向島百花園歌合(令和四年十一月)

去る令和四年十一月二十日、向島百花園にて令和和歌所主催による歌合を開催しました。以下にその内容を記します。

向島百花園歌合

題 紅葉 忍恋

作者 左 摂津 圓学 朱鷺 坂 月魄 閑遊 越雲 嘉
 右 木喬 菅 花野 三猿 光月 竹ぼうき 玉 野

講師 玉
判者 摂津

紅葉

一番
左(勝) 圓学
もみぢ散る山をふりはへ行く人はおなじ錦の衣着にけり

 右 菅
からころも裁ち縫ふやうにもみぢばのこのまに見ゆる滝の白糸

左方申して曰く、右歌、長け高く聞こえますが「やふに」は口語調で和歌にはふさわしくないように聞こえます。

右方申して曰く、左歌に難なし、なれど喩法に飛躍あり。「おなじ錦に衣映えけり」とどちらを取るべきか。 右歌、白糸の滝が紅葉の錦のスリットとしての見立てになる幻想美は新古今風。

判じて曰く、左の歌、「おなじ(紅葉の)錦の衣着にけり」という発想が面白く、「ふりはへ」に衣の縁語である「振り」が響いており、技巧的です。右の歌、「この間に見ゆる滝の白糸」という風景と表現が美しいと思います。ただ、二句目の「やうに」は和歌に使われない言葉です。よって左を「勝」とさせていただきます。

二番
左(勝) 朱鷺
竜田川散るもみぢ葉に夕日さし今は限りと照りまさるらむ

 右 花野
もみぢ葉もわが言の葉もふかむらむからくれなゐに竜田姫まひ

左方申して曰く、左歌、「散るもみぢ」に「夕日さす」などたいへん優美に見えます。右歌、「わが言の葉もふかむらむ」は意味が通らないのではないでしょうか。

右方申して曰く、左歌、難なし。竜田川の詞使ふならば、流れ・川面を活かすべしや。 右歌、風神とされる秋の女神が舞ふならば楓も真紅に深まり言葉も重み深まります。

判じて曰く、左の歌の流れがなだらかで、響きも良く、「散るもみぢ葉に夕日さし」という景色が美しいと思います。右の歌、「もみぢ葉もわが言の葉もふかむらむ」という発想と表現がとても興味深く、竜田姫が舞う、と「もみぢ葉」を擬人化する発想も面白いと思います。ただ、一首が「まひ」と終わるところに少し違和感を感じます。よって左を「勝」とした方が良いでしょう。

三番
左(持) 攝津
もみぢばのにほふこずゑに白露のもる山ちかききりのあけぼの

 右 三猿
ひと時雨紅葉散りしく苔の庭彩に耀(かがよ)ふ朝の玉水

左方申して曰く、左歌、「もみぢ葉のにほふこずえ」などたいへん幽玄です。右歌、初句、三句、結句が体言止めされており詞の続け方が良くないように聞こえます。

右方申して曰く、左歌、掛詞の技法あれど「ちかき」はいかに。こずゑの白露は至近距離なれば、守山の霧の曙は遠景ならむ。 右歌、紅葉をしたたる朝の玉水、京の苔寺・西芳寺にみた世界です。

判じて曰く、左の歌の「白露のもる山」というところ、貫之の「白露も時雨もいたくもる山は下ばのこらず色づきにけり」(『古今集』秋下・二六〇)という歌を本歌とし、「漏る」と「守山(もるやま)」を掛詞としている。本歌の「下ば」を「こずゑ」に変える。右の歌の風景が特に美しいと思います。左の歌の「きりのあけぼの」と右の歌の「朝の玉水」も優艶だと思います。「持」として良いでしょう。

