小野小町 ~日本的、恋愛観のルーツ~


小野小町は9世紀に活躍した女性歌人。紀貫之による古今和歌集の「仮名序」では六歌仙という名誉ある歌人に選出され、おそらく最も名の知られた歌人です。
その存在感はとても大きく、現代でも美人を例えて「○○小町」などと評したり、誕生の地とされる秋田にちなんで秋田米の品種名を「あきたこまち」と名付けたり、秋田新幹線を「こまち」さらにサイヤ人ばりに「スーパーこまち」と名付たりと親しまれています。

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これだけの人物ですが、実は詳しいことはほとんど分かっていません。
その名が具体的に見えるのは前述した古今和歌集の「仮名序」くらいですし、絶世の美女とされるのもこの超有名な「花の色は…」の歌の妄想が後世に膨らんだからとも言われます。

とはいえ小野小町の歌が和歌ひいては恋愛観、特に女性のそれに絶大な影響を与えたという事実は明白です。

小町が与えた恋愛観…
それはひたすら「待つ!」というスタイルです。

「いやいや私は恋に積極的よ」という女性もいらっしゃると思いますが、多くの方は「自分から告白できない」というより「告白は男からするもの」という考えがなんとなくあるのではないでしょうか?
実はこの恋愛における「待ち」のスタンスは、小野小町が1000年以上も前に女性のあるべき美学として確立したものなのです。
この美学は恋歌のテーマとして連綿と受け継がれ、和歌が廃れた現代でも日本女性の奥ゆかしき「美徳」として生きてます。

今回はその恋歌を中心に小町の歌を見てみましょう。
1000年以上も前の歌ですが、現代でも十分共感できる女心に驚きを覚えます。

小野小町の十首

(一)「花の色は うつりにけりな いたづらに わか身世にふる ながめせしまに」(小野小町)
老いという抗えない運命に身をやつす女…、百人一首にも採られ小町いや和歌を代表する歌です
実はこの歌、小町が古今和歌集で採られた唯一の「四季歌」です。もちろん素晴らしい歌ですが、この歌だけでは、小町本来の魅力は味わえません。小町といえばやはり「恋歌」です! 以下の恋歌をぜひ鑑賞してみてください

(二)「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」(小野小町)
あの人のことを思いながら寝たから夢で逢えたのだろか? 夢とわかっていればそのまま目覚めなかったのに…
現代でも十分共感できる切ない女心ですね

(三)「うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふ物は 思みそめてき」(小野小町)
うたたねに愛しい人を見ていらい、夢というものを当てにするようになってしまった…

(四)「いとせめて 恋しき時は むば玉の よるの衣を 返してぞきる」(小野小町)
昔は衣(服)を裏返して寝ると、夢で愛しい人に逢えると言われていました。一種のおまじないですが、恋に悩める乙女のやることは今も昔も変わりません

(五)「おろかなる 涙ぞ袖に 玉はなす 我はせきあへず たぎつ瀬なれは」(小野小町)
泣くと言ったってあなたの涙は「玉」程度かもしれないけど、私は「滝」よ!

(六)「秋の夜も 名のみなりけり あふといへば 事そともなく あけぬるものを」(小野小町)
秋の夜長、何て言うけど名前だけね。愛しいあなたと一緒にいればあっという間に朝になってしまうわ…
小町の恋歌でほぼ唯一といっていい、愛しい人との歓喜の歌です

(七)「うつつには さもこそあらめ 夢にさへ 人めをよくと 見るかわびしさ」(小野小町)
そりゃ現実で冷たくされるのはしょうがないわよ、でも夢の中でさえ避けるってどういうこと?

(八)「夢路には 足も休めず 通へども うつつにひとめ 見しことはあらず」(小野小町)
夢の中では毎日通ってくれるけど、現実は全く来ないってどういうこと?

