少し早いですが、今年もそろそろ甲子園の時期ですね。
といっても選手は丸刈り男子ではなく着物女子、そうです「競技かるた」の甲子園です!
→「全国高等学校かるた選手権大会」(近江神宮)
しかしかるたの甲子園、運営費がピンチらしいのです。ただそれは人気に陰りが出たのではなく、むしろ反対に参加者が増えすぎたため、会場の確保や畳の設営などで運営費が増えたからとのこと。当初全国わずか8校から始まった大会は、今や50校を超える参加があるそうです。嬉しい悲鳴というやつですね。
近年のかるたブームの立役者はもちろん漫画「ちはやふる」、2007年から始まった連載は今なお続いていますから、競技かるたのファンはまだまだ増えそうです。
→「かるたの甲子園参加者急増で運営費ピンチ、協賛金募る」(毎日新聞)
ところでなぜ、かるたの甲子園が「近江神宮」で行われるかご存知でしょうか?
明白ですね、それは百人一首の巻頭を飾る「天智天皇」が祀られているからです。
ではなぜ、百人一首の巻頭は「天智天皇」なのでしょう?
これは奥が深い問題です。なぜなら百人一首、その成立の根幹に触れる問題だからです。
従来、百人一首は凡作が多いとされてきました。そのため定家の編纂意図を「歌」に頼ると、大抵は袋小路に入って何も得られません。ですがそれを「歌人」に頼ると、案外すっきり解決します。
私がたどり着いた百人一首編纂の意図、それは…
「平安王朝の栄枯盛衰物語」を作る! です。
→「百人一首とは「王朝の栄枯盛衰 物語」(のダイジェスト版)である」
しかしなぜ、飛鳥時代の天智天皇が平安王朝の物語の一番に登場するのか?
それは天智天皇こそが、平安王朝の祖だと考えられていたからです。
天智天皇亡き後、皇統は弟の「天武系」が引き継いでいきます。しかしこれが再び「天智系」に戻り(光仁天皇)、桓武天皇が都を京移して平安王朝(平安時代)は幕を開けます。
桓武天皇の遷都の意図は、天武系との決別です。桓武天皇は自らの血統を明確に天智天皇に求め、新しい時代を築こうとしたのです。そういった意味で、平安王朝の祖は天智天皇であるといえるのです。
さて百人一首に戻りますと、百首は順徳院で幕を閉じます。順徳院と言えば後鳥羽院の子であり共に承久の乱の責を負って佐渡に流されました。ここに輝かしき貴族の時代は終結したのです。
いかがでしょう、百人一首の最初と最後に触れただけでも、王朝物語は熱を帯びてきませんか?
このような意図を狙って、定家は百首歌を編纂したのです。
※後鳥羽院、順徳院歌を採用したのは定家の息子為家だとも言われます
(書き手:歌僧 内田圓学)
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