四番
左(勝) 坂
ながむればよべの時雨の雲晴れて朝日ににほふ峰のもみぢ葉

 右 光月
もみぢばの落つるかへでをな褪せそとや とめんとすらむ秋の夕暮れ

左方申して曰く、左歌、いみぢき刹那の美しさが詠まれています。右歌、腰の句(三句目)が七文字です。「落つるかへでをとどめんと」などとして下句へ続けるべきではないでしょうか。

右方申して曰く、左歌、「よべ」は「朝日」に対して置きにいつた言葉に見ゆ。 右歌、楓の手のひらのごとき静止、褪せないでと夕暮れ自体が時を惜しむのか。

判じて曰く、左の歌、新古今風でなだらかな調べだと思います。右の歌の「な褪せそとやとめむとすらむ」という発想は興味深いですが、主語が誰なのかはっきりしないのではないでしょうか。詠歌主体(私)であれば、「とすらむ」の推量の意図がよくわかりません。「秋の夕暮れ」を擬人化し、「とめむとすらむ」の主語であるとも見られますが、夕暮れが楓の落ち葉が褪せることをとめようとするということがあるのでしょうか。よって左を「勝」とさせていただきます。

五番
左(持) 月魄
言はずとも絶ゆるかぎりの色見れば燃ゆる思ひぞ時なかりける

 右 木喬
もみぢ舞ふかぜのたよりに名はみえでみ山がくれにおもひぞつもる

左方申して曰く、左歌、秋の限りの姿がいみぢくあらわれています。右歌、「名はみえで」は事たらぬように思います。詞書が必要ではないでしょうか。

右方申して曰く、左歌、下の句は動かしがたき構成なれど「言はずとも」はわかりにくくしてゐる。 右歌、色なき風の通信には待ち人の名前は肉眼で見えないが想いは深山にかくし募るもの。

判じて曰く、左の歌に、「もみぢ」などという言葉がなく、「絶ゆる限りの色」と「燃ゆる」という描写で暗示している方法が面白いと思います。右の歌に詠まれている山中のわび住まいの様子があわれな雰囲気で、言葉も美しいと思います。歌末の「つもる」は「舞ふ」紅葉の縁語としても機能し、技巧的です。どちらの歌も良いところが多く、「持」として良いでしょう。

六番
左 閑遊
いかにせむ朱に照り染むる恋なれど逢瀬無きまま紅葉散るらむ

 右(勝) 竹ぼうき
今をだに秋のなごりの風ならばいざもみぢばよ心してちれ

左方申して曰く、左歌、景色と心があいまった切なき姿が巧みに詠まれています。右歌、「今をだに」が二句目以降と繋がっていないように思えます。

右方申して曰く、左歌、「恋」と「紅葉」を入れ替へれば成り立たむ。 右歌、万葉的な自然への直情であり訴ふる歌、冬来たりなば秋を払う風は今という時にしか吹かないのである。

判じて曰く、左の歌の「朱に照り染むる恋」という発想が興味深く、歌全体の趣向と表現がわかりやすいと思います。ただ、「朱」は、「しゅ」と読めば、漢語で和歌に不似合いで、「あか」と読めば字余りになり、リズムが少し崩れるのではないでしょうか。右の歌に藤原忠平の「小倉山みねのもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」(『拾遺集』雑秋・一一二八)と、慈円の「山里の竹のかけひのほそ水に心してちれみねのもみぢ葉」(『拾玉集』三六〇)という歌が響いており、紅葉と秋を惜しむ心をうまく表現していると思います。右を「勝」とさせていただきます。

七番
左  越雲
鳴る神の音もひさしき奥山にもみぢの錦夜ごと降り積み

 右(勝) 玉
み標に這ふ蔦の葉の紅葉してやがて朽ちては土にぞならん

左方申して曰く、左歌、時間と風景の動きを感じられるよろしき歌です。右歌、「み標」は聞きなれない詞です。

右方申して曰く、左歌、朝も夜も散る紅葉を「夜ごと」に限定せし効果と「鳴る神」の結びつき弱し。「ひさしき」は断続的に鳴るのか聞こえなくなり久しいのか意味の揺れあり。 右歌、蔦の葉っぱが紅葉する美しい秋ですが土に朽ちるという摂理が無常。

