和歌を詠もう!

私たち令和和歌所の活動テーマの一つが「新しい和歌の物語を作る」です。
しかし何をいまさら俳句でも短歌でもなく古典的な「和歌」なのか? 今回は「和歌」でなければならない特別な理由をお話ししましょう。

まず和歌や短歌・俳句といった個別ジャンルを離れ、詩歌(韻文)文芸が生まれる背景を考えてみると、共通して他者に自分を分かってほしいという「共感欲求」が認められます。
詩歌のジャンルとはその表現の差異に過ぎないわけですが、これらが「韻文」であることには意味があります。
「韻文」が持つリズムは、言葉を日常から逸脱させます。これはどういうことか? 端的に言うと、韻文は詠者から自立して、共感欲求を代弁してくれるのです。
仮名序の冒頭を思い返してください、

「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」
古今和歌集(仮名序)

自分の代弁者たる「韻文(歌)」のさまざま効力がこのように喩えられています。
「散文」では詩歌が成り立たないとは、こういうことですね。

ではなぜ、同じ韻文たる短歌ではなく和歌なのか?
同じ三十一文字の定型韻文として、現代短歌が和歌をルーツにしていることはご承知のとおりです。
しかし和歌と短歌は全く異なる韻文なのです、しかもその違いは年々際立っています。

この違いは詠み人の主体、すなわち「われ」にあります。
先に述べたように、詩歌の根本は共感欲求から起こります。ですから和歌も短歌も歌の中心には承認を求める「われ」が存在するのですが、短歌ではそれをダイレクトに現すのに対し、和歌は「われ」を空間(自然)や時間(移ろい)に対照することで浮かび上がらせるのです。

「世の中にある人、ことわざしげきものなれば、
心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり」
古今和歌集(仮名序)

これも仮名序の一文が端的に表しています。

明治期、革新的な歌人達は和歌ではなく短歌に可能性を見出しました。そこには近代化によって意識され始めた「自立の精神」が関係しています。
古いルールに縛られず「われ」が見たまま思うまま、自由に表現したい、要するに「われの解放」を求めたのです。和歌と短歌が行き先が180度違っておかしくはありませんね。
→関連記事「歌よみに与ふる書を読み解く。そしてますます子規を好きになる。

ちなみに短歌の「われ」は時代に合わせるように膨張を続けていくのですが、これが行き着いた先は何か?
それは「ひとりごと」でした。
現代短歌の主流は口語体の自分語り。自己陶酔の歌には、もはや天地を動かす力なんて残っていません。まあ、現代短歌の方がそんな力を求めていないんでしょうけど、、

さて、先ほど述べたように和歌では「われ」を自然や時間と対照することで捉えます。
「年も経ぬ いのるちぎりは 初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」(藤原定家)

優れた和歌とは、美しい叙景と詠人の抒情が表裏一体となり、えも言われぬ余情を感じさせるものです。
和歌文学の真価はそこにあります。
→関連記事「和歌を鑑賞する価値

しかし考えてもみてください。短歌が求めた「われ」は本当に自分にあるのでしょうか?

「諸法無我」
これは仏教の根本教理ですが、こんな言葉を持ち出すまでもなく、自分なんてのは外界との関係性=「縁」によってのみ把握できるものだと思います。
そしてこれこそが、日本のまっとうな世界観なのです!

つまり和歌を詠むということは自分の本質を探る体験であり、日本文化・精神を理解する正しい方法なのです。
近年、日本文化を礼賛するコンテンツが溢れニーズもそれなりにあるとは思いますが、こんなものに触れたって全く意味はありません。

「まず和歌を詠む」

自分探しを自分に求めるのはやめ、歌を媒介に自然や歴史に委ねてみましょう。
これが日本をそして日本人たる「われ」を理解する最善の近道なのです。
和歌DJうっちーの詠歌

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(書き手:歌僧 内田圓学)

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