(九)「今はとて わか身時雨に ふりぬれば 事のはさへに うつろひにけり」(小野小町)
もうお別れだ、といって私が年をとったら、あなたの言葉も色あせてしまったわ

(十)「色見えで うつろふ物は 世中の 人の心の 花にぞ有りける」(小野小町)
色が見えないで変わってしまうものは、人の心の花だったのね
小町の言葉には重みを感じます

見てお分かり頂けたように、小町の歌には「夢」が多く登場します。
それは「夢」が、ひたすら待ち続ける女性の唯一の「希望」だからです。
→関連記事「小野小町と余情妖艶

この恋愛観、なんとももどかしい感じです。
ちなみに男性は「忍ぶ恋」です。男女がこんなスタンスでは、恋愛の成就は難しいですよ…

(書き手:和歌DJうっちー)

→一覧「一人十首の歌人列伝

「ザ・ビートルズ」で知る万葉集、古今和歌集、新古今和歌集の違い


和歌の歌風、スタイルは大ざっぱに「万葉風」「古今風」「新古今風」と三種類に分けられることが多いです。
これら「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」の3つはいわゆる和歌「三大集」と呼ばれ、数ある和歌集のなかでも特に重要視されています。
※ちなみに「三代集」は、「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」のことを指します

天皇が編纂を命じた「勅撰和歌集」が全二十一集あるなかで(万葉集は該当しません)、特にこの三集が重要視されるのには当然理由があります。
それは歴史的なターニングポイントに編纂されたという点も大きいですが、やはり歌風の違いが顕著だからでしょう。

例えば「万葉集」。素朴で力強いスタイルから「益荒男ぶり」なんて言われます。
一方「古今和歌集」の理知的で感情を抑えたスタイルは「手弱女ぶり」と言われ、万葉集と対比されたりします。
「新古今和歌集」に関しては「…ぶり」という言い方は聞きませんが、優美な情景歌が多いことから「絵画的」なんて評されます。

これだけでは歌風の違いが分かりづらいかもしれませんね。
では唐突ですが、誰でも知ってる「ザ・ビートルズ」のアルバムで例えてみましょう。

万葉集を例えるなら「プリーズ・プリーズ・ミー」です。
歴史に冠たるファーストアルバム。憧れのミュージシャン(白楽天など漢詩人でありエルビス・プレスリー)を目標に、素朴でライブ感満天のロックンロールで占められています。

古今和歌集は「ア・ハード・デイズ・ナイト」、「ラバーソウル」。
全曲オリジナル作品で占められ、ついに独自の作風を確立。作曲技術も革新され、後世のミュージシャンへ多大な影響を与えました。

新古今和歌集はさしづめ「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」、「ホワイトアルバム」でしょうか。
現実を超え幻覚を覚える様な実験的な歌が揃います。またアーティストの個性が際立つ反面、全体の統一感が徐々に薄れています。

いかがでしょう、三大集の違いがお分かり頂けたでしょうか?

ん~、まだまだ分かりづらいですね。
やはり具体的な歌を取り上げて違いを比べましょう!

ということで次回、「七夕の歌」で万葉集、古今和歌集、新古今和歌集を比較してみようと思います。

→「七夕の歌で知る万葉集、古今和歌集、新古今和歌集の違い

(書き手:和歌DJうっちー)

後鳥羽院 ~お前のものは俺のもの、中世のジャイアン~


後鳥羽院は帝王の中の帝王というような人です。
といっても、この時代の「政治」の実権は鎌倉幕府に移っていましたから、院の権力は主に「文化」や「スポーツ」活動において発揮されました。

後鳥羽院がハマった文化・スポーツは多岐にわたります。狩猟に競馬、相撲、蹴鞠。囲碁、双六、琵琶、今様そして和歌。これら文武に秀でた者たちを集め「合せる」、つまり「勝負」させることを非常に楽しんだといいます。

これらの勝負ごと、単なるお戯れだと思ったら大間違い。なぜなら勝負の結果如何が演者の人生(出世)を左右したのですから。例えば遊女、今様(今でいう流行歌)が見事であれば遊女であっても院の寵愛を受けました。
言うなれば文武の下剋上! 秀でた才能があれば年齢、性別、身分、官位に関係なく出世の道が開けますが、逆に取り柄のないものはその道も閉ざされる。院のサロンにおける勝負はまさに命懸けの真剣勝負だったのです。

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中でも院がのめりこんだのが「和歌」でした。後鳥羽院が和歌に興味を持たなければ、藤原定家も見い出されず、日本の文化史に燦然と輝く「新古今和歌集」も成立しなかったことでしょう。

院が催した歌の勝負で、もっともエポックメイキングなのが「千五百番歌合」です。これは30人の歌人が100首ずつ、計3,000首を左右につがえて1,500番の歌合を実施したのです。これ以前に藤原良経の主催で六百番の歌合が行われていますが、その倍以上となる千五百番ほどの大規模な歌合は後にも先にも類がありません。

