藤原定家 ~怒れる天才サラリーマン~


ついに藤原定家の登場です。
和歌に興味を持てば、おのずと彼の名に突き当たることになります。

定家の父は千載和歌集の選者であり、当代歌界の長老藤原俊成。
→関連記事「藤原俊成 ~和歌界のゴッドファーザー~

自身は百人一首や新古今和歌集の選者であり、仕事とライフワークを兼ねて収集、書写した源氏物語(青表紙本)や古今和歌集などは日本文化の至宝というべきもの。
生涯最高位は正二位で権中納言という高位。また能楽『定家』では式子内親王との禁断の恋が伝わるなど、和歌史ひいてば日本文化史において、今にもその名を轟かせる最重要人物です。
→関連記事「和歌の入門教室 歌人と官位一覧表

と聞けば、誰もがトキメク天才貴公子なんかを想像するかもしれません。

そんな妄想をしていたあなた!
申し訳ありません、、

定家様の実像は全く違うのです!!

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この時代、貴族たちはこぞって自身の「日記」を書き記していました。
ご多分に漏れず定家も「明月記」という日記を19歳から73歳にかけてしたためているのですが、これが妄想に膨れた定家像を見事に打ち砕いてくれます。

日記にある定家はこうです、
※日記の記述は「定家明月記私抄(堀田善衛著)」から引用させて頂きました

「官途ノ事ハ望ヲ絶チ了ンヌ」と、出世できない身の上に絶望し、
「貧乏、衣装無キニ依リ…」と、貧窮の苦しみを訴え、
「詠吟風情尽ク」と、風情ある歌が詠めないことを嘆く
それも何度も何度も…

まさに惨憺たるもの。
やけっぱちの極み…
他人の日記なんて、見るもんじゃありませんね。

定家の人物像が伝わるのは明月記だけではありません。
例えば「後鳥羽院口伝」。
後鳥羽院と言えば歌人定家を見い出した人物。
自らが命じた「新古今和歌集」の編纂作業などを通じて、定家との関係も浅からぬ仲です。
その口伝にはなんとあるか?

「傍若無人」
「腹立の氣色あり」
「あまつさへ種々の過言、かへりて己が放逸を知らず」
後鳥羽院口伝

ものすごい酷評です…
それにしても治天の君に「種々の過言」とは、なんとも恐れ知らず。
→関連記事「後鳥羽院 ~お前のものは俺のもの、中世のジャイアン~

さて、これでは定家様のイメージ丸潰れ、和歌界のレジェンドの面目が立ちませんね。

彼が生きた平安末期から鎌倉初頭は激動の時代でした。源平合戦に知られる「治承寿永の乱」、「方丈記」や小説「羅生門」に残る「養和の大飢饉」など、乱世極まれり! といった様相で、明日をも知れぬ状況だったのです。

そんな中、明月記、定家19歳の名文句です
「紅旗征戎(こうきせいじゅう)吾ガ事ニ非ズ」

外野なんて知ったことか、俺は俺の道を行く!
二十歳もゆかぬ若造がこんな宣言するなんて(いや若造だからこそ言えたのか…)
ともかくちょっとカッコイイじゃないですか。

思うに藤原定家という人は、怒りのパワーで絶望の世界に自分の理想郷を築こうと悶え苦しんだ人だったのです。
歌という武器を用いて。。
トキメク貴公子とは言えなくても、ゴッホやベートーヴェンにも通じる怒れる天才「アーティスト」であったはずですが、悲しいかな藤原定家、後鳥羽院という絶対上司に仕える一介の「サラリーマン」に過ぎないのです。

