神ぞすむ多芸志小濱(たぎのしほはま)しくしくも思ほゆるかなむかしを聞けば
みやばしらふとしく建てし御舎(みあらか)は出雲のほかにしくものぞなき詠み人 圓学
出雲大社(いづもおおやしろ)は、明治の初頭にこの名で統一されるまで、「杵築(きづき)」の名で広く知られていた。小泉八雲もこの地を「Kitzuki」と記している。その由来は、『出雲国風土記』出雲郡の条に見える。
杵築の郷、郡家の西北二十八里六十歩。八束水臣津野命の国引き給ひし後に、天の下造らしし大神の宮つかへまつらむととして、諸の皇神たち、宮処に参集ひて杵築きき。故、寸付(きづき)と云ふ。神亀三年、字を杵築と改む
この神の御舎(みあらか)が建てられた経緯は、『古事記』の「国譲り」に詳しい。大国主神は、国を天津神に譲る条件として、自らの居所を「底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて」建てるようにと望んだ。それは天上の御殿のごとき壮麗なものであった。
現在の出雲大社本殿も神社建築として日本一の高さを誇るが、かつてはその2倍、高さ48メートルにも及んでいたとされる。平安時代の教養書『口遊(くちずさみ)』には、「雲太・和二・京三」とあり、第一に挙げられている「雲太」は出雲大社を指す。出雲の社が、東大寺や平安京の大極殿に勝るとされたのは、単なる信仰の力ばかりではなく、建築的な驚異をもっていたからだろう。
十二世紀の歌僧・寂連は、出雲を訪れた折の驚きを、次のように詠んでいる。
出雲
「やはらぐる光や空にみちぬらむ雲に分け入る千木の片そぎ」(夫木抄)
この歌は出雲の大社に詣でて見侍りければ、天雲のたなびく山の中までかたそぎの見えけるなむ、この世のこととも思ほえざりけるによめると云々
天雲に届かんばかりの千木を目にしたとき、それはこの世のものと思えなかったという。この巨大神殿の姿は、いかにも国譲りの折の願いに叶うものだが、当時の建築技術からは到底実現不可能とされ、長らく虚構と考えられてきた。しかし2000年、かの荒神谷遺跡よろしく、出雲大社の境内から直径1.3メートルの巨大な柱が発見されたことにより、これまで伝説と見なされていた神殿の存在が一気に現実味を帯びることとなった。
現在では、多くの参拝者が「縁結び」を願うためこの地を訪れることだろう。しかし、この社は本来、大国主神が国造りを終え、天孫に国を譲ったのちに、自らを鎮めるために建てられた聖域である。かつてその空に高くそびえた神殿を想い、願わくば「荒都出雲」の象徴として、その栄光と祈りに、静かに耳を澄ませてみてほしい。
(書き手:内田圓学)
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