さて、後鳥羽院といえば「新古今和歌集」を下命したことでも知られます。
和歌に対して異常な愛着をみせる後鳥羽院です。その編纂作業も一筋縄でいくわけがありません。藤原定家など6名の選者がいるにも関わらず、編纂を命じた院自ら積極的に作業に関わります。歌の選定や配列に介入するのはもちろん、冒頭の仮名序にまで院自らの語りで登場します。
ちなみにその仮名序の一文をみると、、

「このうち、みづからの歌を載せたること、古きたぐひはあれど、十首にはすぎざるべし。しかるを、今かれこれえらべるところ、三十首にあまれり(略)」
新古今和歌集(仮名序)

かつてないほどたくさん自分(天皇)の歌を入れちゃったけど許してね、と茶目っ気たっぷりです。

その新古今和歌集。1201年に編纂作業を開始して1204年にいったん完成披露パーティーが開かれますが、その後も院の指示であれこれと切り継ぎ作業が続きました。私たちがいま目にしている形に整ったのが1210年だといいますから大変な歳月です。
これには武骨なサラリーマンといえる定家もさすがに参ったようで、日記明月記に「和歌所においてまた新古今を沙汰す。尽くる期無き事也」と相当へきえきした感想を残しています。
→関連記事「藤原定家 ~怒れる天才サラリーマン~」

その後の後鳥羽院、幕府を相手に喧嘩を売ったのは有名です。1221年の承久の乱です。
しかしあっという間に敗れてしまった後鳥羽院。隠岐へ配流となります。

さすがの後鳥羽院も意気消沈…とはなりません。
隠岐に渡った後も、あの新古今和歌集をまた編集しはじめるのです。これがいわゆる「隠岐本新古今和歌集」です。流刑の地で怨霊となり恐れられた崇徳院とはメンタリティーが全く違いますね。
→関連記事「崇徳院 ~ここではないどこかへ~

後鳥羽院の歌は、そんな院の性格がもろに表れています。
いい歌は遠慮なく頂く。それは「本歌取り」という尊敬を込めたオマージュというより、「俺のものは俺のもの、お前のもの俺のもの」といわんばかり。
それはまさに中世のジャイアン! 今回は無双の帝王、後鳥羽院の十首をご紹介します。

後鳥羽院の十首

(一)「みわたせば 山もとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なにおもひけむ」(後鳥羽院)
後鳥羽院は水無瀬川に別荘を作りました。そこへ遊女や白拍子を招き、羽目を外した遊び三昧の日々を過ごしたといいます。

(二)「桜さく 遠山鳥の しだり尾の ながながし日も あかぬいろかな」(後鳥羽院)
本歌は百人一首でも有名な「あしきひの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかもねむ」ですね。
もとの歌をほとんど頂いちゃっていますが、院がいるのは山鳥から遠い場所つまり都という設定です。閑寂な雰囲気はなく、ただ「飽きないなぁ」という帝王らしいゆったりとした歌です。

(三)「山里の 峰の雨雲 途絶えして ゆふべ涼しき 真木の下露」(後鳥羽院)
「峰の…、途絶えして…」は、定家の名歌「春の夜の 夢の浮橋 途絶えして 峰にわかるる 横雲の空」を意識してのことでしょうか? ただ歌の余情まではパクれなかったようです。

(四)「寂しさは 深山の秋の 朝くもり 霧にしをるる 真木の下露」(後鳥羽院)
こちらは三夕のひとつ寂連の「寂しさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」を完全に頂いちゃってます。しかも夕暮れを朝の場面に置き換えるといういやらしさ。いくら帝王とはいえ、現代では炎上必死ですよ。

(五)「このころは 花も紅葉も 枝になし しばしなきえそ まつの白雪」(後鳥羽院)
こちらも三夕のひとつ定家の「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」を自分のものにしちゃってますね。ただキーワードだけ拝借しているせいか、歌全体から感じる余情は乏しいです。

(六)「奥山の おどろがしたも 踏みわけて 道あるよぞと 人にしらせむ」(後鳥羽院)
俺には俺の道がある、それを知らせてやろう! 
承久の乱前夜、鎌倉方への宣戦布告ともとれる、帝王渾身の一首です。

(七)「我こそは 新島守りよ 隠岐の海の 荒き波風 こころしてふけ」(後鳥羽院)
「後鳥羽院遠島百首」から。
乱に敗れた院、「俺の道」は閉ざされ隠岐へ流されてしまいましたが、さっそく「俺が新しいご主人様だぞ!」と、配流先でも威圧感たっぷりです。

