うぐひすの谷よりいづるこゑなくは春くることをたれかしらまし(大江千里)

レノンといえばマッカートニーであるが、梅といえば「うぐいす」なのである。この抜群の取り合わせははやくも万葉集にみえる。このような景物の定型化は漢詩に由来することが多い。漢詩でも梅にうぐいすは常套であり、とくに杜牧の七言絶句「江南春」は有名である。「千里鶯啼緑映紅(せんりうぐいすないてみどりくれないにえいず )」。さて、今日の作者は和漢詩文に優れた大江千里である。先に断っておくが「せんり」ではなく「ちさと」と呼んでほしい。さもなければ格好悪いふられ方をするやもしれぬ。千里は漢詩句を和歌にアレンジした「句題和歌」を撰集し、漢詩の和歌との橋渡しを担った。この歌は春の訪れを立春という暦ではなく、うぐいすの声で知るというのに見どころがある。春の感じ方も十人十色だ。

(日めくりめく一首)

風雅の誠を追っかける!

同じものをかの藤原俊成は「本意(ほい)」と言い定家は「有心(うしん)」と著した。そして芭蕉が諭したのが「風雅の誠」である。
風雅とは狭義に詩文や書画への嗜みとされるが、これは広く花鳥風月そして恋、この世をうつろひやまぬ美的様相への希求心である。これらをやむなく留めたのが詩歌であり、その極意が三冊子で語られた「不易流行」だ。

現代人はすべからく満たされているが、ひとつ欠けているものがある、それこそが「風雅の誠」である。
ひと欠けといっても、これが心のど真ん中であるからタチが悪い。して私たち現代人はみな委縮し、閉塞し、退屈なのである。いまこそ、私たちに必要なのは「風雅の誠」なのだ。それは享楽であり希望であり人生である。
楽しまなくてどうする、遊ばなくてどうする。人生の誠は追及をとめぬものにしか味わうことができない。そしてそれは、ひとりより大勢のほうが心地いい。
ともに走ってみないか、風雅の誠へ続く道を。

(書き手:和歌DJうっちー)

松の葉の白きをみれは春日山こもめもはるの雪ぞふりける(源実朝)

松の葉にかかる白いものを見ると、あぁ春日山に春の雪が降っているなあ。木の芽も張って。という歌である。芽が「張る(つぼみが膨らむ)」と「春」の掛詞が見えるが、ほとんど凡庸な歌である。ところでこれには本歌がある。「霞たちこのめもはるの雪ふれば花なきさとも花ぞちりける」(紀貫之)。本歌は「花(桜)」なので芽が張るのも理解できるが、「松」はいかがなものだろう? さて作者はだれあろう、鎌倉代三代将軍源実朝である。所収は若干22歳でまとめられた「金槐和歌集」、つまりこの歌は、東の田舎青年が貫之への憧れ一心で詠んだ歌なのである。子規以来、実朝を万葉風歌人と決めつける方がたくさんおられるが、大きな誤りである。

(日めくりめく一首)

春の和歌まつり「第一回 春あわせ」(池上梅園)

来たる2019年2月16日、和歌所恒例の和歌祭を開催します。
今回のテーマはずばり「春あわせ」!

歌はもちろん書画、写真、音楽など、「春」を題材とした自他の作品をご紹介ください。
春の情景が印象的な古典のワンシーンなんかもいいですね。
みなさまとっておきの「春」をご持参いただき、左右チームに分かれて合わす(=プレゼン合戦)を楽しみましょう。残念ながら“いい感じの春がない”という方は、「おもいびと」としてチームを応援してください。

会場は梅の香薫る「池上梅園」! 春の訪れを心と体で満喫したいと思います。
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さはに生ふる若菜ならねどいたづらにとしをつむにも袖はぬれけり(藤原俊成)