でもこの抑圧、憤懣やりきれない気持ちの爆発が、あの研ぎ澄まされた美しい余情歌に結実したのだと思います。
今回は定家の人生を辿る十首を鑑賞してみましょう。

藤原定家の十首

一「出づる日の おなじに 四方の海の 浪にもけふや 春は立つらむ」(藤原定家)
定家のデビュー作は「初学百首」という百首歌。その一曲目を飾るのがこの歌です。
春が立つ(立春)と浪が立つを掛けるという平明な歌、天才もスタートは平凡だったですね。
この時定家20歳、伝説のはじまりです。

二「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(藤原定家)
「二見浦百首」で詠まれたこの歌は、「三夕の歌」としても超有名な歌です。
驚くべきはこの歌を詠んだ時、定家はまだ25歳だったということ。その若さでこの寂れようです。
ちなみに三夕で並び立つ西行とは44歳ほども離れています。すでに天才の片鱗が見えています。
→関連記事「三夕の歌 ~秋の夕暮れベスト3~

三「たまゆらの 露も涙も とどまらず 亡き人こふる 宿の秋風」(藤原定家)
新古今和歌集にも入るこの歌は、母である美福門院加賀が亡くなった折、父俊成に向けて詠んだ哀傷歌。
定家32歳。熟練度が増してきた象徴歌も大切な人の弔いの前では軽く感じてしまいます。

四「行き悩む 牛の歩みに 立つちりの 風さへ熱き 夏の小車」(藤原定家)
同じく32歳、六百番歌合に入る歌です。
六百番歌合とは藤原良経の主催で、歌人12人が百首づつ詠進し計千二百首を左右に番えて優劣を競うという前代未聞の歌合です。
参加した御子左家(俊成、定家、寂連ら)と六条藤家(藤原季経、顕昭ら)という新旧歌道家の全面対決になりました。
結果は…その後の家の栄枯盛衰をみれば明らかです。こうして天才定家は鍛えられていったのですね。

五「春の夜の 夢の浮き橋 途絶えして 嶺に分かるる 横雲の空」(藤原定家)
定家37歳、「御室(仁和寺宮)五十首」に入る歌です。
口語訳するのが野暮になってしまう洗練された象徴歌。
個人的にはこの五十首こそが定家史上最高の作品だと思うほど、優れた歌が並んでいます。

六「梅の花 匂ひをうつす 袖の上に 軒もる月の 影ぞあらそふ」(藤原定家)
この歌が入る「正治初度百首」を見て、後鳥羽院は定家に大惚れしました。
院に認められた定家はあっという間に昇殿を許され、後鳥羽院歌壇の第一人者への階段を昇ります。
梅の匂いと月の光が袖で争う。定家39歳、一大転機となった作品です。

七「かきやりし その黒髪の すぢごとに うつふすほどは 面影ぞたつ」(藤原定家)
新古今和歌集に採られた恋歌です。定家はこんなエロティックな歌も得意なのです。

八「白妙の 袖のわかれに 露おちて 身にしむ色の 秋風ぞふく」(藤原定家)
後鳥羽院の離宮、水瀬川で詠まれた「水無瀬川恋十五首」を飾る一首です。
この時定家41歳。歌人としてピークを迎えるとともに、後鳥羽院との関係も微妙になっていきます。秋風が吹くように。

九「秋とだに 吹きあえぬ風に 色かわる 生田の森の 露の下草」(藤原定家)
この歌が「最勝四天王院障子和歌」に選ばれなかったといって、選歌した後鳥羽院に定家は陰で毒づきます。
しかし狭い宮中、その噂は院の耳に入りあの後鳥羽院口伝の記述になります。
「最勝四天王院の名所の障子の哥に生田の森の歌いらずとて、所々にしてあざけりそしる、あまつさへ種々の過言、かへりて己が放逸を知らず」
定家恐るべし!