以下、遠島百首が続きます。

(八)「古里を 別れ路におふ 葛のはの 風はふけども かへるよもなし」(後鳥羽院)
古里に帰る術もない。さすがの後鳥羽院も古里が恋しいのですね…

(九)「眺むれば 月やはありし 月ならぬ 我が身ぞもとの 春にかはれる」(後鳥羽院)
あの時みた月はもはや同じ月ではない。時代は変わってしまった、ただ私だけは変わらずにいる…
傍若無人一辺倒の後鳥羽院がウソのように深い歌です。しかし実はこれ「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」(在原業平)から頂いちゃってるのは、相変わらずの帝王です。

(十)「同じ世に またすみのえの 月や見む けふこそよその 隠岐つ島守り」(後鳥羽院)
さすがの後鳥羽院も晩年は寂しく過ごしたのかもしれません。「同じ世にまた住むぜ!」という力強さの裏に、でも住むならやっぱり、よその隠岐ではなく住の江がいいなぁ…
帝王の本音が垣間見えた気がします。

ちなみに隠岐は日本最古の闘牛「牛突き」で有名ですが、実はこれ、スポーツ観戦が大好きな後鳥羽院が始めさせたということです。
都でもあっても島であっても「院は院」。いつどこでも全くブレない「俺様キャラ」が、後鳥羽院最大の魅力です。

(書き手:和歌DJうっちー)
→「一人十首の歌人列伝

崇徳院 ~ここではないどこかへ~


崇徳院は並みいる皇族の中でも、最も悲劇的な人物です。
院は父である鳥羽法皇から「叔父子」つまり鳥羽上皇の中宮である待賢門院と祖父である白川上皇の子であると疎んじられていました。
「愚管抄」によると崇徳院の養子である体仁親王(近衛天皇)が即位する際、譲位の宣命に「皇太弟」とされたため、政治の実権を握ることができませんでした。
当時は「院政」の時代です。政治の実権は在位する天皇の父である太上天皇(上皇)が握っていました。つまり院政を行うには、自らの「子」が天皇である必要があるのです。「弟」ではそれは叶いません。
体仁親王は鳥羽法皇と法皇が寵愛していた得子の子でしたから、この策略には鳥羽法皇の意向があったのでしょう。

その近衛天皇が崩御すると、院は自らの第一皇子である重仁親王の即位を画策します。
しかしそれは鳥羽法皇の意向によってまたも叶わず、後白河天皇が即位したのは周知のとおりです。
結局父と子は生涯すれ違ったままでした。

鳥羽法皇が崩御すると、天皇家、摂関家、武家それぞれが抱えていた内紛がついに明るみにでます。
保元の乱です。
後白河天皇と敵対し、敗れた崇徳院は讃岐に流されてしまいます。そして二度と都の地を踏むことはなく乱の8年後46歳で崩御しました。

崇徳院の悲劇は死んでも終わりません。
院の死後、後白河天皇の身内に不幸が続いたことから、怨霊という人々に忌み恐れられる存在として扱われるのです。
※崇徳院、平将門、菅原道真は「日本三大怨霊」などといわれます。

こんなエピソードを聞くと、どうしても崇徳院の歌にはこんな切望を感じます。
ここではない、どこか遠くへいってしまいたいと。

崇徳院の十首

(一)「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすゑに 逢わむとそおもふ」(崇徳院)
激流の人生。引き裂かれてもなお、いつか逢いたいと願う
これは自身が勅撰を命じた「詞花和歌集」の「恋」にある歌です。でもこの歌を、素直に恋歌と捉える人は少ないでしょう
逢いたいと願ったのは、治天の君となった自らか、若くして亡くなった近衛天皇か、天皇となった息子重仁か、それとも優しく包んでくれる父鳥羽院か… いろいろ想像が膨らんでしまう歌です

(二)「ひさかたの 天の香具山 いつるひも 我がかたにこそ 光さすらめ」(崇徳院)
(三)「花は根に 鳥はふるすに かへるなり 春のとまりを しる人そなき」(崇徳院)
私の方へ光が差すことなんてあるのだろうか? みんな帰る場所があるのに、私はどこへ行けばいいのだろうか? これらの歌には疑心暗鬼にかきくらす院の姿が見えます。

