月魄の詠草

733
10
令和六年二月
後朝恋
しののめの分かれを憂しとたへざればわが身を露にかえなまほしや
月魄

「しののめの分かれを憂しとたへざればわが身を露にかえなまほしや」

判者評:

732
10
令和六年二月
夜間梅花
枝間よりもる月かげをむすぶればわが手に梅の香ぞ残りたる
月魄

「枝間よりもる月かげをむすぶればわが手に梅の香ぞ残りたる」

判者評:

477
10
令和五年九月
待恋
照る月におもひし人の影を見ば夜のあくるまもあはれなりけり
月魄

「照る月におもひし人の影を見ば夜のあくるまもあはれなりけり」

判者評:

454
10
令和五年九月
夜もすがら水面にゆれる月影はまどひし我の心やあらむ
月魄

「夜もすがら水面にゆれる月影はまどひし我の心やあらむ」

判者評:

436
10
令和五年八月
秋風・恋
秋風は濡れしわが袖乾したりて心のはてをいづち運ばむ
月魄
秋風は(失恋で)濡れた私の袖を乾かして、心の果てをどこに運ぶのだろう。こちらも恋の歌、下の句に個性が宿り、失恋の空虚感を強くしている。秋風(失恋)によって袖が濡れるとする方が自然ではある。また「はて」とは心の行き着いた先であろうから直したい、すなわち「秋風は涙の袖を吹きわたりわが心さへ運ぶとすらむ・砕かんとする」 

376
10
令和五年六月
五月雨
繁る葉を濡らしつ降れる五月雨よ青を深めて千々に染めゆく
月魄
五月雨が夏の葉を濡らし、その青を千々に染めていく。最初「青」とあり、紫陽花などを想像したが、ここでは葉に落ちる雨なので、木の葉の青であろう。時雨が紅葉を染めるような、和歌的な視点が冴えた一首である。「濡らしつ降れる五月雨よ」を整えたい。すなわち「五月雨は夏の木の葉を濡らしつつ青を深めて千々に染めゆく」

352
10
令和五年五月
更衣
白衣(しろきぬ)にこもれびうつしまとふれば涼しき夏の風や吹くらむ
月魄
木漏れ日が写る、白妙の夏衣に替えてみたところ、そこに涼しい夏の風が吹いてきたのだろうか。とても涼やかな初夏のワンシーン。夏衣に対し、「こもれびうつし」と「涼しき夏の風や吹くらむ」のふたつの趣向が合わせられているが、どちらかひとつが限界だろう。例えば「しろたへの夏の衣を着てみれば袂すずしき風ぞ吹きける」、なんとかあわせて「清げなる木漏れ日うつすしろたへのころもに渡る夏の涼風」

324
10
令和五年四月
落花
さくら花水にうかびてつどふればひろがりゆくは春の雲かな
月魄
いわゆる「花筏(いかだ)」の景であるが、これが集まって「春の雲」と見立てたところが素晴らしい。和歌でも花を雲に見立てるのは常套だが、水面のk落花をこれに見立てたのは知らない。三句「ば」と四句「は」が続いて声調を悪くしている。「ひろがりゆくは」は「想像のイメージが広がる」という意味だろうか。直すなら「散り散りに川を流れてさくら花つどふみなとは春の雲かな」(※散り散りになった桜が、みなと(河口)で集まって雲となる、という趣向した)

265
10
令和五年一月
晩冬
かぎりなく過ぎ行く時の常なれば散りぬる雪にかへる里なし
月魄
際限なく雪が降るのが常であるという、しかもそれで故郷に帰れないという。近年は温暖化の影響でむしろ冬の大雪が増える傾向にあるが、この雪は作者の体験であろうか、それとも雪とはなにかの暗喩であろうか。

