私を突き動かす「胸熱」の言葉

私みたいな無精な人間が、飽きもせずに和歌を探求しているのには理由があります。それは憧れの先輩が“私のため”に残してくれた「胸熱」の言葉が後押ししてくれるのです。今回はその一部をご紹介しましょう。

『胸熱』の言葉 その1

歌に師匠なし、ただ旧歌を以て師となす。心を古風に染め詞を先達に習はば、たれ人かこれを詠ぜざらんや
(「詠歌大概」藤原定家)

悲しいかな現代日本、古典和歌を教えてくれるような先生は誰一人おりません。古典知識の豊富な学者はいるかもしれませんが、実際に折々に和歌を詠んで風流を楽しもうなんていう“本物の歌人”はいないのです。
ですから私自身、ほとんど独学でやってきました。そこに不安がないといえば嘘になるでしょう。しかし『歌に師匠なし』、定家のこの一言によって私の迷いは吹っ飛んだのです。

藤原定家は名歌を沢山残しましたが、名言も沢山残してくれました。

「 詞は古きを慕ひ心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願ひて …」(近代秀歌)
「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ…」(明月記)

それは挙げればキリがないほど。
和歌の道に迷ったら、迷わず定家先輩に教えを乞いましょう。
そして『旧歌を以て師となす』
これを真摯に成せば必ず歌の道を成就すると私は信じています。

→関連記事「定家様にインタビューしてみた ~毎月抄で知る初心者の心得~

『胸熱』の言葉 その2

旅の物憂さもいまだやまざるに長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと又舟にのりて、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」
(「奥の細道」松尾芭蕉)

元禄時代の芭蕉は、定家や貫之といった和歌のレジェンドと比較すると最近の人で、私にとって親しみやすくアニキ的な存在です。
芭蕉も定家同様に名言を多く残してくれました。たとえば「笈の小文」の冒頭、

「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶におけるその貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし」(笈の小文)

などは、今も詠み人すべての指針となることでしょう。
しかし「奥の細道」こそ、私の心の炎を掻き立ててくれます。

そもそも奥の細道ですが、西行をはじめ藤原実方、奥州藤原氏など芭蕉にとって風流の先達を辿る旅でありました。私たちが古の偉人に思いを馳せるのと同じように、奥の細道の散文、発句は一途の憧憬の念で書き連ねられているのです。

胸熱の言葉は奥の細道のその最後に記されています。芭蕉らは春、江戸を出立し福島、宮城、岩手へ北上、新潟、秋田を経て岐阜の大垣に着いたのは秋、およそ半年の旅程で、歩いた距離は2400キロだと言われます。「旅の物憂さ(疲れ)もいまだやまざる」とは当たり前でしょう、それだけの長旅をしてきたのですから。にもかかわらず、芭蕉はこう言ってのけるのです

『伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて』

へとへとでありながら、それでも旅をやめない。そして奥の細道は新たな旅立ちを示しつつここで筆を置く、かっこよすぎやしませんか!

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」(芭蕉)

旅の歌人(俳人)の本分とはこうであると、芭蕉は身をもって私たちに教えてくれます。

>→関連記事「和歌・古典好きはまず、「奥の細道」を読もう!

『胸熱』の言葉 その3

人麻呂なくなりにたれど歌のこと留まれるかな。たとひ時移り言去り楽しび哀しびゆきかふとも、この歌の文字あるをや、青柳の糸絶えず松の葉のちり失せずして、まさきのかづら長く伝はり鳥のあと久しくとどまれらば、歌の様をも知り事の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくにいにしへを仰ぎて今を恋ざらめかも
(「古今和歌集仮名序」紀貫之)

胸熱の言葉ナンバー1を挙げるとしたら間違いなくこの言葉、紀貫之による古今和歌集 仮名序の最終段です。

実のところ紀貫之こそ、私が最も親しみを寄せる歌人です。貫之というと知が勝り堅苦しいイメージを持たれるかもしれませんね、しかし彼の本分はまったくそうでありません。雅を貴びながら常に笑いを忘れない遊びの人、それが紀貫之なのです。言葉遊びを旨とした和歌からも明らかなのですが、私がまず感銘を受けたのは「土佐日記」でした。

「廿二日、和泉の国までとたひらかに願ひたつ。藤原の言實船路なれど馬の餞す」(土佐日記)

冒頭の旅立ちのシーンですがご覧ください、「馬の餞(はなむけ)」です。
「餞」に「鼻向け」を掛けているのです。まさにギャグの王道! このように土佐日記は貫之の遊び心で満ち満ちているのです。
そんな貫之という人間が大真面目に記した「古今和歌集 仮名序」。

『人麻呂なくなりにたれど歌のこと留まれるかな(略)歌の様をも知り事の心を得たらむ人は、今をこひざらめかも』

(人麻呂は亡くなってしまったが和歌は残っている。その心に共感できるような人は、古今集を世に出した、俺たちの時代を恋慕わないことなんてない)

貫之は仮名序の最後で私にこう訴えるのです、「和歌を慕う心があれば俺たちはいつも一緒だぜ!」と。

→関連記事「貫之様にインタビューしてみた ~古今和歌集 仮名序妄訳~

この一文に出会った瞬間、一千年前の憧れの歌人は身近な先輩となりました。このような偉大な言葉がある限り、私は何度も立ち上がることができます。そして迷うことなく、歌道を邁進していくことができるのです。

(書き手:和歌DJうっちー)

和歌の型(基礎)を学び、詠んでみよう!

代表的な古典作品に学び、一人ひとりが伝統的「和歌」を詠めるようになることを目標とした「歌塾」開催中!

季刊誌「和歌文芸」
令和六年冬号(Amazonにて販売中)