(四)「紅葉はの ちり行くかたを たつぬれば 秋も嵐の こゑのみそする」(崇徳院)
紅葉が散ったいま、聞こえてくるのは秋の終わりを告げる風の音のみ。

(五)「このころの 鴛のうきねそ あはれなる 上毛の霜よ 下のこほりよ」(崇徳院)
「おしどり夫婦」という言葉もあるように、鴛はオスとメスが仲睦まじいことで知られています。和歌でもこの意をくんで歌を詠むのが常套ですが、この歌は様子が違います。
上毛の霜を払ってくれる連れ合もおらず、孤独に浮き寝する鴛。その姿に情を寄せる院の歌には、計り知れない孤独を感じます。

(六)「狩衣 そての涙に やとる夜は 月もたひねの 心ちこそすれ」(崇徳院)
私に寄り添ってくれるのは月だけもしれない。

(七)「かきりありて 人はかたかた わかるとも 涙をたにも ととめてしかな」(崇徳院)
限りある命に分かれても、せめて涙は留めていよう
これは母である待賢門院への歌だといいます。院にとって母とはどのような存在だったのでしょう

(八)「誓いをば ちひろの海に たとふなり 露もたのまば 数にいりなん」(崇徳院)
千尋の誓いの海の前では、私の誓いなどものの数ではないことだろう

(九)「うたた寝は をきふく風に おどろけど 長き夢路ぞ さむるときなき」(崇徳院)
外の雑音に驚きはしても、長い夢が醒めることはない
絶望を前にしなければ、こんな歌は詠めません

(十)「夢の世に なれこし契り 朽ちずして さめむ朝に あふこともがな」(崇徳院)
夢のような世の中で交わした約束を、夢が覚める前(成仏する前)に果たしたい
これは藤原俊成に宛てた遺言の歌だといいます

崇徳院にとってここ(現世)は悪夢であり、希望の地は浄土つまり死後に求めていたように感じてしまいます。
現在、崇徳院は京都市上京区にある白峯神宮にお祀りされています。
きっと安らかに眠られていることでしょう。

(書き手:和歌DJうっちー)

→「一人十首の歌人列伝

Lesson.5-2 自分にとっての「美」を考える

手本を自分で選ぶ

学校や習字教室では、「きれいな字」とは整った「楷書」であると盲目的に教え込みます。しかし絶対的な「美」なんて存在しません。「楷書」より「草書」に美しさを感じるのなら、さっさと楷書を卒業して「草書」を徹底的学ぶべきなのです。

かなグラフィーも初学時の手本として「高野切れ(第三首)」を推奨しています。ただ一人前のかなグラファーとなればお仕着せの手本でなく「自分が書いてみたい」「自分にとって美しい」と思う手本を選ぶことが肝要です。
「本阿弥切」や「山家集」にみる西行筆、また俊成や定家の筆。これら癖のある書にこそ魅力が宿っています。それらに心を奪われたら新しい手本の決定です。
自らが感じる美の理想に挑む! これがかなグラフィーの最たるの原動力なのです。

(書き手:和歌DJうっちー)
「かなグラフィー」Lesson一覧

北鎌倉の桜散策 ~実朝を探して~

今回はWebサイトを飛び出し、北鎌倉散策の様子をお届けします。
目的はもちろん、盛りを迎えた「桜」。そして鎌倉三代将軍であり歌人「源実朝」ゆかりの地を訪ねることです。
※散策日:2016年4月6日

円覚寺

JR北鎌倉駅から徒歩なんと1分。
鎌倉五山第二位の「円覚寺」があります。
目の前に早速、見事な桜が見えてきました。
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今年の春は本当に雨が多いです。
ただ今日は晴天に恵まれました。
青空と桜の相性もばっちりです。
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境内の廟所にある「佛日庵」では抹茶をふるまっています(500円)。
あたりは春を奏でる鶯の音。実朝への思いをはせながら、美味しくいただきました。
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「弁天堂」から見える山の桜。
吉野山の桜…とはいきませんが、なかなかです。
ちなみに右の隅っこに富士山が頭をのぞかせていました。
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↓ 徒歩10分

明月院

四季折々の花が美しい「明月院」です。
初夏の紫陽花は有名ですね。
春は枝垂桜が参道を彩ります。
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日本庭園と桜の組み合わせはてっぱんですね。
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↓ 徒歩15分

建長寺

鎌倉五山第一位の「建長寺」。
入口すぐの桜のアーチに圧倒されました。
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↓ 徒歩15分

鶴岡八幡宮

いわずもがな、源氏の氏神が祀られている神社です。
人が多いので早々に立ち去ります。
今日はラッキーなことに、結婚式の神楽舞と雅楽演奏に立ち会うことができました。
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↓ 徒歩10分

