古今和歌集 恋歌残酷物語 その23「愛が恐怖に変わる時」

649「君か名も我なもたてじ難波なる みつともいふなあひきともいはし」(よみ人しらす)
650「名とり河せせのむもれ木あらはれは 如何にせむとかあひ見そめけむ」(よみ人しらす)
651「吉野河水の心ははやくとも 滝のおとにはたてしとそ思ふ」(よみ人しらす)
652「恋しくはしたにをおもへ 紫のねすりの衣色にいつなゆめ」(よみ人しらす)

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私は人道を外れた行為を犯した
実の兄の女を奪ったのだ
初めから分かっていたことだったのに
今や恐怖が先に立つ
この関係が表立つことは、なんとしても避けなければならない

どうか愛しいひとよ
私と逢ったことは口が裂けても言わないでくれ
私を恋しく思うのであれば、心の中でひっそりと思っていてくれ
そう、紫の根擦りの衣の様に、顔色になぞ決して出さないと約束してくれ
私も断じて口にすることはない
あなたのことを

一途で純粋な恋心は、もはや罪業の恐れへと変わってしまった

(書き手:和歌DJうっちー)
→関連記事「5分でわかる恋歌の全て ~古今和歌集 恋歌残酷物語(総集編)~
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恋の和歌はなぜつまらないか?

恋の和歌はなぜつまらないか?
世間一般では「今と変わらぬ恋心に胸キュン必至!」と無条件に礼賛されている感がありますが、
正直申し上げて、恋の和歌は面白いものではありません。

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一応断っておくと、全ての恋の和歌がつまらないと言っているのではありません。
中には男の私がウットリするような歌もあります。
だが大半は、つまらない。

では早速その「つまらない」代表例を古今和歌集からあげてみましょう。
487「ちはやふる 加茂の社の 木綿襷 ひと日も君を かけぬ日はなし」
489「駿河なる 田子の浦浪 たたぬひは あれとも君を こひぬ日はなし」
508「いで我を 人なとがめそ おほ舟の ゆたのたゆたに 物思ふころぞ」
493「たぎつ瀬の 中にも淀は ありてふを なと我恋の 淵瀬ともなき」
509「伊勢の海に 釣りする海女の 浮子なれや 心ひとつを 定めかねつる」
534「人しれぬ 思ひをつねに するがなる 富士の山こそ わが身なりけれ」
604「つのくにの 難波の葦の 芽も張るに しげきわが恋 人しるらめや」
626「逢ふ事の 渚にしよる 浪なれば 怨みてのみぞ 立帰りける」

恋部の前半をざっと見ただけでも、こんなにつまらない歌がありました。
皆さんも同様の感想を持たれないでしょうか?

実はこれらの歌には共通点があります。
それは、「比喩の序詞」で構成されていることです。
そしてその比喩がつまらなさを生んでいる元凶なのです!

例えば
437「襷(たすき)を掛けないことがないように、思いを掛けないことはない」とか
487「浪が立たない日はあっても、君を思わない日はない」さらに
「大船の様な思い」、「激流のような恋」、「海女の浮子(うき)のように揺れる」などなど…

言っては悪いですが、センスのないギャグのように思えます。
これら比喩が現代人の私にとって、全く共感できない。
そう、恋歌がつまらないのは、共感できないからなのです!

ストレートに恋心を表することは下卑とされた時代。
秘めた思いは花鳥風月に例え優美に表現しなければなりませんでした。
そこで多用されるのが、「○○のように思っています」という比喩の序詞。
この例え方が、現代の我々の感覚からあまりにもズレているから、共感できないのです。

つまり恋歌がつまらないのは、下手とか稚拙とかいう理由ではなく、
時代のギャップゆえに共感できないがための結果なのです。

だから序詞の比喩が現代にも共感可能であったり、序詞のない恋歌は、我々もウットリ感じることができます。

例をあげましょう。
まずは共感可能な比喩の序詞として、以下の歌。

479「山桜 霞の間より ほのかにも 見てし人こそ 恋しかりけれ」
春霞に隠れる山桜のように、微かに見えたあなたが恋しい…

542「春たてば 消ゆる氷の 残りなく 君が心は 我に溶けなむ」
暖かくなって冬の氷が残りなく溶ける様に、あなたの心よ、私に溶けてくれ

なんとも美しい…
現代でも十分通用しそうな口説き文句ではありませんか!
(恥ずかしくて言えないだろけど…)

そして、序詞のないストレートな恋歌の例。
552「思ひつつ ぬればや人の 見えつらむ 夢としりせば さめざらましを」
あの人のことを思いつつ寝たから夢で出会えたのだろか? 夢と分かっていれば目覚めなかったのに

