。 季の歌として詠まれた歌であっても、恋、述懐の如く印象附けられる歌が ある。その様な歌が集中的に現れるのは六百番歌合》以後であり、《新古今和歌集》成立の頃迄である。何故にその期の歌が他と区 別されるのか、それを定家自身の内外の事情を一旦離脱した点に於て作品を扱い、その原因を見出したい。それは印象の分折である。 個人の印象の原因をつきとめることである。が、定家の歌について考える上での有力な手がかりに違いない。

註1 定家の生涯 歌風に関しては各様の区分が考えられる。 川田順氏は四期区分であり、二十才~二十六才 (千載和歌集奏覧迄の時期) 二十 七才~四十四才(新古今集奏覧迄の時期) 四十五才~六十才 (承久の乱迄の時期) (六十一才~八十才 (歿年迄)として居られる。森直 太郎氏は三期区分である。十七才~三十二才(母の歿年迄) (三十三才~五十五才 (家集成立迄) 五十六才~八十才 (歿年迄)として居 られる。石田吉貞氏の場合は詠作数の消長、技法上の変化を根拠として、1十七才~三十五才、1三十六才~六十才、六十一才~八十才、の 区分を試みられ、それらの中をまた分割されている。近くは久松潜一氏の藤原定家(日本歌人講座)により、歌人時代(四十五才迄)、 6歌論時代(四十五才~六十才)、 古典研究、歌学時代(六十才以後)の説が提示されている。

文脈に於ける言葉は漫然と置かれているのではない。文法的には主述関係、修飾関係等の機能を持ち、内容的には何等かの意味を負 うて使用されている。

言葉は文学者の占有物ではない。社会現象である。言葉が社会に可能的に存在する場合即ち特定言語共同体の国語大系の中に或る語 が含まれていることは知られていても、まだ現実に使用されない場合、その語の意味は多義的である。しかし、使用されている場合は 一義的、或るいはそれに近い。単純な文、または認識的文に於て言語は一義的であり、含みの多い文、または価値的文に於ては一義的 であるとばかりは云えない。限定されているが複義的であったり、意味の方向附けはされていても多義的であったりする。文芸作品の

文は後者の種類に属する。それは語が語の対象と同時に話者との結び附きもまた強力であるからだ。文芸作品では十人十色の受け取り 方をしたり、甚しきは作者の意図しなかった事迄も読者は受け取ったりする。しかも、それがそれ程に珍らしくなく、時には当然の事 とされる。それは語と対象との関係が明確ではないからである。和歌に於ける懸詞は、これらの中では、技法として伝統化している故 るが、複義的語の用法のうちでも比較的単純な例である。

作風とはその第一段階に於ては読者の印象である。印象を整理してそれが特殊なものであるなら、それは受け取る側に原因の多くが ある。他者とも共通し得るものなら、その時は作品に内在する原因を確かめる必要があろう。 定家の歌に特有な情緒的特色の原因とし て次の三点がある。言葉のつづけがら、言葉の結びつき方。 2句切と体言止。本歌取。以上の三点である。図の旬切は新古今時代 の和歌と共通に定家の場合初句、三句切が多い。体言止とは一般の叙述文の如く述語で文が終らずに体言で終る場合をいう。の本歌 取は本となる歌の句を幾つか取りこれを用いて本歌とは全く異なる歌を詠むことをいう。本歌となるからには当時よく知られた歌であ ったにちがいない。そのような既製の歌を変形する、既製の情緒、感動を変形する、それは変形或るいわ歪みを通してしか表現出来な い、そして作者が表現したい情緒があったからに他ならない。句切、体言止、本歌取等は新古今時代の共通現象であるが、石田氏の詳 細な研究によれば定家に於ては正治建仁期を頂点としながら増減している。

今、1の言葉のつづけがらについて考えたい。

言葉は次の三つの関係に於てとらえられる。(言葉とその言葉の対象との関係。一般的に云って「そこに机がある」という文の「机」 という語は現実の「机」と関連して使用されている。1言葉とその言葉を使用する者との関係。一般的にいって情動的文の語群は話者 の感情と強く関連して使用されている。言葉と言葉との関係。接続詞、助詞等はこの関係に於ての機能を他に比しより多く有してい る。(1回を読者の受け取り方の点より見れば、は知的理解、1は情緒的理解、 は文法的理解といえる。