判じて曰く、左の歌に描かれている山住まいの様子があわれで、「鳴る神の音もひさしき」という表現で久しく訪れてくるものがないことを強調するという発想が興味深いと思います。歌末の「降り積み」という連用形止めに少し違和感を感じております。「降り積む」であればさらに良いと思います。右の歌の「み標に這ふ蔦の葉の紅葉して」という風景が、古典和歌に詠まれている蔦の紅葉が「み標」に這っていると言い、斬新です。「やがて朽ちては土にぞならん」というところに、哲学的な深さが込められていると思われ、興味深いと思います。左の歌に表現の難があり、右の歌の後半に深みがあるということで、右を「勝」とさせていただきます。

八番
左 嘉
詞書「われが生まれし向島百花園に隣接す、中林病院を思ひ出でて詠める」 秋もなか錦便れる木の間より見ゆ中林われ懐かしむ

 右(勝) 野
詞書「東大寺より、春日の山々を眺めて詠める」 春日野に捧げまつらふ紅葉(もみじば)や神無の寄りに名は立ちにけり

左方申して曰く、左歌、個人的な体験でありつつも普遍的な秋の美しさを感じます。右歌、「神無の寄り」とは聞いたことがありません。

右方申して曰く、左歌、動詞にするなら「便りする」または「便り」の名詞形にすべし。 右歌、清浄なる春日野に献じられた神々しい紅葉。神無月の出雲大社への神々の寄り会ひにて縁結びされた浮名が立ったのか。

判じて曰く、左の歌の「秋もなか」は源順の「水のおもにてる月なみをかぞふればこよひぞ秋のもなかなりける」(『拾遺集』秋・一七一)という歌からの表現です。二句目以降の風景が美しく優艶で、「中林」は病院の名前でありながら「木の間」の縁語でもあり、技巧的です。ただ、「便れる」は聞いたことがなく、「見ゆ中林」は正しく「見ゆる中林」であるべきではないでしょうか。右の歌の「神無の寄り」も聴いたことがないのですが、歌全体の流れとリズムがよく、勝として良いでしょう。

忍恋

九番
左(勝) 坂
言はじよに人なとがめそ涙せく袖はちしほの色に染むとも

 右 光月
忍びては恋のましきを偲びつつ人知る今もなほぞ恋しき

左方申して曰く、左歌、題の心がいみぢく表現されています。右歌、「神無の寄り」とは聞いたことがありません。また、「忍び」と「偲び」は表現が重複しています。

右方申して曰く、左歌、「言はじよに」がわかりにくし。「血潮」は与謝野晶子の歌には相応しいが和歌では少し刺戟的なり。 右歌、「ましき」は、願望を言いたかったのか。忍んでもしのんでも余りある恋心。下の句、人に知られて恋が冷めかけたが静かに燃える恋。

判じて曰く、左の歌の初句と第二句の調子、初句の倒置によって忍恋の苦しさが強調されていると思います。そのうえ、和歌に昔から詠まれている「紅の涙」を「ちしほの色」と変えて、斬新な表現だと思います。これでさらに辛さの度合が表されており、あわれだと思います。右の歌の「ましき」は聞いたことがないのですが、表現と、係り結びなどを使った構造により、響きとリズムがなだらかだ思います。ただ、「人知る今」ということで、「忍恋」の題から少し逸脱しているのではないでしょうか。よって左を「勝」とした方が良いと思います。