寿福寺

「寿福寺」は栄西が開山した鎌倉五山第三位の寺です。
そしてここに、「源実朝」が眠るお墓があります。
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母政子のとなり、岩盤に掘られた横穴の中で、実朝は供養されています。

金槐和歌集(岩波文庫)をお供えしました。
「実朝さま、あなたの歌は800年後の日本にも生きていますよ!」
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↓ 徒歩20分
ここから先の道はハードです。
鎌倉七切通しの一つ、「化粧坂切通し」が簡単には通してくれません。
※ここでベビーカーを押した夫婦とすれ違いました。かなりのツワモノです。
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源氏山公園

実朝の父君、頼朝公にも拝謁しました。
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↓ 徒歩10分

銭洗弁財天

ここに湧く「銭洗水」でお金を洗うと何倍にも増えて戻ってくるそうです!
ありがたや~
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↓ 徒歩20分
鎌倉駅に到着。およそ15,000歩の散策でした。
古都鎌倉は武家の都であるとともに、桜の都であると感じました。
そして実朝様、あなたと少しお近づきになれた気がします。

(書き手:和歌DJうっちー)

→関連記事「源実朝 ~甘えん坊将軍、鎌倉の海に吠える~

伊勢 ~女貫之の冷たい仮面~

伊勢は三十六歌仙にも選出され、歴代の勅撰和歌集に計176首も採られた凄腕の女流歌人です。
古今和歌集では小野小町と双璧をなしていますが、この二人は実に対照的なのです。

この記事の音声配信「和歌マニア(第18回)伊勢」を
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まずその生涯。
小野小町の名は史実に表れることなく、その存在は古今和歌集に残った歌で僅かに知れるのみです。
→関連記事「小野小町 ~日本女性の恋愛観のルーツ~

一方の伊勢。その名は史実にしっかりと残っています。
伊勢は女房として時の中宮温子に仕えていました。藤原時平(後の左大臣)や仲平らと恋を交わすのですが、実はこの二人、温子の異母兄弟なのです。平安貴族の恋の世界なんて狭いもんだなぁなんて、こんなことで驚いてはいけません。
なんと伊勢、あろうことに温子の旦那である宇多天皇の寵愛を受け皇子まで生んじゃうのです。そして宇多天皇が出家した後はな、なんと! その腹違いの皇子である敦慶親王と結ばれて女の子(歌人中務)を産むのです。
ちなみにこの敦慶親王は光源氏のモデルの最有力候補です。なにせ自分の親父の妻と恋仲になるのですからね。

平安時代を「色好みの時代」なんていいますが、現代の感覚からいうと常軌を逸しています。
自分の兄弟姉妹でなければ誰でもアリ、なんですから。

さて、話を戻しましょう。
伊勢と小町は詠歌のスタイルも大きく異なります。

小町の歌は古今和歌集に採られたほとんどがそうであったように、得意は「恋歌」一本。余情たっぷりな女心を詠ませたら右に出るものはいない恋のスペシャリストです。
→関連記事「余情妖艶と小野小町

一方の伊勢はオールジャンルに秀でたジェネラリスト。恋歌はもちろん、四季さらには物名、俳諧歌までも古今和歌集に採られています。そしてこれらの歌は極めて理知的でまさに古今風。さながら女版紀貫之と言ったもので、女房というより専門歌人と捉えたほうが正しい人です。

高貴な男たちから絶えず求愛を受けた、超絶モテ女の伊勢。
そんなドロドロした宮中の人間模様などおくびにもの出さず、ひたすらクールに頭脳的な歌を詠む。
伊勢の歌には、女の本音など微塵も見ることはできません。

伊勢の十首

(一)「春霞 たつを見すてて ゆく雁は 花なき里に 住みやならへる」(伊勢)
いわゆる帰雁を詠んだ歌です。春といえば春霞、春霞といえば花、というのが和歌的春の進行ですが、この春霞が立つ前に帰ってしまう雁は花がない場所に住んでいるのだろう、という少々ひねくれた歌です。

(二)「春ごとに 流るる川を 花と見て 折られぬ水に 袖や濡れなむ」(伊勢)
この歌では花弁が流れる(もしくは花が映る)川を花そのものに見立てています。その花は決して折られないばかりか袖が濡れてしまう、ということですね。

(三)「浪の花 沖から咲きて 散りくめり 水の春とは 風やなるらむ」(伊勢)
こちらも見立ての歌です。波しぶきを花に見立てています。
水の春とは面白い表現ですが、こういったセンスが伊勢が女貫之たる所以です。

