夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里(藤原俊成)

『夕方になると野辺の秋風が身にしみる。あぁ深草の宿で鶉が鳴いているよ』。鶉というと今の人はまず卵を思い浮かべるかもしれないが、その鳴き声といえば鶏ほどではないが割にけたたましい。一見すると歌の風情に合わなそうだが、歌の背景を思うと鶉の鳴き声はかえって大きい方がいい。実はこの歌、俊成は伊勢物語第百二三段(深草)※の後日談として詠んだ。だから男が去って深草の野となり果てた里、そこから遥か遠くの都まで、聞こえるほどの大きさでなくてはならない。

※「野とならば鶉となりて鳴きをらむ狩だにやは君はこざらむ」(伊勢物語 第百二十三段)

(日めくりめく一首)

思ひやれ真柴のとぼそ押しあけて一人ながむる秋の夕暮れ(後鳥羽院)

さて、連日三夕の名歌をご紹介してきたが、今日もしつこく秋の夕暮れをご紹介したい、後鳥羽院だ。『想像してみろ! 真柴のとぼそを押し開けて、俺は一人で秋の夕暮れを眺めているのだぞ』。「とぼそ」とは「枢」と書く、まあ要するにボロい扉だ。これを押し開けて独り寂しく呆然と夕暮れを眺める、都での傍若無人ぶりを考えるとあまり想像したくない哀れな姿だ。
配流先の隠岐で詠んだ「遠島御百首」には、今日のようにかつての帝王らしく勇ましい命令調の歌※1もあり、一方で都を偲んで涙する歌※2などもあって興味が尽きない。ところで「思いやれ」とは誰に対して命じたのだろう? 皆で議論したら盛り上がるに違いない。

※1「我こそは新島守りよ隠岐の海の荒き波風こころして吹け」(後鳥羽院)
※2「なにとなく昔語りに袖濡れてひとり寝る夜もつらきかねかな」(後鳥羽院)

(日めくりめく一首)

和歌という行為の本質、「いろは歌」と「三法印」

いわゆる「歌の父母」をご存知でしょうか?
紀貫之は古今集の仮名序に「難波津」と「安積山」を挙げ、歌の父母でありまた書の手習いとしても定番であると記しています。今でも「難波津」は百人一首(競技かるた)の序歌として親しまれていますよね。

「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」(王仁)
「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」(陸奥国前采女)
この二歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける
(古今和歌集 仮名序)

しかし私は「いろは歌」こそ、本質的な意味で「和歌の父母」であると考えています。


「色は匂へど散りぬるを 我が世誰そ常ならむ
 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」(いろは歌)

歌意の詳細は他に譲りますが、要するにいろは歌は「諸行無常」や「涅槃寂静」という仏教の根本的な理念である「三法印」を言い表したものだとされています。※三法印には加えて「諸法無我」があります

ここからは完全に私の個人的な考えですが、古典和歌、詩歌という行為の本質にはこの「三法印」の理念があるとみています。
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見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ(藤原定家)

三夕のトリは定家の夕暮れである。おそらく三首のうちでもっとも知られているのがこれだ。言葉だけを追えば『何もない粗末な風景の方が情趣がある』といういわゆる「わび・さび」の表明であり、この「あるがままの美」がわび茶の方面で多大に喧伝されたのだが、その実定家の歌は極めてテクニカルだ。上句で『見渡せば花も紅葉も…』と言いかけて『なかりけり』と結ぶ。するとどうだろう、下句の本来寂れた情景に花紅葉が残像となって重層し、見たこともない夕暮れを表象する。この歌はシュルレアリスムなのだ。いかにこれを意識的に行ったか、寂連・西行にあった感情を排除し、風景を徹底的にモノ化していることでも分かる。さすが早熟の天才! と称えるべき点もあるが、実のところ若干二十五歳の定家はテクニックに頼るほかなかった。

(日めくりめく一首)

心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行)

三夕の二首目、今日は西行の夕暮れだ。適訳の必要などまったくない単純な歌、悪くもないがそれほどのものか? この歌の価値はやはり、詠み人が西行であるということに尽きる。知られるように西行は武士でありながら若くして仏門に入った、「心なき身」とは隠遁の身を卑下し顧みたものである。本来僧とは執着の念から遠くあるべきだが、西行はこれから生涯逃れることができなかった。花に月、そして鴫立つ沢の夕暮れ。いくら修行を積もうと自ずと心の底から湧き起ってくる妄念、西行にとって「美」とは二律背反の「苦しみ」であったのだ。出家して釈阿と名乗るも、世俗にどっぷりつかった俊成に、この歌にある魔力は到底理解できなかった※。

※藤原俊成は西行の夕暮れを「御裳濯河歌合」で負に判じ、「千載和歌集」に採ることもしなかった

(日めくりめく一首)

詩歌の変遷と私たち(古今和歌所)が目指す場所

上の図表に日本詩歌の変遷をざっくりと整理していますので、まずご覧ください。
そのうえで、私が理解する要点を以下に三つ挙げます。

・万葉集、古今和歌集から始まった日本の詩歌文芸は、元禄時代の松尾芭蕉によってその道の頂点に到達した(「猿蓑」は俳諧の古今集とも評される)

