880
27
令和六年六月
寄海恋
七重八重白波やがて余波(なごり)かな波の恋路を泡沫(うたかた)知るらむ
亡羊
879
27
令和六年六月
寄草恋
いづかたにおきまどはせし露草(つきくさ)の消(け)ぬる思ひは藍(あゐ)も残さじ
亡羊
878
27
令和六年六月
山家郭公
有明や美山(みやま)の里にかすみたちはるか梢(こずゑ)にほととぎす鳴く
亡羊
829
27
令和六年五月
恨
ゆく春をうらむらさきの藤の花帰らぬさだを知るよしもがな
亡羊
「ゆく春をうらむらさきの藤の花帰らぬさだを知るよしもがな」
判者評:
828
27
令和六年五月
待恋
月のさやか風そよもなきひと夜かなさみだる袖を片敷きて寝(い)ぬ
亡羊
さみだるは、五月雨にかけて心が乱れると言う意もあったので
月はさやかで風はそよとも吹かない一夜だなあ。私はみだれた袖を片敷いて寝ている。愛しい人が来る気配がない様を「月さやか、風そよもなき」とし、「みだる」と対比したところが妙。「さみだる袖」はよけいなイメージ(五月雨)となり、総じて言葉を整理したい、「月は澄み風はそよとも吹かぬ夜にこころまどひて伏しわびぬかな」
「月のさやか風そよもなきひと夜かなさみだる袖を片敷きて寝(い)ぬ」
判者評:月はさやかで風はそよとも吹かない一夜だなあ。私はみだれた袖を片敷いて寝ている。愛しい人が来る気配がない様を「月さやか、風そよもなき」とし、「みだる」と対比したところが妙。「さみだる袖」はよけいなイメージ(五月雨)となり、総じて言葉を整理したい、「月は澄み風はそよとも吹かぬ夜にこころまどひて伏しわびぬかな」
746
27
令和六年三月
憚人目恋
人目守りかすみの衣まとひしかさやぐ風にはいかにせむかや
亡羊
人目につかないよう気をつける「恋瀬の川」の流れがはやいので、激しい心がせき止められない。ちなみに「恋瀬川」は続後拾遺集に「恋瀬川浮名を流す水上も袖にたまらぬ涙なりけり」がある。「恋瀬の川は速いので」は受け入れられうか?(飛鳥川のような歌枕理解があるか、ということ)。 結句「塞き敢えぬなる」は耳に立つ。「たぎつ心をせきぞかねつる」とか。
「人目守りかすみの衣まとひしかさやぐ風にはいかにせむかや」
判者評:人目につかないよう気をつける「恋瀬の川」の流れがはやいので、激しい心がせき止められない。ちなみに「恋瀬川」は続後拾遺集に「恋瀬川浮名を流す水上も袖にたまらぬ涙なりけり」がある。「恋瀬の川は速いので」は受け入れられうか?(飛鳥川のような歌枕理解があるか、ということ)。 結句「塞き敢えぬなる」は耳に立つ。「たぎつ心をせきぞかねつる」とか。
703
27
令和六年二月
後朝恋
しろたへのみ雪のあとをたづぬれば恋しき君にまたも逢へるも
亡羊
「しろたへのみ雪のあとをたづぬれば恋しき君にまたも逢へるも」
判者評:
702
27
令和六年二月
夜間梅花
梅が香にかへり見すれば月の舟一枝(ひともと)折りし人はいづこに
亡羊
「梅が香にかへり見すれば月の舟一枝(ひともと)折りし人はいづこに」
判者評:
647
27
令和六年一月
釈教
布施自戒忍びて生かむちゑ見つめ中の道をぞおさめてしがな
亡羊
646
27
令和六年一月
初逢恋
久方の光をすべし道のべの草深百合の花ぞいま笑む
亡羊
光をまとめよ、野辺の草深百合の花がいま微笑んだ。「すべし」は「統ぶ(統べる)」だろうか、三句以降との関連が不明で連歌的な付け合いと見るべきか。草深百合はなじみが薄いが、「草の茂みの百合」で万葉集に歌例がある。「道の辺の草深百合の花笑みに笑みしがからに妻と言ふべしや」。万葉集の方は「笑ったくらいで勘違いしないでよ」だが、この歌は題にそって積極的に微笑んでいる。
