第2回「連歌の歴史」和歌から俳諧、そして現代へ:現代人のための連歌入門(全5回)

連歌(れんが)は、ただの文芸ではありません。
それは、言葉を交わす喜びのかたちです。
ひとりが詠み、もうひとりが応じ、そこに偶然と必然が交錯して、新しい詩が生まれる。
その歴史は、千年以上にわたり、日本人の感性とともに進化してきました。

筑波の道 ― 神話に宿る“連なる言葉”

はじまりは、神話にまで遡ります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国を巡る旅の途上、筑波を過ぎて甲斐の酒折宮に着いた時のこと。尊がこのように詠みました。

「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」

これに、火ともしの翁が即座に返します。

「かがなべて夜には九夜 日には十日を」

この二首の響き合いが、後に「連歌の起こり」と語り継がれました。
筑波の山の彼方、風が往き交うように、言葉が呼び、言葉が応える――その往還の中に詩が宿ったのです。

以来、連歌は「筑波の道」とも呼ばれるようになります。
人が言葉を通してつながる道。それこそが、連歌という文化の根幹でした。

平安時代 ― 雅びの中のことば遊び

貴族の優雅な日常の中でも、言葉を交わす遊びは生きていました。
『俊頼髄脳』に残る、次の唱和はその好例です。

奥山に船漕ぐ音の聞こゆるは (躬恒)
なれる木の実や海わたるらむ (貫之)

「山奥で船を漕ぐ音がする」という難題に、「木の実が熟して海を渡っているのだ」と、巧みな掛詞で答える。

ここには、知と詩がひとつになる瞬間があります。
初期の連歌には、機知を競う頓知問答のような知的な遊び心が満ちていました。
相手が出した句をどう受け、どう転じるか。
それは、単なる詩作ではなく、互いの想像力を試す“ことばの競演”だったのです。

鎌倉時代 ― 有心無心連歌の興りと百韻の成立

やがて鎌倉の世、後鳥羽院の御所では、新古今歌人たちが集い、有心・無心連歌が行われました。
藤原定家・家隆・慈円など、当代随一の歌人たちが参加し、和歌の延長線上にありながらも、より自由で創造的な文芸へと発展していきます。

二条良基は『連理秘抄』にこう記しています。

「建保の頃より、後鳥羽院ことにこの道を好まし給ひて、定家・家隆郷など、細々に申し行なはれけるにや」

この「この道」とは、まさに連歌の道。
後鳥羽院は和歌を超えて、ことばの連なりに宿る“心の響き”を愛したのです。

また『明月記』には、「連歌が百句」と記され、この頃には百韻(ひゃくいん)という壮大な形式が完成していたと考えられます。
短い和歌を超えて、百首もの句を連ねる――
そのスケールの大きさが、まさに連歌を“共同創作の芸術”たらしめたのでした。

室町時代 ― 二条良基と宗祇、風雅の極みへ

連歌が最も高い芸術性を獲得したのは、この室町の時代です。

公卿・条良基は『連理秘抄』を著し、「付合(つけあい)」の理論を体系化しました。
彼の手によって、連歌はルールと美学を備えた完成された詩型へと成長します。

そして登場するのが、名連歌師宗祇(そうぎ)。
宗祇は諸国を旅し、庶民の座にも連歌の花を咲かせました。
彼の詠む句は、静謐でありながらもどこか温かく、人と自然、現実と夢が滑らかに溶け合っています。

宗祇の連歌は、まさに「有心連歌」と呼ばれるべきもの。
形式に囚われず、心の奥底にある“うつろい”を詠み取る文芸でした。
この時代、連歌は風雅の極致へと達したのです。
「水無瀬三吟百韻」そして「「新撰菟玖波集」はその大成と言えるでしょう。

江戸初期 ― 貞門俳諧と談林俳諧、二つの潮流

戦国の混乱を経て江戸の太平の世となると、連歌はより自由で庶民的な文芸、「俳諧(はいかい)」へと姿を変えます。

その先駆けが、松永貞徳(まつながていとく)を祖とする「貞門俳諧」。
古典に通じた貞徳は、縁語や掛詞などの技巧を重んじ、文芸としての格式を守ろうとしました。
彼の俳諧は、まるで連歌の“古典派”――洗練と教養を備えた知の俳諧でした。

一方、西山宗因(にしやまそういん)の「談林俳諧」はまったく異なります。
宗因は風雅よりも機知を重んじ、即興の面白さを追求しました。
洒落、皮肉、風刺――彼の句には庶民の息づかいがあり、貞門の硬さを打ち破る“笑いの解放”がありました。