言葉の機能についての諸論は11の関係を重視して行なわれている。何を機能の面より見れば文法的機能というべきであろう。が、 今の回については論外としておく。

言葉の機能については二機能説 (リチャーズ)、三機能説(アーバン)等の分類があり、

言語は社会現象である故に目盛はいくらでも細かくなるが、実際問題として役立たぬなら目的論的価値が

しかし動物言語と人間の言語を区別するのは当然のことであり、人間の言語を情動言語と命題言語とに区別するのは妥当なこと だ。命題言語は情動言語からの展開であるが、それは最終段階ではない。情動言語には二種のものが想定し得る。命題言語以前の表出 的情動言語、命題言語の崩れた型の情動言語である。これを認めないと言葉の意味の変遷が説明し難い。万葉、古今、新古今という風 な歌風の変遷を見るとこの様に考えたくなる。《古今和歌集》と《新古今和歌集》を比較すると、両者ともさして異なる語を用いてい いのにもかかわらず、後者の方が情緒的である。社会的な不安のある時代には言葉の概念性に対する信頼が稀薄になる 命題言語は 崩壊して情動言語となる。また本歌取の如くに充分知りつくされた歌を変形して、その歪曲によってしか得られない情緒を求める 本 歌取も命題言語の崩壊と平行現象として考えたい。言葉の歴史は表出的情動言語、命題言語、命題言語の崩壊した情動言語、の三段階 の繰り返しである。文芸史の古拙期、 古典期、 爛熟期の繰り返しと類似である。

定家の和歌の或る年代のものは、例えそれが敍景歌であっても、その表している対象が外部の自然でなく、感情であるとか気分であ 註3 るとかの場合が多い。気分象徴と云われる事がある。『描写が徹底していないから気分が出る』とも述べられている。それは事実であ が、描写が完全でないのは技巧が未熟なのではなく、外部の対象に関心が向いていないからに外ならない。定家の或る時代はその技 巧が描写に用いられず、また機知を目的とせず、専ら情緒を目的としている場合が多い。内部の世界を目的としている。

同一の言葉でも使用され方の異いにより、異なる機能を発揮する。それ故文脈の異なりから、言葉と表現者、言葉と対象の関係の異 なりを見つけ出せる。同一の言葉の使用され方の異なり、文脈の違いは状況、主体、主観、対象等の異なりに由来している。和歌につ いての場合を今少しくわしく見れば、状況とは、贈答の歌、歌合の歌、練習の歌、即興の歌等の場合も指す。また、季の歌、恋の歌に よっても語の使用法は当然異なる。 少し広い範囲で考えると、季節、作者の生活、健康、更に広く見れば時代等が言葉の使用を限定し ている。他方、これらの外的原因と同時に表現者の内部の世界も使用を限定している。対象とする言葉を限定すれば、言葉の使用され 方により、表現者の内外の世界が判明する。

感情、思想の変化とともに用語が変る場合がある。反対に感情、思想等が変化しても、変らずに使用する言葉もある。作者によっては例えどんなに表現内容を重視しても、使いなれた言葉、愛着のある用語を棄てずに使用することがある。 定家の毎月> にこんな 記述がある

心詞の二はただ鳥の左右の翅のごとくなるべきにこそとぞ思ひ給へ侍りける。但心詞の二をともにかねたらむはいふに及ばず、心の かけたらむよりは、詞のつたなきにこそ侍らめ。かやうには注し申し侍れども、又実によろしき歌の姿とは、いづれをさだめ申すべ きやらむ。

歌の姿とは詞のつづけがらにより得られる。素材とか表現の対象にかかわらず作者は言葉によって強く縛られ、方向附けられている。 毎月抄》の記述は心を第一としながら詞に愛着をもつ作者のこの心情を明らかにしている。新たな事実、刺戟が発想の基礎となって いても、反対に言葉が発想の基礎となっていても、程度の差こそあれ、作者は使いなれた語を使用してしまう。

『ゆきのしたくさ』という言葉がある。この言葉は定家の歌の中に四例見出せる。いづれも春の歌である。三十七才、五十五才、五十 九才、六十四才の時の歌である。今、先の二例、三十七才建久九年、五十五才建保四年の歌について考える。