553「うたたねに 恋しきひとを 見てしより 夢てふ物は 思みそめてき」
うたたねで恋しいあの人に出会えてから、夢だけを頼りにしています

理屈のない素直な恋心。
こういう歌は男には詠めません。
実際2首ともかの女流歌人、小野小町の歌です。
→関連記事「小野小町 ~日本的、恋愛観のルーツ~

さて、これで古今和歌集の恋歌がつまらない理由がはっきりしましたね。
→関連記事「和歌の入門教室 序詞

ちなみに序詞による比喩は、「○○の様」とダイレクトに例える「直喩」です。
一方で「暗喩」による恋歌も多数存在すると思います。

例えば以下
46「梅か香を 袖に移して 留めては 春はすくとも 形見ならまし」
あなたの香を袖に移し留めて、別れた後の形見とします…

もらい泣きしそうな切ない別れのシーン。見事な恋の歌ですよね。
しかしこの歌、「春」の歌なのです。
詞書にも男女の別れなどと記してあるわけではなく、表面上は季節の移り変わりを嘆く歌です。
ただこれを暗喩つまり「春」を「思い人」とみれば、恋歌として十分に成り立ちますよ。

四季歌に潜む恋心、探ってみても面白そうです。

(書き手:和歌DJうっちー)
→関連記事「5分でわかる恋歌の全て ~古今和歌集 恋歌残酷物語(総集編)~

源氏の恋文「黄昏の夕顔」



お便りありがとうございます

こんなにも美しく書き流した文は見たことがありません

あなたからの恋文と受け取ってよいのでしょうか

「寄りてこそそれかとも見め黄昏に ほのぼの見つる花の夕顔」

なにぶん噂ばかりで恋のやり取りに不慣れな私です

ましてやあなたの美しいお顔も見えにくい夕暮れ

もっと近くに寄れば、はっきりと見えるでしょうね

ごきげんよう

(源氏)


流石は光源氏。 得体の知れない女、夕顔からの挑発にも余裕で返答する。
懐から取り出した野暮な畳紙を、一瞬で恋色に染めるのであった。
さらに自分の筆跡とは違えるという周到ぶり。
探り合いから始まった二人は、やがて互いの身を焦がす恋に落ちる。

(書手:和歌DJうっちー)

源氏の恋文「夕顔の花」



突然お手紙を差し上げます非礼をお許しください

あなたは私のことを知らないでしょうね

でも、私はあなたのことを知っています

あてのない噂ばかりですけど

「心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花」

一度、直接お逢いしてお話ししませんか

今度はあなたが、私の事を知りたくなるかもしれませんよ

よいお返事、お待ちしています

かしこ

(夕顔)


夕顔は、浮名を流す源氏が本気で恋をした数少ない女性、
大胆にも女の方から誘いの手を伸ばす。

女は自らの移り香が深く染み込んだ扇に、恋心を美しく書き流す。
その上に夕顔の花を載せて、、、

(書手:和歌DJうっちー)

かなグラフィーとは

かなグラフィーの心

私が指南するのは旧来の「かな書」ではありません、日常を豊かに彩る「かなグラフィー」です。

「かな書道」と「かなグラフィー」における第一の違い、それは作品との向き合い方。
一般的な「かな書道」は所属団体での展覧会などいわゆる「ハレ」の舞台での披露が主目的となっており、玄人向けに書かれた「ひらがな」は極端に崩され変体仮名も多用、一般人を拒否した閉鎖的で分かりづらいものがあります。

一方の「かなグラフィー」。日常つまり「ケ」に美しさを添えることを目的にした作品は、これ見よがしに飾り立てることはせず、だれの目にも「わかりやすく」、「簡素」で「さりげなく」ふと隣に目をやると美しさに気づく日常に咲く「路傍の花」を目指すのです。

伝統への憧憬

かなグラフィーで推奨する第一の手本は「高野切れ(第三種)」です。美しくかつ素直な流線をみせる古今和歌集最古の写本は、初(書)学者に最適の手本です。また「寸松庵色紙」は平面構成(散し書き)を学ぶ第一級の手本。
これら歴史的にも価値が高く伝説的な手本に倣うことで、かな文字の理解、憧憬は一層深まることでしょう。
※高野切(第一種・第二種・第三種):11世紀に書写された『古今和歌集』の最古の写本。紙片が高野山に伝来したことから呼ばれる
※寸松庵色紙:散らし書きの絶品といわれる。茶人の佐久間実勝が京都大徳寺の茶室寸松庵に紙片が伝来したことから呼ばれる