・明治以後、詩歌文芸は万葉集を理想に仰ぎ「写生」を本分とするようになる。そしてそれは現在まで続く

・古今和歌集を源とする詩歌伝統の本流である「和歌」は長らく空白いや絶滅している

さて、短詩型文学である短歌や俳句はその取っつきやすさから、ピークは過ぎたといえ今も親しんでいる方は大勢いらっしゃいます。
しかし(あくまでも個人的感想であると断っておきますが)、私はこれら現代の短詩型文学にほとんど魅力を感じません。なんとなれば現代短歌は重くて湿っぽい、言うなれば「漬物石」のような重さで共感を求める態度に引いてしまいます。また俳句はそれと正反対に極めて軽い、しかし軽すぎて季語がなければ川柳となんら変わらぬ薄くて筋がない「イカソーメン」。芭蕉が到達した高みとやらはいったいどこに行ったのでしょう?

私が好むのはやはり詩歌伝統の本流「和歌」です。しっかりとした筋も歯ごたえもあり、文芸を愛する者の知的好奇心を十分に満たしてくれます。しかし一方でこの「筋」が硬すぎて、近代人に敬遠されたのも事実。
でも詩歌は進化・発展するのです。なにより私たちは「玉葉集」をそして「芭蕉」を知ってしまった今を生きる日本人です。和歌の「心」は変わらずに、日常の風景を思うまま柔らかく表現することだってできる、いややらなければ貫之はじめ歴々の歌人に顔向け出来ないでしょう。

古典和歌はこれから再び進化します。それは青空を舞う白いカイトのように、優雅に美しく。
私たち古今和歌所は詩歌の高みを今一度目指すことを、ここに宣言します。
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さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ(寂蓮)

『寂しさってのは、その色とは無縁であった。真木立つ山の秋の夕暮れよ』。言わずもがな、三夕(さんせき)の誉れ高い寂蓮の一首である。秋の夕日に照る山紅葉は深い情趣を誘う、しかし心の琴線に触れていたのは色ではなく「夕暮れ」そのものであったのだ。寂蓮は真木(杉や檜など常緑樹)が群生する闇深い山でこの真実を発見した。寂蓮の夕暮れは、他の三夕どれよりも真に迫ってくる。西行、定家というビッグネームに埋もれがちだが、夕暮れという情景にもっとも感慨を寄せているのは寂蓮※であるし、この一首がなくては三夕というえり抜きに至らなかったであろう。日本人に秋の夕暮れを決定づけた、金字塔たる一種である。

※「村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ」(寂連)

(日めくりめく一首)

恒例! 秋の和歌文化祭を開催します

恒例! 秋の和歌文化祭

和歌所の恒例となりました、秋の和歌文化祭を開催します。
今回もご参加のみなさまが日頃鍛錬、勉強されている「技芸」や愛すべき古典に関する「物語」などをご披露頂ければと思います。日本文化に関するものであればジャンルや腕前は不問、これぞまさに日本の異文化交流です!

みなさまからの「話し足りない」というご要望を受け、今回は九時半から十六時半まで、七時間ぶっ通しで行います。日頃飽き足らない日本文化愛を語り尽くしましょう。

場所は紅葉鮮やかな肥後細川庭園の「松聲閣」。心づくしの秋に和歌の情景に思いを馳せ、風流な遊びに興じてみませんか。
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秋ちかうのはなりにけり白露のおける草葉も色かはりゆく(紀友則)

一見すると単に「白露」の歌かと思うかもしれない。しかしそうではない、今日の歌にも秋の七草が詠まれている。わからない方にヒントを出すと、詠まれているのは「桔梗」だ。それでもわからない? 仕方あるまい、答えを披露しよう。初から二句にかけて「きちかうのはな」という文字を見つけられると思う、これこそが「桔梗(きちかう)」なのだ! といって現代人が初見で見つけることはまず無理。そもそもこれは「物名」といって、平安歌人たちの言葉遊びの一つなのだ。というわけで、歌の内容自体には意味はほとんどない。

(日めくりめく一首)

なに人かきて脱ぎ掛けし藤袴くる秋ごとに野辺を匂はす(藤原敏行)

和歌に登場する景物はその類型化が徹底している。これまでご紹介した「女郎花」や「薄」などによっても、それが如実に分かったはずだ。「藤袴」の場合、名前と特徴がそれを決めている、つまり着物の「袴」とポプリにした強い「芳香」を詠むのが常套なのだ。『だれが来て(着て)脱いでいった袴(藤袴)だろう、毎年秋になると野辺を匂わす』。「袴」と「匂い」とを見事に両方詠み込んだ、まさに教科書のような一首だ。いったい誰の仕事だろうと思えばやはり直球男の藤原敏行であるが、むしろ敏行こそが教科書を作ったとも言える。

(日めくりめく一首)

→令和の古今伝授(和歌を詠み書くための会、神無月)10/27(日)9:50~11:50