249
10
令和四年十二月
年暮
年ふればつもる思ひぞ深まりてわれをおおひて息さへできず
月魄
年暮の絶唱というような印象深い歌。「雪」という言葉はないが、作者を覆い尽くすほどの豪雪が詠み人を息もできないほどに飲み込んでいるようだ。これほどの「つもる思ひ」というのは「恋」であるのか、はたまたなんなのか気になる。「ぞ」があるので文末は「できぬ」、また「おおひて」は「おほひて」となる。三句と四句が「て」が重なるので避けたい、例えば四句を「おはるるわれは」としてもよい。

「年ふればつもる思ひぞ深まりてわれをおおひて息さへできず」

判者評:年暮の絶唱というような印象深い歌。「雪」という言葉はないが、作者を覆い尽くすほどの豪雪が詠み人を息もできないほどに飲み込んでいるようだ。これほどの「つもる思ひ」というのは「恋」であるのか、はたまたなんなのか気になる。「ぞ」があるので文末は「できぬ」、また「おおひて」は「おほひて」となる。三句と四句が「て」が重なるので避けたい、例えば四句を「おはるるわれは」としてもよい。

225
10
令和四年十一月
初冬
冬立ちて空に浮かびし月もまた衣まとひて寒さしのがむ
月魄
冬霧の奥にみえる月だろうか、美しき冬の情景。衣は夏でも「まとふ」ので「重ねる」としてはどうか。また「しのぐ」は和歌であまり聞きなれないので、「寒さ堪ふらむ」として現在推量でまとめてはどうか。

211
10
令和四年十月
晩秋
夜もすがら声枯れ鳴らす松虫は我がごと物や悲しかるらむ
月魄
秋の長夜を一晩中鳴く松虫に、我が身を重ねた歌。「秋の夜のあくるも知らず鳴く虫は我がごと物や悲しかるらむ」(敏行)を踏まえるが「松虫」に「待つ」が掛けられて、恋の心が強く打ち出ている。下句を工夫したいのと、声調を整えたい。「鳴らす」は他動詞なので「鳴く」とする、また「枯れ」を「離れ」と掛けて「夜もすがら声かれがれに松虫の我がごともごとや音にぞなきける」。

193
10
令和四年九月
仲秋
あめつちにひとしみちたる月あかり我が身ひとつを照らしもがな
月魄
「あめつち」ときていわば古代的な神の始点の上の句から、「我が身にひとつ」と焦点が一気に個人に移り変わるダイナミックな歌。古典的には「我が身ひとつの秋にはあらねど」とくるが、これが「我が身ひとつを照らしてほしい」というわがままというより切望感を強く感じる歌。やはり月には神秘的な力があるのだろうか。「ひとし」は「等し」だろうから、「等しく満ちぬ」が適切。「照らしもがな」だが「もがな」は用言にはつかないので「照らしてしなが」など。

120
10
令和四年四月
三月尽
夢見草すがたとどめよとこしへに散るさくら花わが涙なり
月魄
着想は極めて美しいが、まとめきれていない印象。『夢見草』は桜の異名であるが、和歌では聞きなれない。下句に「さくら花」となり、歌病となりさけたい。桜は私の涙の直喩、姿とどめよとしたのも桜であり、言いたいことが名なくでない。例えば…「往く春を惜しむ涙のように花が散っている」とまとめればすっきりする。

104
10
令和四年三月
春興
東風舞ひて枝につもりし白雪の打ち解け出づる紅梅の花
月魄
東風、白雪、紅梅と言葉の響きが美しい。とくに擬人化された東風舞ひが見どころなので、これを活かしたい。例えば…「春来れば雪にうもれしうめがえに花をとくべく東風ぞ舞ひける」

86
10
令和四年二月
立春
春立ちて頬に落ちたる白雪の花紅染まりて咲きにけるかな
月魄
「花紅=かこう、はなべに?」つまり化粧のこと、化粧の色に咲いたということ。「花紅に染まり」と助詞を省かない。趣向は「花紅」にある、「花紅」といわずに、染まる色を提示したい。例えば…「佐保姫の紅深き頬にふれ白雪さへも色めきにけり」