十「道のべの 野原の柳 下萌えぬ あわれ嘆きの 煙くらべに」(藤原定家)
これを見て後鳥羽院は大激怒します。
遡れば数年前、定家の家の庭にあった立派な枝垂柳を後鳥羽院が召し上げるという事件がありました。実はこの歌には本歌があり…
 「道のべの 朽ち木の柳 春くれば あはれ昔と しのばれぞする」(菅原道真)

後鳥羽院は定家が本歌をもじって、柳の恨みをいまだにしつこく訴えていると捉えたのです 。これで定家は人生二度目の院勘、つまり勘当処分を受けました。

「道のべの 朽ち木の柳 春くれば あはれ昔と しのばれぞする」(菅原道真)
定家は己を配流された道真に喩え、自分(院)に恨みを言っていると受け取られたのです。これで定家は人生二度目の院勘、つまり勘当処分を受けました。

その翌年、1221年に後鳥羽院は「承久の乱」を起こします。
結果は言わずと知れたものですが、隠岐に流されてしまった院とは二度と会うことはありませんでした。

後鳥羽院と離れ、鎌倉方に近づき生活が徐々に豊かになっていくと
定家のあのため息の出る様な象徴歌はナリを潜め、前時代的な平明な歌ばかりが増えていきます。
例えば晩年の作品「藤河百首」から引いてみると…

「朝ぼらけ みるめなぎさの 八重かすみ えやは吹きとく 志賀の浦かな」(藤原定家)
「けふよりや このめもはるの さくらはな 親のいさめの 春雨の空」(藤原定家)
ちょっとした変化球がありますが、ほとんど古今調です。

「秋風の 雲にまじれる 嶺こえて 外山の里に 雁は来にけり」(藤原定家)
これなんか、言っちゃなんですがなんのヒネリもない歌です。

定家にとって、生活の安定は望むところだったのかもしれませんが、ファンとしては少しばかり残念です。
天才が育つには、環境という要素が非常に重要なのかもしれませんね。

→関連記事「定家様にインタビューしてみた ~毎月抄で知る初心者の心得~
→関連記事「定家vsマラルメ 世紀を超えた対決! 象徴歌の魅力に迫る
→関連記事「百人一首はなぜつまらないか

(書き手:和歌DJうっちー)

【和歌マニア(第七回)】紅葉を愛でるエトセトラ

秋といえばやっぱり紅葉! 春の桜と違い、秋の紅葉はその色のようにとりどりな詠まれ方をしています。紅葉のベストソングを鑑賞して、新しい秋の楽しみ方を見つけましょう。紅葉は露や時雨で染まる? 紅葉と言えば竜田川、そこには秋の終着点があった。

紅葉狩り、関東の竜田川を探せ!


紅葉前線南下中!!
桜が散ってはや半年、コンクリートうっそうと茂る東京が再び色とりどりに染まる季節がやってきます。

春の桜に秋の紅葉。
これらを鑑賞して楽しむのは、時代の隔たった平安歌人と繋がる絶好の機会。
どうせだったら和歌に詠まれた歌枕、名所で紅葉を見たいものです。
さっそく当サイト渾身の「歌枕一覧マップ」で、関東近郊の歌枕を探してみましょう!
→関連記事「和歌の入門教室 特別編 歌枕一覧マップ

さて、すぐに気づくと思いますが、
関東には紅葉の名所どころか歌枕自体が乏しい…

悲しいかな、やはり和歌は平安京が舞台の中心。
関東に目を向けられるのは、源実朝という鎌倉歌人の登場を待たなければならないのです。
こんな時ばかりは、京都や奈良に住む人が羨ましくてなりません。

ないのか関東に竜田川は!!

294「ちはやふる 神世もきかず 竜田川 唐紅に 水くくるとは」(在原業平)
302「もみち葉の 流れざりせば 竜田川 水の秋をば だれかしらまし」(坂上是則) 
311「年ごとに もみち葉流す 竜田川 みなとや秋の とまりなるらむ」(紀貫之)

百人一首のあの歌だって、恨めしく思われます。

まあ嘆いてもしょうがありません、ないものはないのです。
それにしても面白いのは、紅葉の取り合わせのほとんどが「川」だということです。

花札で印象が強い紅葉と「鹿」の取り合わせは一首しかありません。
215「奥山に 紅棄ふみわけ なく鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」(猿丸太夫)
→関連記事「11月に柳!? 花札の謎を古今和歌集で解く!