かなグラファーへの道

和歌所の歌会では「かなグラフィー」も楽しめます!
歌会・和歌教室、和歌Bar

和歌の入門教室 「見立て」

見立てとは、ある対象を別のものに言い換えて表現することです。
取り立てて難しい話ではなく、日本一高い電波塔を空まで届く木になぞらえ「スカイツリー」と命名するようことです。

見立ては昔からよく用いられてきました。それは和歌に限りません。
茶の湯では、かの千利休が水筒用のひょうたんを花入として見立て用いた、など逸話が多く残っています。
そして日本庭園。
池を海に、その中の岩を島に見立てる。垂直に立てた岩を滝に見立て、そこに鯉の滝登りに見立てた鯉魚石を配する。さらに枯山水では、砂の文様を水の流れに見立てる。
これぞ見立てのオンパレード!
ただこれらの見立ては、条件が限られた故の「やむを得ない見立て」であったかもしれません。

和歌の場合は違います。
想像という制限のない中で、“より美しい表現”を求めて見立てを用いるのです。

例えば以下の和歌。
9「霞たち このめもはるの 雪ふれば 花なきさとも 花ぞちりける」(紀貫之)
暦は初春。雪を花に見立て、新緑の里に花が舞い散る優美な場面を歌い上げています。

そして極み付けは下の一首。
89「さくら花 ちりぬる風の なごりには 水なきそらに 浪ぞたちける」(紀貫之)
桜の花びらを浪になぞらえ、水のない空に浪が立っているという、古今和歌集いや世界の詩歌でも最上の想像美を作り上げています。

このように見立ては、和歌をずいぶん魅力的なものにします。
とはいえ、闇雲に見立てを駆使すればいいというものではないようです。
実は古今和歌集で使われている見立てには、それほどバリエーションが多くありません。
以下が、よく使われている見立てです。
・雪→花
・浪→花
・雨→涙
・露→玉
・女郎花→女
・紅葉→錦

最後に面白い見立ての例として2首上げておきます。
8「春の日の ひかりにあたる 我なれど かしらの雪と なるぞわびしき」(文屋康秀)
白髪が雪に見立てられています。あまり雅には思えません。。。

212「秋風に こゑを帆にあけて くる舟は 天のとわたる 雁にぞありける」(藤原菅根)
雁が舟に見立てられています。雁の群れでしょうが、かなり斬新な見立てですね。

(書き手:和歌DJうっちー)

「和歌の入門教室 一覧」

古今和歌集 恋歌残酷物語 その22「狂気の恋路」

642 「たまくしけあけは君かなたちぬへみ 夜ふかくこしを人見けむかも」(よみ人しらす)
644 「ねぬる夜の夢をはかなみまとろめは いやはかなにもなりまさるかな」(業平 なりひらの朝臣)
645 「きみやこし我や行きけむおもほえす 夢かうつつかねてかさめてか」(よみ人しらす)

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きぬぎぬの別れ後の孤独

共寝をした夜の事を思うと

言いようのない儚さに襲われる

本当にあの人と一緒にいたのだろか?

あなたが来てくれたのか、私が行ったのか?

寝ていたのか、起きていたのか?

夢だったのか?

現実だったのか? 

これは狂気!

そういえば、あの帰り道

人に見られなかっただろうか?

そんな恐ろしいことを考えるくらい

私は狂っているのだろう

この恋路に

(書き手:和歌DJうっちー)
→関連記事「5分でわかる恋歌の全て ~古今和歌集 恋歌残酷物語(総集編)~
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古今和歌集 恋歌残酷物語 その21「愛の絶頂」

635 「秋の夜も名のみなりけりあふといへは ことそともなくあけぬるものを」 (小野小町)
637 「しののめのほからほからとあけゆけは おのかきぬきぬなるそかなしき」(よみ人しらす)
639 「あけぬとてかへる道にはこきたれて 雨も涙もふりそほちつつ」(敏行)

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人生とはかくも素晴らしいものだったのか

愛しい人に逢える

なんと幸せなことであろう

秋の夜長などと言うが、それは名前のみであったようだ

愛しい人といると、あっという間に夜が過ぎてしまう

ほら、もう夜が明けた

必ずやってくる別れの時

寂しさの涙か雨だか分からないがずぶ濡れだ

でもいい

またすぐ逢えるのだから

人は愛するために生きている

この時は心の底からそう思った

しかし

愛の絶頂はほんの一瞬なのだと

間もなく気づくことになる

(書き手:和歌DJうっちー)
→関連記事「5分でわかる恋歌の全て ~古今和歌集 恋歌残酷物語(総集編)~
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和歌の入門教室 特別編 「打消と完了の『ぬ』を秒殺せよ!」

突然ですが、『風立ちぬ』という映画、ご存知でしょうか?
2013年に公開された宮崎駿監督の作品です。

最近の映画は詳しくないという方、では
『風と共に去りぬ』はいかがですか?
スカーレット・オハラ(ヴィヴィアン・リー)が主人公の歴史的名作ですね。

と、映画の話をしたいわけではありません。
この2つのタイトルに共通項がありますよね。
そう「風」!
ではありません。。

語尾の「ぬ」です。

さて本題です。
『風立ちぬ』というタイトルを、よもや“風が立たなかった”と理解していませんか?
これでは飛行機が飛びません(涙
風が“立った”が正解です!

