神の世とかはるものかは須賀の宮いやすがすがし心なるかな
やまとうた道の行く末たづね来ば八重垣かくる須賀の磐座
九重ににほひぬるかな八雲立つ出雲よりひらくやまと言の葉詠み人 圓学
和歌を愛する者なら、一度は訪れたい場所――それが須賀の社(須賀神社)である。
出雲国の肥河上、名は鳥髪にて、高志の八俣のをろちを退治した須佐之男命は、櫛名田比売とともに暮らす地を求め肥河(斐伊川)を下る。木次まで至ると進路を変え須賀川を上り、至ったのがこの地だ。
なぜ須佐之男命がこの地を選んだのか。その答えは、この地名の由来とともに『古事記』に載る。
尓して須賀の地に到りま詔りたはまく、「吾ここに来、わが御心すがすがし」とのりたまひて、そこに宮をつくりいます。故その地は今に須賀と云ふ
をろちとの血みどろの戦いを終えたばかりの須佐之男命にとって、この地はその傷と愁いを払う心晴れやかな場所であった。そうした思いを込めて、この地を「須賀」と名づけたのである。
そして須佐之男命は、この須賀の地を櫛名田比売との新居と定め、こう歌いあげた。
この大神、初め須賀の宮を作らしし時に、その地より雲立ちのぼる。尓して御歌作りたまふ。その歌に曰く、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
この名高い歌は、出雲人でなくとも、多くの人が耳にしたことがあるだろう。それはこの歌が、和歌の歴史において特別な意味をもつからだ。初代勅撰和歌集、「古今和歌集」の仮名序にこのように載る。
ちはやぶる神世には歌の文字も定まらず、すなほにしてことの心わきがたかりけらし。人の世となりて、素戔嗚尊よりぞ三十文字あまり一文字はよみける<素戔嗚尊は天照大神の兄なり。女とすみたまむとて、出雲国に宮造りしたまふ時に、八色の雲の立つを見て、よみたまへるなり>
そう、幾世を経て連綿と詠み継がれてきた和歌――日本人の精神的支柱ともいえる三十一文字の文学は、須佐之男命のこの一首からはじまったのだ。和歌、すなわち「やまと歌」は、この須賀の地で生まれたのである。
須賀神社の奥宮には、須佐之男命と櫛稲田比売命の神霊が鎮まる「夫婦岩(めおといわ)」なる巨大な磐座が今も残る。その荘厳な姿に向かえば、和歌を愛する者なら誰しも、自然と頭を垂れずにはいられないだろう。
わたしは、「出雲」に生まれ育ったことを、心から光栄に、そして誇りに思っている。
(書き手:内田圓学)
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