出雲国府跡にまかりて
御杖つく意宇の群(こほり)は音たへてねのみし泣ゆいにしへ思へば詠み人 圓学
出雲国風土記の意宇郡総記に記された、八束水臣津野命による『八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも。初国小さくつくれり。故、作り縫はむ…』にはじまる国土創生の物語。ここには北陸や朝鮮半島の土地を綱で引き寄せ、いまの島根半島をつくったとある、用いた綱が「園の長浜」、繋ぎとめた杭が「三瓶山」や「大山」とあるからとんでもないスケールだ。この壮大さは伊邪那岐・伊邪那美による「国産み神話」をはるかに凌駕するだろう。
余談だが1982年、この年島根県で開催された国民体育大会は「くにびき国体」と銘打たれ、わたしも学校行事として応援にいかされた。内容などまったく記憶にないが、八束水臣津野命の「国引きの図」がかっこよかったことだけは今も覚えている。
さて「国引き神話」、この物語の核心はむしろその結びにあった。八束水臣津野命は国引きを終えると、意宇の杜に杖を衝き立てて『おゑ(終わった!!!)』と詔った――つまりこの話は、意宇郡の地名の由来譚なのだ。
話が壮大なだけに、このオチに拍子抜けした人もいるかもしれない。だが「風土記」とは、各地の群や郷の由来を記すことが重大なミッションであった、となれば国庁、国分寺・国分尼寺、郡衙が置かれた、まさに出雲の中心地=都であった意宇を記すには、ふさわしい神話であったことだろう。
しかし、この「意宇」という地名。いま耳にしてピンとくる人が、どれほどいるだろうか。それは明治の行政再編によりその名は地図から消え、現在は松江市(大橋川以南)・乃木・安来市・八束郡の一部に姿を変えてしまったためだ。かつての出雲国の中心地は、記憶の彼方へ追いやられてしまったのである。
「出雲荒都歌」を詠むならば、まっさきに詠むべきがこの「意宇」の地だ。
八束水臣津野命が大事を為し、感慨と共に杖を衝いたこの地に、出雲の誇りの原点がある。
※出雲国府跡は、いまの松江市大草町・山代町・竹矢町に所在する
(書き手:内田圓学)
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