貞門と談林、理知と自由。
この二つの潮流がぶつかり合うところから、後に芭蕉が登場し、俳諧を芸術へと昇華させていくのです。

芭蕉 ― 俳諧に宿る連歌の心

松尾芭蕉は、連歌の魂を再び甦らせた人でした。
貞門の古典的な美意識と、談林の自由な感性。その両方を抱えながら、芭蕉は「俳諧の連歌」という新たな道を開きます。

「俳諧の連歌といふは、よく付くといふ字意なり」(『三冊子』)

芭蕉にとって詩とは、“うまく付く”こと――つまり他者と響き合うこと。
彼は「詞付」「心付」「匂付」などの伝統的手法を再解釈し、そこに“人と自然が溶け合う無心の境地”を見いだしました。

芭蕉の連歌観は、形式を超え、
「共に生きること」そのものを詩にする思想へと進化していたのです。

近代 ― 子規の批判と、連歌の衰退

明治以降、個人の感性や表現を重んじる時代が訪れ、文学は「私」の時代へと移り変わっていきました。

俳句の祖とされる正岡子規は、『芭蕉雑談』の中で次のように述べています。

「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」

すなわち、集団で詠む連歌(連俳)を“近代文学の外”と見なしたのです。
この批判は明治以降の文壇に大きな影響を与え、七百年ものあいだ人々に親しまれてきた「座の文芸」は、急速に衰退の道をたどることになりました。

詩が「個人の表現」へと変わりゆく中で、連歌のような共同創造の詩は、しだいに時代の光から遠ざかっていきました。

明治の文化人たちは、連歌の中の「発句」だけを価値あるものとみなし、その五・七・五の一句を都合よく切り出して「俳句」と名づけ、あたかも唯一の短詩形文芸であるかのようにもてはやしました。
そして――それは、いまの時代にもなお続いているのです。

令和 ― 言葉の座の復興へ

しかし――
令和和歌所では、今も定期的に連歌会を催しています。
古(いにしえ)から続く「言葉の座」の精神を受け継ぎ、初対面の人どうしでも句を付け合い、笑い合い、驚き合う。

そこには、和歌や俳句にはない、遊び心と共感の文芸が息づいています。
千年の時をこえて、いま再び、古から続く言葉の交流をともに楽しみませんか。

次回は、第3回「連歌のルール」 ― まずはじめてみよう」
理屈を離れ、あなた自身の一句を付けてみましょう。
言葉が交わる、その瞬間に“詩”が生まれます。

(書き手:圓学)

「現代人のための連歌入門」一覧


Lesson 2: The History of Renga — From Waka to Haikai, and Beyond

Renga is not simply a form of poetry.
It is the joy of connecting through words —
a dialogue that has linked hearts for over a thousand years.

The Road of Tsukuba — A Mythic Beginning

When Yamato Takeru passed Mount Tsukuba, he sang:

“Having passed Niihari and Tsukuba, how many nights have I slept?”
An old firekeeper replied:
“Counting them all — nine nights by moon, ten by sun.”

This exchange, later known as the “Road of Tsukuba,”
shows the origin of renga: poetry born from response, from connection.

The Heian Age — Wit and Wordplay

In Heian courts, nobles delighted in shōwa, or poetic exchanges.

“In the deep mountains I hear the sound of oars” (Mitsune)
“It must be ripened nuts crossing the sea” (Tsurayuki)

The humor, intelligence, and elegance of such verses
mark the beginnings of renga as a poetic game of wit and insight.

Kamakura and Muromachi — The Rise of Structured Renga

Under Emperor Go-Toba, poets like Teika and Ietaka refined the art,
eventually creating long hyakuin (hundred-link) sequences.
Nijō Yoshimoto and Sōgi later gave the form structure and spiritual depth,
making renga the most refined expression of Japan’s collective imagination.

Edo Beginnings — Teitoku and Sōin

In the early Edo period, haikai no renga emerged.
Matsunaga Teitoku emphasized classical grace and linguistic craft,
while Nishiyama Sōin championed humor, spontaneity, and common wit.
Their tension—between form and freedom—
prepared the stage for Matsuo Bashō.

Bashō — Restoring the Spirit of Renga

Bashō fused the intellect of Teitoku and the vitality of Sōin.
To him, haikai meant connection
a living continuation of renga’s communal heart.

“Haikai is the renga that truly connects.”

His “fragrant linking” (nioi-zuke) turned poetic dialogue into spiritual resonance.

The Modern Revival — A New “Road of Tsukuba”

Today, poets link lines across distance—online, in real time.
AI joins the circle, and words once again flow freely between strangers.
This is the digital rebirth of renga,
a continuation of Japan’s oldest poetic road — the Road of Tsukuba.

(Written by AI Engaku)

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