(四)「五月こば 鳴きも古りなむ 郭公 またしきほどの こゑをきかばや」(伊勢)
五月になってしまえば、ほととぎすの鳴き声も古くなってしまうだろう。
和歌的五月と言えば夏も中旬です。この時期になれば、さすがのほととぎすも飽きられてしまいます。

(五)「難波潟 みじかき芦の 節(ふし)の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや」(伊勢)
「ほんの僅かの間」を芦の節に喩えたこの歌は、百人一首にも採られ超有名ですね。
女性たちの間ではまことしやかに胸キュン必至の歌、なんて語られていますが、男性の私からすると悪い冗談にしか聞こえません。
やはり恋歌は小町の方がはるかに魅力的です。
→関連記事「恋の和歌はなぜつまらないか?

(六)「知るといへば 枕だにせで 寝しものを 散りならぬ名の 空にたつらむ」(伊勢)
枕は何でも知っている! これは思わずハッとさせられる表現です。

(七)「あひにあひて 物思ふころの わが袖に 宿る月さへ 濡れる顔なる」(伊勢)
涙に濡れた袖に月が映る。このような象徴歌が後の新古今歌人たちに刺激を与えたのです。
つくづく伊勢の詠歌のバリエーションの豊富さには驚かされます。

(八)「冬かれの 野辺とわが身を おもひせば 燃えても春を またましものを」(伊勢)
男の訪れがなくなった身を冬枯れの野辺に喩え、それが野焼きによって春を待つように、あの人への思いで身を燃やして待つ。
かれに「枯れ」と「離れ」、おもひに「思ひ」と「火」を掛けるなんて、貫之も驚きの頭でこねくり回した超技巧的な歌です。

(九)「久方の 中におひたる 里なれば 光をのみそ 頼むべらなる」(伊勢)
この歌は要するに、私伊勢は温子様の御威光だけが頼りですという歌です。
同じ人(宇多天皇)を愛した温子と伊勢の関係は良好だったと言われますが、本心は当人たちのみぞ知るというもの。
とにかく伊勢はひたすらクールに歌を詠んでいます。

(十)「難波なる 長柄の橋も つくるなり 今はわが身を 何にたとへむ」(伊勢)
小野小町が老いを嘆くと「花の色は…」となりますが、伊勢の場合は「長柄の橋も新しく作られた今、老いたこの身を何に譬えようか?」です。これは俳諧歌に分類されていますが、確かに思わず笑っちゃう歌です。

こういう歌を知ると思います。伊勢は自分のためでなく、他者に楽しんでもらうために歌を詠んでいたのだと。

(書き手:和歌DJうっちー)

和泉式部 ~恋にまっすぐな平安ジェンヌ~

和泉式部は女房三十六歌仙にも選ばれた平安時代中期に活躍した歌人です。
紫式部はじめ赤染衛門、伊勢大輔らと共に時の中宮、藤原彰子に仕え、華やかりし女流文化勃興の一役を担いました。

ご承知のとおり和泉式部は多情で知られ、藤原道長には「浮かれ女」などと言われていたそうです。
時の権力者にこう言わしめるとは、目も当てられませんね。
また同僚である紫式部には、その日記で

「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ…」
紫式部日記

「けしからぬ方」、ですよ、いろんなイメージが湧きますが、つまりは相当はっちゃけてたんでしょうね。

ただ彼女が綴ったとされる「和泉式部日記」をみると、少し違う印象を受けます。
今回は「和泉式部日記」の和歌から、本当の式部像に迫ってみましょう。
※「和泉式部日記」は藤原俊成が書いたという説もあります。

和泉式部の十首(「和泉式部日記」より)

和泉式部は夫である橘道貞が単身赴任中に、冷泉天皇の皇子である「為尊親王」と激しい恋に落ちます。
しかし為尊親王は若くして亡くなってしまうのでした。
その悲しみのなか喪に服して一年がたとうという頃、亡き為尊様に仕え、今はその弟君である「敦道親王」に仕える小舎人童に出会う場面から「和泉式部日記」は始まります。

(一)「かをる香に よそふるよりは ほととぎす 聞かばや同じ 声やしたると」(和泉式部)
為尊親王の弟君である敦道親王に対して、あなたの声はお兄様と同じかしら? 
と、いきなり誘っているようですが、ここは単純にほととぎすにお兄様である為尊親王の声を重ねているのでしょう。

