和歌の本性「一期一会と悪あがきの爪痕」

和歌とは「一期一会」の感動、それに尽きる。

人はなべて冷酷な世界を生きている、永遠に止まない「時間」という絶対王に支配された世界だ。ここで人は生まれ落ちた刹那、全員が死という逃れられない運命に向けて行軍する。足を止めることは叶わない、戻ることは許されない、いくら嘆きこびへつらおうが誰もこの王たる真理に抗うことは出来ないのだ。

「春のあしたに花の散るを見て、秋の夕暮れに木の葉の落つるを聞く」

人は誰しも自然の移ろいに心を重ね、感動を得る。しかしこれは花紅葉の色香に酔っているのではない。「永遠の一瞬!」折々の自然にみえる無常の儚さに共鳴して心の底が慟哭するのだ。

ただ人間の欲とは凄まじい、なんとこの「一期一会」の感動を留めようと試みる。それは数ならぬ人間がみせる絶対王への悲しき抵抗、虚しき刃、言うなれば悪あがきにすぎないのだけれど。

であるからして、その様子は無残に醜い。花が咲く前から期待感に心を躍らし※1、散ればいつまでも女々しく愛惜の涙を流す※2。解せないのは望んだ花があるにもかかわらず、思いあまって隠し包んだり他のものに目を背けてしまうことだ※3。人間の悪あがきとはかくもさもしい。

しかし! これこそが情趣の源泉。悪あがき、和歌や古典文学の「あはれ」とは時間に抗う人間の必死の様相、その共鳴にほかならない。
決して叶わぬ夢、手に残らぬ徒花。無常の大河に突き刺さそうという情念の、勝れば勝るほどに和歌は和歌となり美しさは際立ってゆくのだ。

「あはれ」がない和歌は和歌でない。和歌とは一期一会の感動、それを三十一文字の言葉によって永遠に繋ぎとめようという虚しき爪痕である。

※1「春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯ぞ鳴く」(素性法師)
※2「濡れつつぞ強いて折りつる年の内に春はいくかもあらじと思へば」(在原業平)
※3「桜花咲きにけらしなあしひきの山の峡より見ゆる白雲」(紀貫之)

(書き手:和歌DJうっちー)