出雲し思ほゆ ~「出雲荒都歌」を詠もう~

忘れられた王朝――私はそう呼んで、古代出雲の姿を紹介した。

→「古代出雲が語りかける、地方の悲哀と誇り

『古事記』には、実に三分の一もの分量を費やして、大国主命を中心とする出雲神話が描かれている。記紀においてこれほどまでに出雲が重視されたにもかかわらず、その国史に記されるやいなや、古代出雲は忘れ去られていった。

平安時代、源為憲による教養書『口遊』には、「雲太・和二・京三」という言葉がある。「雲太」とは出雲大社、「和二」は大和の東大寺、「京三」は平安京の大極殿を指すとされるが、これはあくまで「大屋(おおや)」――つまり巨大な建築物としての評価でしかない。
あの『枕草子』を開いてみても、出雲は「温泉といえば」の名所として、「たまつくりの湯」とともに登場する。平安の貴族たちにとって、すでに出雲は「ありがたい観光地」でしかなかった。

時代は下り、大正期の歴史学者・津田左右吉は、出雲神話を「大和朝廷が自己の正統性を装うために作り上げた架空の物語」と断じ、これが多くの支持を集めた。出雲王朝の物語は、神話から作り話へと扱いを変えられ、まさに忘却の淵へと追いやられていったのだ。

だが、私たちは知っている。昭和59年、荒神谷遺跡から銅剣358本が出土し、続く平成11年には加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が発見された。いずれも弥生時代の出雲地域における、類を見ない青銅器文化の存在を物語っている。これは出雲王朝の実在を裏づける、まさに歴史の常識を覆す大発見だった。

にもかかわらず! 現在の「出雲観」はほとんど変わっていない。「縁結びの神様」などとして「ありがたい観光的」が定着し、かつてここに古代王朝が存在していたことを想起する人など、ほとんどいないだろう。

しかし奈良はどうか。奈良には先の「和二」たる東大寺の大仏があるが、それ以上に、平城京や藤原京といった古代の都への思慕が、心の底に息づいていないだろうか。あるいは近江、そこにも同じ情感が宿る。こうした古代王朝と出雲との決定的な違いとは、何か。

私はそれを「歌」の有無に見る。

平城京を偲び、藤原京を懐かしみ、近江の都に涙する――そうした心は、数多の歌となって詠まれてきた。柿本人麻呂の「近江荒都歌」などは、その最たるものだ。

 近江の荒れたる都を過く時、柿本朝臣人麿がよめる歌
たすき 畝傍の山の 橿原の ひしりの御代よ 生れましし 神のことごと 樛の木の いや継ぎ嗣ぎに 天の下 知ろしめししを そらみつ 大和を置きて 青丹よし 奈良山越えて いかさまに 思ほしけめか 天離る 夷にはあらねど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 霞立つ 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる ももしきの 大宮処 見れば悲しも
 反し歌
楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
楽浪の志賀の大曲淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

荒れ果てた都に立ち、かつての人々を偲ぶ――その情念が、歌に込められ、時を越えて受け継がれてきた。

出雲には、そのような歌がなかった。だからこそ、王朝の記憶は人々の心から消え去っていったのではないだろうか。ならば、私たちは今、古代出雲を歌に詠むべきなのだ。古代の出雲人のために、未来の出雲人のために。そして、今のわたしたちのために――

もちろん、眼前にかつての王朝などありはしない。だがそれは問題ではない。かつての王朝へ思いを馳せ、今の無常をこころに重ねる。人麻呂の歌がそうであったように、荒廃こそ想像力をかき立て、懐旧の念をいっそう強くしてくれる。

今こそ「出雲荒都歌」を――
「古事記」、「出雲国風土記」を片手に、忘れられた王朝に、新たな歌を捧げよう。

(書き手:内田圓学)

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