(二)「夜とともに 濡るとは袖を 思ふ身も のどかに夢を 見る宵ぞなき」(和泉式部)
お兄様のことを思い出せば、のんびり夢を見ることなんてあるわけない! と、強烈に弟君を突き放します。

(三)「世の常の ことともさらに 思ほえず はじめてものを 思ふあしたは」(和泉式部)
ん? どうやら和泉式部、弟君と早速一夜を共にした上に、初めてこんなにドキドキしちゃった、と言わんばかりです。
これはやはり、けしからん! でも恋しちゃったんですもの、しょうがないです。
しかしここから先、和泉式部は以外にも慎重です。 

(四)「よもすがら なにごとをかは 思ひつる 窓打つ雨の 音を聞きつつ」(和泉式部)
一晩中あなたを想っていたんですよって、いじらしいですね。 

(五)「ひと夜見し 月ぞと思へば ながむれど 心もゆかず 目は空にして」(和泉式部)
あの晩あなたと一緒に見た月だと思うと、心は上の空ですって、最高に沁みる歌です。

(六)「こころみに おのが心も こころみむ いざ都へと 来て誘ひみよ」(和泉式部)
和泉式部は都から離れた近江の石山寺にいました。にもかかわず、こっちへ来て誘ってみてよ! と挑発的な歌を親王へ送ったのです。平安女性といえばひたすら忍び待つイメージですが、それをぶっ壊す歌です。

(七)「惜しまるる 涙に影は とまらなむ 心も知らず 秋は行くとも」(和泉式部)
#惜しんで止まらない涙にあなたの面影をとどめようって、なんとも愛おしい歌だなぁ。

(八)「時雨かも なにに濡れたる 袂ぞと 定めかねてぞ 我もながむる」(和泉式部)
時雨でしょうか? 私の涙でしょうか? 分からないけど、ずっとあなたを想い耽っています。

(九)「今の間に 君来まさなむ 恋しとて 名もあるものを われ行かむやは」(和泉式部)
あなたから逢いに来てよ、噂が広まっちゃうじゃない! そうでよすね、「浮かれ女」なんて言われちゃいますもんね。

(十)「いとまなみ 君来まさずは われ行かむ ふみつくるらむ 道を知らばや」(和泉式部)
ええーい! あなたがこなかったら私から行くわよ! 和泉式部のこの強さが好きです。

そして恋は進み、最後は敦道親王に引き取られるという、平安文学に珍しくハッピーエンドで終わります。

しかし人生は残酷です。
日記には書かれていませんが、敦道親王もまたほどなく(4年後)亡くなってしまうのでした。
中宮彰子の女房になるのは、この後のことです。

「黒髪の 乱れもしらず うちふせば まづかきやりし 人ぞ恋しき」(和泉式部)
黒髪をそっと撫でてくれる人がいれば、それで幸せ。
これが式部の純粋な気持ちなのでしょう。

黒髪の歌は、後の多くの歌人に影響を与えました。
「長からむ 心も知らず 黒髪の みだれて今朝は 物をこそ思へ」(待賢門院堀河)
「かきやりし その黒髪の すぢごとに うち臥すほどは 面影ぞたつ」(藤原定家)
「くろ髪の 千すぢの髪の みだれ髪 おもひ乱れかつ おもひ乱るる」(与謝野晶子)

和歌にあっては少々異端ともいえる和泉式部。
「浮かれ女」などと揶揄されますが、一つひとつの恋を自分にまっすぐに謳歌したカッコイイ女性だったのです。
→関連記事「御簾裏の恋愛事情。和泉式部日記と蜻蛉日記に見る、平安女性の恋歌テクニック

(書き手:和歌DJうっちー)

→一覧「一人十首の歌人列伝

Lesson.5-1 線を面で構成してみる

散し書き

ここからはかなグラフィーの応用です。一首を行頭揃えて書くのではなく、バランスを組み立て自由に構成してみましょう。ちなみにこれを「散し書き」といいます。
縦に流れる一方だった流線が、まさに紙面を踊るようになります。構成をまとめるのが難しいようなら「寸松庵色紙」などの色紙作品に教えを乞いましょう。きっとあなたの力になるはず。流線と空間を創造は、創作のまた新しい刺激になります。

(書き手:和歌DJうっちー)
「かなグラフィー」Lesson一覧

→令和の古今伝授(和歌を詠み書くための会、神無月)10/27(日)9:50~11:50