紅葉は「川」との取り合わせが最も美しいのだ。
そう古今和歌集が教えてくれます。

そしてそれは「竜田川」に限らない、とも

301「白浪に 秋の木の葉の 浮かべるを 天の流せる 舟かとぞ見る」(藤原興風)
303「山河に 風のかけたる 柵は 流れもあへぬ 紅葉なりけり」(春道列樹)
304「風ふけば 落つるもみち葉 水きよみ 散らぬ影さへ 底に見えつつ」(凡河内躬恒)
310「み山より 落ちくる水の 色見てぞ 秋は限と 思ひしりぬる」(藤原興風)

ならば、です。
どうせ紅葉狩りに行くのなら、「川と紅葉」が楽しめるスポットへ行ってみましょう。
竜田川ばりの風情があるかは分かりませんが、少しでも平安歌人の気分になれるはずです!

というわけで、私がお勧めする関東の紅葉狩りスポットは以下になります。
・養老渓谷(千葉県)
・長瀞(埼玉県)
・袋田の滝(茨城県)

高尾山まして明治神宮では、和歌の紅葉は味わえませんよ。

→関連記事「紅葉を愛でるエトセトラ

(書き手:和歌DJうっちー)

着物と和歌 ~袖は口ほどにものを言う~


今回のお題は「着物」と「和歌」です。
平安貴族を象徴するこの優美な衣服と和歌は、裁っても裁ち切れない関係にあります。

一口に着物と言ってもそのスタイルは様々、TPOに応じて然るべき着こなしをしていました。
男性はまず「束帯」と「衣冠」、これは貴族の正装で、現代のフォーマルウェアというべきものです。
「直衣」は普段着のジャケットスタイル、動きやすい「狩衣」はブルゾンなどに例えてもいいでしょう。

この記事の音声配信「第13回 着物と和歌。袖は口ほどにものを言う」を
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ちなみに正装時に着用する上着を「袍」といい、これは位階によって色が決まっていました。
例えば三位以上は「紫」、四位・五位は「緋」といったぐあいです。
天皇の袍色である「黄櫨染(こうろぜん)」などは、他の者には着用が許されなかったことから「絶対禁色」なんて言われたりします。

女性はやはり、「十二単」ですよね。
この平安女性を代表する重厚長大な衣装は、実は宮中に仕える「女房」の衣装なのです。
皇后などは「袿姿」といって、もう少し身軽なスタイルを正装としていました。

ちなみに「十二単」と名前が付いていますが、本当に12枚もの重ね着をしていた訳ではありません。
では何枚重ね着していたのか?
まず「小袖」を着て、その上に「単衣」、「五衣(袿五枚)」、「打衣」、「表着」、最後に「唐衣」を着ると…
全部で10枚! これがスタンダードスタイルです。
どっちにしろすごい枚数ですね。
こんな格好でどんな仕事が出来るかと考えれば、やはりご息女の教育係くらいしかないでしょう。

ところで、着物の最大の特徴ってなんだと思います?
いわゆる洋服と比較した場合、「帯」や「襟」なども非常に独特なものですが、
着物を着物たらしめているのは、その「袖」にあると言っていいでしょう。

小袖に大袖に振袖…
袖の違いが着物の違いとなります。

平安時代は袖口を縫い合わせない「大袖」が主流です。
重ね着した袿の配色を「襲色目(かさねのいろめ)」といって楽しむのも、袖口が広いから出来るおしゃれです。
例えば「紅梅の匂」という襲色目だと、「青、濃紅梅、紅梅、紅梅、淡紅梅」の配色が袖口から覗きます。
こんなのが季節やイベントによって何パターンも定義されていたのです。
ですから「あの娘、桜も綻んできたのにまだ紅梅だなんて、ダサぁい」なんてことになります。