十番
左(持)  越雲
傳へむと心餘れば言の葉の足らぬを嘆く秋の空かな

 右 木喬
有明の月をかくせぬ雲の井に知るや雁さへこがれゆく身を

左方申して曰く、左歌、忍んでもまだ足りぬ深い恋の心が表現されています。右歌、珍しくまた艶なる趣向に聞こえます。難はありません。

右方申して曰く、左歌、「言の葉」と「秋」を併せて使ふなら散る・舞ふなどはいかに。 右歌、有明の月が良いのか、雲と月の相対の景は様々あるでしょう。

判じて曰く、左の歌の発想が興味深く、忍びきれそうにない心を言葉足らずで表せないことを「秋の空」を眺めて嘆く、という様子があわれだと思います。「心餘れば言の葉の足らぬ」という表現は、『古今集』仮名序の業平評、「その心余りて言葉足らず」によるでしょうか。右の歌の発想が斬新で、表現と、有明の月と雁の風景が優艶だと思います。下句の倒置も効果的だと思います。「雲の井」という言い方の先例が見当たらないが、「雲井(雲居)」のことでしょう。左と右の歌も良いところが多く、「持」として良いと思います。

十一番
左(勝) 圓学
しのべただ霜の白菊しるしなくこほれる野辺に思ひ閉ざして

 右 花野
わが恋は冬の夕暮れすみわたるこころにうつす花も紅葉も

左方申して曰く、右歌、優なる趣向ですが、題の心が足りないように思えます。

右方申して曰く、左歌、難なし、倒置法の技法あり。八代集以降の詠みぶりならむ。 右歌、忍ぶ淡き思いがもう少し出ればですが、夕暮れが水面・鏡面的にとらえられているのが特色。

判じて曰く、左の歌は、わが忍恋を「しるしなくこほれる野辺に閉ざして」いる白菊に喩えているという発想が斬新で、表現が実に美しいと思います。上句の「し」音の繰り返しで響きとリズムがとても良いです。右の歌の前半、「わが恋は冬の夕暮れ」というところは古典和歌によくある表現方法を用いており、歌全体の響きと表現が美しいと思います。ただ、「すみわたる心にうつす花も紅葉も」という表現が落ち着いた心を思わせ、「忍恋」という題の心が読み取れず、それを暗示する他の表現や景物も見られないのではないでしょうか。よって左を「勝」とさせていただきます。

十二番
左(勝) 朱鷺
人知れず燃ゆる思ひはするがなる富士の山よりわれぞまされる

 右 野
思えどもはたには見えぬ埋火(うずみび)のこがるる身をば人は知るかな

左方申して曰く、左歌、忍ぶ心を富士のけぶりにたとえるなどまさに和歌らしく長高い歌です。右歌、「はたに」ではなく「さやに」の方がふさわしい詞に思えます。また「思え」は旧仮名遣い「思へ」がふさわしいのではないでしょうか。

右方申して曰く、左歌、「駿河なる富士」の和歌いくつかあれど「燃ゆる思ひ」ならば縁語の「煙」などはいかがか。 右歌、埋火をうまく使った忍恋の歌の王道。

判じて曰く、左の歌は『古今集』の「人知れぬ思ひをつねにするがなる富士の山こそわが身なりけれ(恋一・五三四・よみ人しらず)という歌を引き、その歌の詠歌主体に対して、自分が富士の山よりも燻っているといっており、興味深いと思います。右の歌の詠歌主体は自分を「埋火」に寄せており、忍恋を上手く表しています。結句「人は知るかな」は、「人は知っているよ」という意味となり、突然「はたには見えぬ埋火」と言われた、隠された恋心を表す内容と逆のことを言うことになってしまうのではないでしょうか。「人や知るらむ」などと反語にすれば、この問題がなくなると思いますが、今回は左を「勝」とさせていただきます。

十三番
左 攝津
雪つもるをののすみがま下燃えにわが身けぶりときゆるべきかな

 右(勝) 竹ぼうき
人知れず思ひふすぶる蚊遣火の下こがれてぞほむらのごとき

左方申して曰く、左歌、前歌と同じく和歌の道にふさわしい忍ぶ恋の歌です。右歌、「ふすぶる」と「ほむらのごとき」は矛盾する表現ですがいかが。

右方申して曰く、左歌、秀歌なれど「下燃えの恋」を詠はば小野の炭窯に「雪つもる」ではもはや消え下燃えすらなからむ。「み雪ふる」くらいが良し。 右歌、ほむらに転化された激情、夏の夜の蚊遣火が効いています。,

