歌塾 月次歌会「雪・年暮」(令和四年十二月)※判者評付き

歌塾は「現代の古典和歌」を詠むための学び舎です。初代勅撰集である古今和歌集を仰ぎ見て日々研鑽を磨き、月に一度折々の題を定めて歌を詠みあっています。
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令和四年十二月の歌会では以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。

題「雪」

「きのふまで垣根にありし山茶花のあとを訪ねて初雪ぞふる」

判者評:冬の花山茶花と初雪の取り合わせ、山茶花には赤色もあるがここでは白で間違いない。平凡な風景とも言えるが、色の取り合わせと雪の擬人化によって美しい初冬の歌に仕立てられている。

「小夜中に雨は雪へと変はりなむ恋ひしき君の来たるものかは」

判者評:80年代に一世を風靡した某クリスマスソングのオマージュ、このように歌にされるととても和歌らしい情景だったことがわかる。ただ某歌の本歌取りとするには、歌詞のなぞらえではなく発展が望まれる。例えば「叶わなぬと思へどつらし冬の夜の雨は雪へといま変はりゆく」など。

「枯れ蓮の舞台を映す佐紀沼に雪しづかなる音を奏でむ」

判者評:「左紀沼」は奈良市の歌枕、万葉集には「かきつばた」や「おみなえし」が詠まれるが「蓮」は作者の風景だろう。枯れ蓮の上に音もなく降る雪を重ね、まさに作者いうところの蓮を「舞台」に見立てた歌。「雪しづかなる」の続け方が苦しい、シンプルに「雪はしずかに」なととすべきか。また結句は「奏でむ(意志、推量)」ではなく「奏でる」としてさらりと風景歌にしたい。

「ひさかたの天霧る雪のふりぬるをあなたに舞へる花とこそ見れ」

判者評:来るべき春を予感させる雪の歌、これぞ和歌の美しさといえる。「雪のふりぬる」という連用修飾語が若干耳につく。例えば「ひさかたの天霧る雪は遥かなる」として下句へ繋げたい。

「わが庭の松がたまわる雪の冠(かん)光かがよふ晴雪(せいせつ)の朝」

判者評:松の上に雪がかぶり、まぶしい冬の朝の風景。たんなる美しさというより崇高なイメージを受ける。それは「たまわる」の謙譲語、「冠」「晴雪」の漢語と、三句と結句の体言止めが効いている。しかしなぜ「たまわる」なのか、歌からは読み取れない。また「冠」「晴雪」を大和言葉で詠みなおすとどうなるか検討してみてほしい。

題「年暮」

「ゆく川にわたしぶねさす棹うせてながれもはやき年の暮れかな」

判者評:年月の流れの速さを「渡し舟のさす棹うせる」で表現したところが見事。百人一首の「由良の戸を」にも通じ、また赤穂義士伝の「年の瀬や水の流れと人の身はあした待たるるその宝船」も彷彿させる、手練れの歌。

「年暮れて思ひ返さば来し方に去年(こぞ)と変はらぬ悔いぞ覚ゆる」

判者評:誰しもが抱く後悔の念、和歌的な風情によらず、自らの心のうちを歌にしたところに新鮮みを感じる(特に和歌的な詠みぶりに精通する作者であるだけに)。ただ「返さば」は順接仮定条件となるが、ここでは「返せば」と順接確定条件がふさわしい。

「袖笠に降りしく雪をとどめては家路をいそぐ山里の暮」

判者評:「笠地蔵」の風景を思い起こす、きわめて日本的山里の年暮の景で、一筆の墨絵になりそうな風景である。「とどめては」には詠歌主体の積極性が思われるため、例えば「袖笠に降りしく雪はひまもなく」はどうか(隙間もなく、時間もなくの二重性が生きる)。

「ゆく年を急ぐ山辺の道たえてあとかたもなく雪ぞふりつむ」

判者評:典型的な深山辺の冬の景、とてつもない豪雪が思いやられる。しかし「ゆく年を急ぐ」が取ってつけたように聞こえる、例えば「来し方を帰る」などとして冬の景にまとめたい。

「年ふればつもる思ひぞ深まりてわれをおおひて息さへできず」

判者評:年暮の絶唱というような印象深い歌。「雪」という言葉はないが、作者を覆い尽くすほどの豪雪が詠み人を息もできないほどに飲み込んでいるようだ。これほどの「つもる思ひ」というのは「恋」であるのか、はたまたなんなのか気になる。「ぞ」があるので文末は「できぬ」、また「おおひて」は「おほひて」となる。三句と四句が「て」が重なるので避けたい、例えば四句を「おはるるわれは」としてもよい。

「道のへの松につもれるゆきくれてひととせ来たる旅をしぞ思ふ」

判者評:松に積もる「雪」からの「行き暮れる」につなげ、一年を振りかえる年暮のうた。一年を「行く」「来たる」と旅に例えたところがうまい。

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