柴田勝家は安土桃山時代の武将。はじめ織田信長の弟である信行に仕え、後に信長の家臣として宿老の一人となりました。彼は猛将として誉れ高く、近江長光寺城を六角承禎に水攻められた際には、水瓶を割り決死の覚悟で出撃し敵を破ったことから「瓶破柴田」なんて呼ばれました。
やがて本能寺の変が起こると羽柴秀吉と対立、信長の後継者に推す信孝らと結び秀吉を打つべく挙兵するのですが、近江賤ヶ岳で敗れ、北庄城で妻お市(信長の妹)とともに自害して果てたのでした。
勝家の辞世歌は武人らしい「名」にこだわった歌です。
「夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲居にあげよ山ほととぎす」(柴田勝家)
夏の夜の夢… そんな短い人生で示したたわたしの名を、はるかに高く響かせれくれ山ほととぎすよ!
和歌で「夏の夜」は短さの象徴です、ちなみに長いのは「秋の夜」です。勝家が自害したのは4月24日で、これは旧暦の夏になります。つまり夏の夜とは人生の「短さの象徴」であり、彼の「最後の日」という意味でもあるのです。
勝家は自らの死と対峙し「ほととぎす」にひとつの願いを託しました。それは、「わが名を空高く響くように鳴いてくれ」というものでした。これは端的に清水宗治と同じく、「自らの名を残したい」という願望です。
気になるのは「ほととぎす」ですが、じつのところこの鳥には重要な意味が隠されています。和歌でほととぎすは「夏」を代表する鳥として詠まれ、これが夜な夜な鳴き渡る声を聴き、歌人らはさまざまな思いを重ねました。では勝家は、ほととぎすの声に何を思慕したか。それは「安らかな死」です。ほととぎすは多様な物語性を帯びた景物であり、そのひとつが「死出の山を案内する友」というもの、勝家はこれに寄せて辞世の歌を詠んだのです。
それにしても武骨な士が、よくもここまで教養溢れる歌を詠んだものだと感心させられます。その秘密は彼の妻、お市の方にあったのではないでしょうか。
勝家の歌は、お市の方の辞世歌に返すかたちで詠まれたものでした。
「さらぬだにうち寝るほども夏の夜の別れをさそふほととぎすかな」(お市の方)
そうでなくとも寝る間もない夏の短夜に、急かすようにして別れを誘うほととぎすであることよ。
先ほど説明したのでわかると思います。「ほととぎすが誘う」とはすなわち「死を誘う」ということであるのです。
お市の方の辞世歌は、俊成の歌を踏まえたものだと言われます。
「さらぬだに臥すほどもなき夏の夜をまたれてもなくほととぎすかな」(藤原俊成)
俊成の歌にも夜のほととぎすが詠まれていますが、この歌には死の連想はありません。しかしお市の方は今わの際に俊成のこの名歌を引き、自らの心情に転じてみせたのです。これはよほどの教養がなければできない技です。
勝家は優れた教養を持った妻に支えられ鍛えられて、これに応じる形で、後世に残る深遠な辞世歌を残すことができたのです。
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(書き手:歌僧 内田圓学)
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