1うぐひすはなけどもいまだふるさとのゆきのしたくさはるをやはしる(建久九年・仁和寺宮五十首)

あさひさすかすがのをののをのづからまずあらはるる雪のしたくさ(建保四年・仙洞百首)

凡その云わんとするところは、1 『すでに鶯が鳴いているが、まだふるさとの雪のしたくさは春を知っているのだろうか、しってはい ない』であり、「ふる」は「古る」「降る」に懸けられている。は『ゆきのしたくさ』を『あさひさすかすがのをの』と『のづか らまづあらはるる』の二つの句文が修飾しており、したがって『あさひのさしている春日野の、そして春ともなればをのづからその姿 を現らわす雪のしたくさよ』となる。

すでに明らかな如くこの『ゆきのしたくさ』の二例の用法は異なっている。1は『雪のしたくさはるをやは知る』『雪のしたくさは 春を知っていようか、知ってはいない』と対象としての現実の『ゆきのしたくさ』に人間と同じ感情があるかの如くに扱っている。そ の作者の態度が文となっている。この歌を詠じた頃の定家はまだ左近少将であり、しかもその地位についてから十年を経ている。対象

としての現実の『ゆきのしたくさ』を擬人化しているとも云えるが更に重要な点は自己の投影が為されていることだ。また擬人化も機 知或は知性の働きによるのではなく、感情、情緒、気分の裏附けにより為されている点である。その点にこの歌が述懐の歌に近い印象 を与える理由がある。それに比し、2は春の歌としてより素直に受けとれる。これらは歌の中では言葉の組み合せ方、用いられ方の問 題にすぎぬが、歌として詠ぜられる以前の段階に於ては、定家の表現態度、感情生活に理由が求められる。1に於ける『ゆきのしたく さ』という語は、植物の『ゆきのしたくさ』と対応すると同時に定家の感情とも対応している。

情緒的表現とは、例えば描写の場合に於ても文脈中の語が描写の対象と対応するばかりではなく、作者の感情と対応し、しかもその 度合が強い場合を云う。それらの文脈に我々がふれる時、我々は語を媒介として描写の対象を理解するが、同時に作者の感情をも理解 するように仕向けられる。描写の対象を再現するにあたり作者の持った気分とか情緒と極めて近い心の状態に置かれることになる。こ の様な効果を持った歌が定家の三十台から四十台初期にかけての歌に多い。素朴な印象としては、この期の定家の歌はそれ以前以後と 異なる。このことと関連する定家及び定家周辺の諸事実はすでに述べたが、繰返すと次の如くなる。1三十才以前の約十年間、激しい 社会変動の中で詠作を修練し、その精進により確実な技法を得ていた。 2三十台の末迄は社会、経済、健康各方面に恵まれることが少 なかった。同詠作の行為自体には何の疑いも持っていなかった。4詠作の機会には九条家を中心としてかなり恵まれていた。同母の死 に接し現実感情と詠作とが結びついた。以上の諸点は歌風の変遷と相関関係があると仮定したい。三十台より四十台初期にかけての定 家の歌風を方向附けていたと考える。

以上定家の価値観と歌風、それらの変遷についての概略を記した。歌風について附言すれば、他の幾つかの語例に於ても、年代的に 多少の出入とそあれ、略同様の結果を得た。区分となる点は、明確なものではないが、第一の区分点は、文治末より建久初期の多作期 第二の区分点は承元の寡作期である。語の用法という点より見た場合、これらを区分点とするのが妥当である。伝統、環境、価値観は それぞれ関連があり、和歌を中心とした場合、詠作、歌風の変遷はそれらの結果である。第一の歌風の変化は歌の修練及び母の死を因 とする実作と現実感情の結合を原因として考えたい。第二の歌風の変化の原因は、父俊成の業積と関連するが、家跡を継ぎ得たか否か の点に対する定家の判断と結びつけて考えたい。晩年の定家は詠作の目的論的価値を失ない、また行為の価値をも喪失している。この 期では同時に感情が衰え観念化したことも考慮せねばならない。これら二つの期の区分点が一方は多作の時期、他は寡作の時期に置か れる点注意される。