もしも間違って理解していたら…
それはこの「ぬ」を、、、
【打消】の助動詞『ず』の連体形「ぬ」と勘違いしてしまっているのです!

しかし、間違えるのも仕方ありません。
同じ質問を小学生にしたら、正解するのは難しいでしょう。
なぜならこの『ぬ』が、もはや古語であり、口語ではまさに死語といえる
【完了】の助動詞『ぬ』の終止形だからです!!

まあ、そんなこと知ってるよ、という方が大半だと思うのですが、和歌を鑑賞していて意外にこの『ぬ』の判別に迷うことがあります。
しかも【打消】と【完了】では訳した内容が真逆になるのためいろいろと厄介です。
例えば以下、「源氏物語」中の贈答歌(藤壺から源氏へ)をご覧下さい。

「袖ぬるる露のゆかりと思ふにも なおうとまれぬ大和撫子」(藤壺)
現代風に訳すと、
「忍んで思うあなた(源氏)の所縁と思っても、やはり疎んでしまう大和撫子の花」という感じです。
ちなみに「大和撫子」は、源氏との禁断の恋(藤壺は源氏の親父、つまり桐壺帝の妻)の末、誕生した若宮(冷泉帝)の暗喩で、内容的に源氏物語の中でも最重要の和歌です。

ではこの和歌の『ぬ』を【打消】としてみましょう。
すると「疎まれない」となるので意味が全く異なってしまい、大罪を犯したはずの藤壺が、全く反省していないような印象になってしまいますよね。
恐るべし『ぬ』!

このように、『ぬ』は細心の注意を払って判別しなければなりません。
ではその手順です。

まずは『ぬ』の“直後”を見ましょう。
「体言」(名詞)だったら一発で【打消】の『ぬ』です。

ただ先ほどの源氏物語の和歌のように、『ぬ』の直後が“大和撫子”と名詞にも関わらず【完了】であるケースがあります。(和歌は散文と違って、文の終止が分かりにくいですね)

それでは次に『ぬ』の直前を見ましょう。
直前の語の活用形が未然形の場合、【打消】の『ぬ』、連用形の場合、【完了】の『ぬ』です。

ですから、「風立ちぬ」の『ぬ』は直前が「立ち」と連用形なので【完了】なのです。
これが「立た」と未然形だったら、【打消】の『ぬ』です。
※「立つ」はタ行四段活用(た・ち・つ・つ・て・て)です

学校で古文を教えてもらったあの頃…、活用形を覚えることなんて無駄にしか思えませんでした。
しかしこうして古典に興味を持つと、もっとしっかりやっておけばとつくづく反省です…

さあ、これであなたも『ぬ』を秒殺!

※と、言いたいところですが、未然形と連用形が同じ語っていうのがあります(活用の種類が上一二、下一二段活用など)。じゃ、どこで判別するすりゃいいの? となりますが、これはもはや文脈から判断するしかありません。
また、『ぬ』の上に「係助詞(ぞ・なむ・や・か)」がある場合は、係り結びの法則で【打消】「ず」の連体形『ぬ』です。
秒殺への道のりは険しいかもしれません。。。

(書き手:和歌DJうっちー)

「和歌の入門教室 一覧」

古今和歌集 恋歌残酷物語 その20「禁断の逢瀬」

633 「忍ぶれと恋しき時はあしひきの 山より月のいててこそくれ」(貫之)
634 「恋こひてまれにこよひそ相坂の ゆふつけ鳥はなかすもあらなむ」(よみ人しらす)

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恐ろしくも走り始めた禁断の恋

あの人は兄の婚約者

だからなんだと言うのだ

一度逢瀬を遂げた恋を

だれが止めることをできよう

これは月が山の端から出てくるように

ごく自然のなりゆき

どうせ幾夜も逢えないのだ

逢坂のゆふつけ鳥よ

どうか今夜は鳴かないでおくれ

(書き手:和歌DJうっちー)
→関連記事「5分でわかる恋歌の全て ~古今和歌集 恋歌残酷物語(総集編)~
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→「令和の歌合せ(皐月の会)」5/26(日)10:00~12:00