ちなみに袖口が広いということは、風通しがいいということです。
夏でも重ね着して過ごすための工夫だったとも言えますね。
→関連記事「夏、それは平安貴族最大の苦痛

対して袖口を縫い合わせたのを「小袖」といいます。
平安の後宮女性たちはこれを「下着」として使っていました。
鎌倉時代以降はこの下着が徐々に上着に取って代わり、見た目よりも機能性を重視したいわゆる現在の「着物」と進化していくのです。

まさに袖に着物の歴史あり! ってところですね。

さて、いよいよ本題に入りましょう。
平安貴族を飾るこの衣装は、和歌にも様々詠まれてきました。

例えばこの歌。
410「唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」(在原業平)
「萎る」、「褄」、「張る」、「着る」と「衣」の縁語のオンパレードです。

554「いとせめて 恋しき時は むば玉の 夜の衣を 返してぞ着る」(小野小町)
この当時、衣を裏返して寝ると、夢で愛しい人に逢えると言われていました。
一種のおまじないですが、恋に悩める乙女のやることは今も昔も変わりません

715「蝉の声 聞けば悲しな 夏衣 うすくや人の ならむと思へば」(紀友則)
これは恋の後半に出てくる歌です。生地の薄い夏衣を、相手の薄情に例えています。

843「墨染の 君が袂は 雲なれや たえず涙の 雨とのみ降る」(壬生忠峯)
これは哀傷の歌です。墨染とは「喪服」の意、その袂(袖下の袋部分)に涙の雨が降ると歌っています。

637「東雲の ほがらほがらと 明けゆけば おのがきぬぎぬ なるぞ悲しき」(よみ人しらず)
東の空がほんのりと明るくなり始めました、それは逢瀬を遂げた二人にとって別れの合図。いわゆる「後朝の別れ」ですね。
「おのが衣衣(きぬぎぬ)なる」とはそれぞれ自分の衣を着る、つまり帰り支度をするということです。
ちなみに当時は布団というものがありませんから、二人寝の際にはお互いの衣を重ねて寝ていました。
残り香に愛しい人を思い出す、なんてこともあったのでしょう。

1012「山吹の 花色衣 ぬしや誰 問えど答えず 梔子(くちなし)にして」(素性法師)
山吹の重ねは表が淡朽葉、裏が黄です。この色は実際の山吹ではなく「梔子」を用いて染色していました、からの「梔子」と「口無し」の掛詞です。

さて、先ほど言ったように着物といえば「袖」です。
歌中に「袖」が出てくる歌は本当にたくさんあります。

22「春日野の 若菜摘みにや 白妙の 袖振りはへて 人のゆくらむ」(紀貫之)
大きな袂で手を振れば、遠くからでもしっかり目立ちます。

309「もみじ葉は 袖にこきいれて 持ていてなむ 秋は限と 見む人のため」(素性法師)
袖はこうも使えます。大きな袋がついているようなものですからね。

32「折りつれば 袖こそ匂へ 梅花 有りとやここに うぐひすの鳴く」(よみ人しらず)
手折った梅の香が袖に移り、そこにうぐいすが鳴く。
なんとも理知的な情景ですが、これぞ古今和歌集の真骨頂!

そして「袖」の詠み方といえば、やはりこれが定番、
「涙に濡れる袖」です!