645
27
令和六年一月
雪
新しき年の初めの朝かげや梅のつぼみに雪はふりつつ
亡羊
644
27
令和六年一月
霜
いとけなき子のあと先にうかるかな霜ふむ音もをかしかるらむ
亡羊
599
27
令和五年十二月
羇旅
年の瀬や京の吉例顔見世にすみのぼりたる口上きくも
亡羊
「年の瀬や京の吉例顔見世にすみのぼりたる口上きくも」
判者評:
598
27
令和五年十二月
除夜
さはしかのつのの落ちたるほどなりてあくるばさても鐘をつく夜
亡羊
「さはしかのつのの落ちたるほどなりてあくるばさても鐘をつく夜」
判者評:
597
27
令和五年十二月
千鳥
今日もなほ都も遠く鳴海潟ももの千鳥に思ひなぐさむ
亡羊
「今日もなほ都も遠く鳴海潟ももの千鳥に思ひなぐさむ」
判者評:
596
27
令和五年十二月
不遇恋
千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ浪あふせなき夜もやむ時なくに
亡羊
千鳥が鳴く佐保の川の小さい波ではないが、逢うことがない夜もやむことがない。上の句のいわば序と下の句の心情が絶妙の配合を生んでいる。「佐保川」は奈良の歌枕、多く千鳥とともに詠まれる。「さざれ」は「小さい」の意で「さざれ石・波」という語もあり、万葉集以来の古語、結句の打消しの詠嘆も「なくに」も万葉の匂いが濃い言葉である。本歌はこれだろう「千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ波止む時もなしわが恋ふらくは」(大伴郎女)。郎女は行き戻りする細かい波の動きに止むことのない恋の心情を重ねたが、歌ではその序をそのまま用いている。また歌の下句には「やむ時がなくに」だけあり、明確な「恋慕」の心情は詠まれていない。本歌を知ってこそ歌の意味が醸成されるのだが、「浪」と「瀬」の縁語は工夫としても本歌への依存度が高い一首といえるだろう。
「千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ浪あふせなき夜もやむ時なくに」
判者評:千鳥が鳴く佐保の川の小さい波ではないが、逢うことがない夜もやむことがない。上の句のいわば序と下の句の心情が絶妙の配合を生んでいる。「佐保川」は奈良の歌枕、多く千鳥とともに詠まれる。「さざれ」は「小さい」の意で「さざれ石・波」という語もあり、万葉集以来の古語、結句の打消しの詠嘆も「なくに」も万葉の匂いが濃い言葉である。本歌はこれだろう「千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ波止む時もなしわが恋ふらくは」(大伴郎女)。郎女は行き戻りする細かい波の動きに止むことのない恋の心情を重ねたが、歌ではその序をそのまま用いている。また歌の下句には「やむ時がなくに」だけあり、明確な「恋慕」の心情は詠まれていない。本歌を知ってこそ歌の意味が醸成されるのだが、「浪」と「瀬」の縁語は工夫としても本歌への依存度が高い一首といえるだろう。
531
27
令和五年十一月
羇旅
冷泉家にて
いにしへの歌人つどふおもかげにこころ寄するや京の白雲
亡羊
「いにしへの歌人つどふおもかげにこころ寄するや京の白雲」
判者評:
530
27
令和五年十一月
紅葉
うすくこき竜田の川のもみぢ葉の筏を流すのわき立つかな
亡羊
「うすくこき竜田の川のもみぢ葉の筏を流すのわき立つかな」
判者評:
529
27
令和五年十一月
初冬
ありあけやうらがる庭のせんざいにいさささざんかくれなゐに咲く
亡羊
「ありあけやうらがる庭のせんざいにいさささざんかくれなゐに咲く」