沢に生える若菜ではないが、むだに年をつむ(摘む、積む)ほどにこの袖は濡れちまったよ。どこのジイさんの歌だろうか? 実はだれあろう、定家の父、藤原俊成である。新古今に採られた歌だが、息子の耽美な歌と比べるとどうにも野暮ったい。だが俊成はこれが正しい。それは年寄りの枯れた境地、といった安っぽい理由ではない。俊成は古今集のリバイバルに人生を掛けた、この平易な情景と修辞の駆使こそが古今調なのだ。しかし、であるとしても若菜と加齢は相性が良くない。ちなみに古今集には「雪を白髪に見立てる歌」があり、これは納得できる。

(日めくりめく一首)

はるの野にすみれつみにと来しわれぞ野をなつかしみひと夜ねにける(山部赤人)

古今集と新古今集には300年の間隔があるが、そこに文化違いはほとんど見られない。しかし古今集と150年の間隔しかない万葉集との間には、人間が違うんじゃないかと思うほどの隔たりが見られる場合がある。その主な現象が言葉であったり、歌に好まれる花の種類だったりする。その一例が今回の「すみれ」だ。歌は単純で、すみれ摘みに来た野が懐かしくて寝ちまった、というまさに牧歌的万葉歌である。しかしこのすみれ、古今集以後の勅撰集ではほとんど詠まれない。こういうのは他にもある、「あぢさゐ(あじさい)」をはじめ「ゆり」「つばき」「あさがほ」「もも」などだ。古今集では花を厳選した、つまり美の基準を設けたのだ。古今集には文化があり、万葉集にはそれがなかったのである。

(日めくりめく一首)

やまざくら霞のまより ほのかにも見てしひとこそ恋しかりけれ(紀貫之)

似ている。。「山桜」を「若菜」に、「霞」を「雪間」に置き換えてみてほしい。昨日紹介した忠岑の歌と全く同じ構成ではないか。しかしそれでいて、歌から受ける印象は異なる。それが効いているのは「山桜」であろう。この貫之の垣間見の歌からは出会いの衝撃そのものより、チラリとのぞいた女性の美しさがより強く感じられる。それはおそらく高貴な女、決して手の届かない高嶺の花。山桜にはそのように思わせる気高さがある。貫之は恋歌でも掛詞など技巧にはしるタチであるが、この歌の見立ては素直にして分かりやすい。そしてなにより美しい。

(日めくりめく一首)

かすがのの雪間をわけておひいでくる草のはつかに見えしきみはも(壬生忠岑)

恋がはじまる季節といえばいつだろう。情熱燃え盛る夏、感傷深まる秋、ゲレンデのアバンチュール冬。どれも違う。どう考えたって春じゃないか。この歌は春、運命的な女性との出会いのシーンをとらえた歌だ。雪の間から生えくるあの若草のように、ほんの一瞬見えた君、衝撃のチラリズム! 誰にもあるだろう、一目惚れの瞬間が見事に歌われている。この歌が活きているのは「若菜」である、この言葉ひとつに我々は青春の初々しさを思うのである。この歌に共感できない人間がいるならば、きっとまっとうな恋をしてこなかったのだろう。

(日めくりめく一首)

【和歌マニア(第74回)】ろっこのスリランカ紀行&睦月の歌をご紹介


帰ってきた和歌マニア! って終わってないんですけどね、、とにかく久しぶりの放送です。実はろっこ、スリランカに行っていました。そこで出会ったスリランカ美人や仏教の話をしちゃいます。もちろん、和歌の話も、今回は一月に和歌所で詠まれた秀歌をご紹介! ぜひお聴きください♪
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ひき別れとしはふれどもうぐひすの巣たちしまつのねを忘れめや(明石の姫君)

昨日ご紹介した歌は母(明石の君)からの贈答歌であったが、これはその娘(明石の姫君)からの返歌である。ちなみに両歌とも主題は「まつ(松と待つ)」である。よって縁語として「引く」が得られるのだが、これは当時の貴族が年始の初子の日に小松を引いて長寿を祝う、というほとんど理解できないイベントに関連する。さて、この歌について作者はこう感想を述べている「くだくだしくぞあめる(くどいったらありゃしない!)」である。ここは普通、いい感じのエピソードにして終わらせるところだが、そうはしないのが紫式部という人なのである。

(日めくりめく一首)

→「ろっこの和歌Bar(7月の夜会)」7/24(水)19:30~22:00