577「音に泣きて ひぢにしかども 春雨に 濡れにし袖と 問はば答へむ」(大江千里)
574「夢路にも 露やおくらむ よもすがら かよへる袖の ひぢて乾かぬ」(紀貫之)
763「わが袖に まだき時雨の 降りぬるは 君が心に 秋や来ぬらむ」(よみ人しらず)
これら3首はすべて恋の歌です。
叶わぬ恋の涙で、私の袖は乾く間もない…

口に出さなくても袖を見ればわかるでしょ、この恋心。
ってなもんです。

そして「袖」歌の到達点がこちら、
「梅の花 匂ひをうつす 袖の上に 軒もる月の 影ぞあらそふ」(藤原定家)

先ほど「梅の香が移った袖でうぐいすが鳴く」という歌がありましたが、
これは袖に移った(映った)「梅の香」と「月の光」が競う合う、というとんでもない歌です。
恐るべき芸術性、さすが定家様です!
→関連記事「定家vsマラルメ 世紀を超えた対決! 象徴歌の魅力に迫る

服が変われば、歌も変わる。
着物があってこその和歌、和歌あってこその着物、ということですね。

【和歌マニア(第五回)】三夕の和歌 ~秋の夕暮れベスト3~

「秋の夕暮れ」で終わる寂連、西行、定家の三首。うっちーによる話し言葉の現代訳が分かりやすい! 色もなき秋の夕暮れとは? 西行の心なき身にとは? なんと、古今集と新古今集の秋の夕暮れの違いは末法思想のため? 定家の挑戦、な~んにもない秋の夕暮れは「わび」の心である!

和歌とカレンダー(旧暦)の楽しみ方


「日本は四季が素晴らしい!」なんてセリフをよく聞きます。
ただその絶賛している四季、みなさん本当に楽しんでいますか?

春の「お花見」、秋の「紅葉狩り」だけでは楽しんでいるうちに入りません。
やはり平安歌人のように…

21「君がため 春の野にいでて 若菜摘む わが衣手に 雪はふりつつ」(孝明天皇)
46「梅が香を 袖にうつして とどめては 春はすぐとも 形見ならまし」(よみ人しらず)
191「白雲に 羽うちかはし 飛ぶ雁の 数さへ見ゆる 秋の夜の月」(よみ人しらず)

花鳥風月、四季折々の移ろいに触れた感動を歌にする、これぞ最高に贅沢な楽しみ方♪
みなさんもぜひやってみましょう!

なんて、安易に言おうものなら…
「コンクリートジャングル」なんて揶揄される無機質な都会に住む私たちに、できっこないじゃん!
と秒速でカウンターパンチを喰らうことでしょう。

この記事の音声配信「第十回 和歌と暦(カレンダー)の深~い関係♪」を
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やはり私たち現代人は、平安歌人と同じような四季の楽しみ方は出来ないのでしょうか?

いいえ、実は簡単に出来るのです!
ただしそれは「カレンダー」の中の四季ですが…

おっと、期待して損した、なんて嘆かないでくださいね。

カレンダーは平安歌人と繋がる豊かな四季の情報でいっぱいなんです。
それに当の平安歌人だって、実のところカレンダーつまり「暦」に頼って四季を感じ取っていたのですから…

ということで、お手元にカレンダーをご用意ください。
これから、平安時代と同じように四季を楽しむ方法をご案内します。

まずはカレンダーの月(Month)にご注目、睦月、如月、弥生といった文字があると思います。
これはお馴染みですね、そう「旧暦」の月(Month)表記です。

旧暦はご存知の通り、「月の満ち欠け(朔望)」を基準にした暦です。
ちなみに「新月」が「朔」で「満月」が「望」の状態で、この変化を「朔望月」といいます。

ではここで問題です、朔望月(新月→満月→新月)の期間は何日になるでしょうか?