判者評:
528
27
令和五年十一月
忍恋
恋しのびなく音にまがふ浦波は千々にくだけてあわと消えなむ
亡羊
恋しのんで泣く音にまじる浦浪は、千々にくだけて泡ときっと消えるだろう。鳴き声を波にたとえ、それが砕けるとした趣向は見事である。ただなぜ、「砕けてあわと消える」のか理由が明確でない。よって結句を「知る人もなき」などしたい。
「恋しのびなく音にまがふ浦波は千々にくだけてあわと消えなむ」
判者評:恋しのんで泣く音にまじる浦浪は、千々にくだけて泡ときっと消えるだろう。鳴き声を波にたとえ、それが砕けるとした趣向は見事である。ただなぜ、「砕けてあわと消える」のか理由が明確でない。よって結句を「知る人もなき」などしたい。
495
27
令和五年十月
羇旅
羽の田に春風ぞ吹き敷島の大和を巡る旅をはじむる
亡羊
「羽の田に春風ぞ吹き敷島の大和を巡る旅をはじむる」
判者評:
494
27
令和五年十月
雁
久方の空をわたりて初雁のおとなふ秋は末(すゑ)つかたやらん
亡羊
493
27
令和五年十月
菊
朝まだきめさめて庭に降りたてば黄菊をゆらす風のさやけし
亡羊
492
27
令和五年十月
初恋
なるみ潟に白波たちてしほ貝のこがる思ひは波もこえなむ
亡羊
鳴海潟に白波が立っている、しお貝の恋する思いは波をこえることだろう。「鳴海潟」は愛知県名古屋市の歌枕、多くは「〇〇になる」の掛詞で用いられた。「しほ貝」からそのまま「こがる」を導くのは難しく、「焼く」という手順が必要だろう。「白波」と「波」の重複を解消したい。よって「鳴海潟浜で焼かるるしほ貝の焦がる思ひは波もこえなむ」。
472
27
令和五年九月
待恋
花は散り葉は色づきてうつろへどおもひ渡せし松のさみどり
亡羊
「花は散り葉は色づきてうつろへどおもひ渡せし松のさみどり」
判者評:
458
27
令和五年九月
月
うばたまの闇にかくてぞとどめおきながめあかせな三五夜(さんごや)の月
亡羊
440
27
令和五年八月
萩
秋萩のはむらのもとになく虫のかそけき音(ね)さえしぐるものかは
亡羊
秋萩の葉の下で鳴く虫の、わずかな声さえも時雨るものだろうか(いやそうではない)。結句の意図が読めなかった、また「時雨」は晩秋から冬の景となる(「はむら」は「葉群」だろうか)。たとえば「秋萩の葉群のもとになく虫のかそけき声に秋を知るかな」
「秋萩のはむらのもとになく虫のかそけき音(ね)さえしぐるものかは」
判者評:秋萩の葉の下で鳴く虫の、わずかな声さえも時雨るものだろうか(いやそうではない)。結句の意図が読めなかった、また「時雨」は晩秋から冬の景となる(「はむら」は「葉群」だろうか)。たとえば「秋萩の葉群のもとになく虫のかそけき声に秋を知るかな」
400
27
令和五年七月
蓮
風にあそぶ蓮の葉上の玉水はふちをめぐりて真中にぞ留(と)む
亡羊
蓮の葉の上の露が風に揺られて、葉の縁(ふち)をまわりながら真ん中で止まる。玉の悠々した動きを一首にとどめた、見事な写生歌である。玉の動くさまを「あそぶ」としたところが素晴らしい。言葉の確認をしておきたい。「風にあそぶ」の「に」は『~と』という意味はなく『~によって』となるが、とすると「風にあそばる」とすべきか? ここは素直に「風とあそぶ」したい。「ふち」は古語で主に「淵」として用いられ、「縁(ふち)」の用例はあっただろうか? もしないとしたら「端」に置き換えられる。「留む」連体形は「留むる」となるが、これでは八文字になってしまうので「ぞ」を用いず「止まる」としたい。よって「風とあそぶ蓮の葉上の玉水は端をめぐりて真中に止まる」 ※「真中」も「最中」などがふさわしいか