正解は約29.5日です。
ということはですよ、朔望月を12回繰り返しても約354日にしかなりませんよね?
これは太陽暦と比べると3年で約1ヶ月、10年で約3ヶ月の差が生じることになり、夏に桜が咲くといった事態に陥ってしまいます。

しかし、昔の人は愚かではありません。
これを回避するために三年に一度、閏年ならぬ「閏月」を入れ暦を調整していたのです。
旧暦を正しくは「太陰太陽暦」というのはこのためです。
→関連記事「日本美の幕開け! 年内立春の歌に紀貫之の本気をみた

平安歌人は月(Month)の変わり目で歌を沢山の詠んでいます。
一部を鑑賞してみましょう。

[詞書]卯月に咲ける桜を見てよめる
136「あはれてふ 事を数多に やらじとや 春に遅れて ひとりさくらむ」(紀利貞)

[詞書]水無月のつごもりの日よめる
168「夏と秋と 行きかふ空の 通い路は かたへ涼しき 風や吹くらむ」(凡河内躬恒)

ちなみに「卯月」は4月、「水無月」は6月、「つごもり」とは「月隠り」つまり月末という意味です。

さて、次は日(Date)に目をやってみます。
月にふたつくらい、立春、雨水、啓蟄、春分といった文字が見つかるはずです。

これらは「二十四節気」と呼ばれるもので、テレビの天気予報などでもよく聞きますよね。
その際に「立春になりましたが、まだまだ寒いですねー」などと、節気と実際の気候とのズレが強調されたりしますが、
このズレを旧暦のせいにしていたあなた! 間違いです。

二十四節気とは「太陽の運行」(黄道上の位置)をきっちり24等分してそれぞれに名称をつけたものです。
ですから上で説明した「月の朔望」を基準とする旧暦(太陰太陽暦)とはまったく関係がありません。

節季が実際の気候とズレて感じるのは、節季が古代中国の黄河流域(およそ北緯37.5くらい)で誕生したことに起因します。
日本に置き換えると新潟県付近に位置しますから、東京を基準した場合ちょっと寒い表現となって当然ですよね。

この「節季」による季節の変わり目、特に「立春」、「立秋」を平安歌人は非常に大切にしました。

[詞書] 春立ちける日よめる
2「袖ひぢて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ」(紀貫之)

[詞書] 秋立つ日、上のをの子供賀茂の河原にかはせうえうしけるともにまかりてよめる
170「河風の 涼しくもあるか うち寄する 浪とともにや 秋は立つらむ」(紀貫之)

春の足音が聞こえる… なんて素敵なレトリックも
春が立つと書いて「立春」、からきているんでしょうね。

最後にこれを見つけましょう。
月(Month)と日(Date)の奇数のゾロ目に、端午、七夕、重陽といった文字があるはずです。
これらは「節句」といい、今でも伝統的な行事が行われたりしてお馴染みですね。

この節句の由来は太陽でもなく月でもありません。
ではなにか?

なんと、中国の「陰陽説」が由来なのです。
陰陽説によると奇数の重なる日は陽の気が強すぎるため、それを弱めるための儀式として節句が行なわれてたようなのです。

ちなみに平安時代は節句ではなく「節会」といって、
元日、白馬(正月7日、踏歌(正月16日、端午(5月5日)、豊明(11月新嘗祭の次の辰の日)に、宮廷で盛大なイベントが開かれていました。

[詞書] 五節の舞姫を見てよめる
872「『天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」(僧正遍昭)

「五節」は五番目の節である「豊明節会」を指し、そこで舞う舞姫を詠んだ歌です。
節会のクライマックスを飾る、それは優美で可憐な舞だったようです。

このように、身近なカレンダーだけでも、四季を十分楽しめることがお分かり頂けたことでしょう。
ちなみに大安や仏滅といった現代人に一番身近な暦注「六曜」は、古今和歌集に一切登場しません。
六曜が中国から日本に伝わったのが15世紀前後みたいですから当然ですね。

さて、よくよく考えてみると、平安貴族だって平安京という大都会で暮らしてたわけです。
四季の楽しみ方なんて、現代の我々とそう変わらなかったかもしれませんね。
コンクリートの中だって、四季を楽しめる! ってことです。

(書き手:和歌DJうっちー)

→令和の古今伝授(和歌を詠み書くための会、神無月)10/27(日)9:50~11:50