判じて曰く、左の歌は、俊成卿女の「下燃えに思ひきえなむけぶりだにあとなき雲のはてぞ悲しき」(『新古今集』恋二・一〇八一)という歌を引き、さらに小野の炭窯を加えて忍恋の心と、その苦しみで死んでしまいそうであることを表しています。ただ、心は本歌と全く同じで、加えられたこと、異なる心情などがないのではないでしょうか。右の歌に曾禰好忠の「かやり火のさよふけがたのしたこがれくるしやわが身人しれずのみ」(『新古今集』恋一・一〇七〇)という歌などが響いており、詠歌主体は隠された恋の思いを蚊遣火に寄せて上手く表しています。さらにほむらに喩えてその度合を鮮明に伝えていると思います。右の歌は難がないため、「勝」とさせていただきます。

十四番
左(勝) 閑遊
逢ひ見てののちの別れに敢へざればひとり忍ぶる恋を選ばむ

 右 三猿
待つ人の心もしらずささがにの糸をふるはすいりあひの鐘

左方申して曰く、左歌、恋心の苦しさがいみぢくあらわれています。右歌、「いりあひの鐘」が「ささがにの糸をふるはす」とは大仰な表現に聞こえます。

右方申して曰く、左歌、難なし。下の句は珍しく聞こゆ「敢へざれば」は「堪へざれば」の意なり。 右歌、待つ人の神経衰弱ぶりが見事な忍恋。入相の鐘が、恋するものの琴線、繊細な蜘蛛の糸を震わせるほど苦しいものだ。

判じて曰く、左の歌が独創的で興味深いと思います。藤原敦忠の「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」(『拾遺集』恋二・七一〇)という歌に、恋人と逢う前の方が楽であるということと似たように、逢って別れるよりずっと忍んで恋慕する方を選ぶといっています。右の歌の情景、「ささがにの糸をふるはすいりあひの鐘」があわれで美しいと思います。ただ、ここから「忍恋」の心が読み取りにくいのではないでしょうか。さらに、「待つ人の心もしらず」といって、「待つ」ということから相手も詠歌主体の心を知っており、彼を待っているということが考えられます。「待つらむと心もしらず」などであれば、もっと題に敵うのではないかと思います。よって左を「勝」とさせていただきます。

十五番
左 嘉
詞書「老ひらくの友がきと香を聞ききし時、昔の恋を思ひいでて詠める」 歳老いた志野の友らと香聞かは忍草など忘草かな ※「しのぶ恋」と香道の「志野流」および「忍草」が掛詞

 右(勝) 菅
したもゆる我が身のために百草の園にあらめや恋忘れ草

左方申して曰く、左歌、詞を巧みに用いたおかしき歌です。右歌、本日の場を巧みに詠むなど指せる問題はありません。ただ「あらめや」ではなく「あらまし」とした方がより趣きが深まるのではないでしょうか。

右方申して曰く、左歌、忍草と忘草は同じものを指すゆゑいかにか。 右歌、たくさんの草が生える園に下萌えする芽よ出るな、禁じられたる叶わぬ恋すら匂わせる巧みな歌。

判じて曰く、左の歌に「志野」と「忍草」という同音反復が独創的で、「忍草」と「忘草」の対比とともに技巧的で興味深いと思います。「志野」流の香を楽しんで昔の恋を「偲ぶ」という意図も興味深いですが、ここの「しのぶ」は「忍ぶ」ではなく、「偲ぶ」となり、題に敵わないのではないでしょうか。また、初句の「歳老いた」は現代語で、古文であれば「歳老いたる」または「歳老いて」とありたいところです。右の歌は「したもゆる」と、忍恋の代表的な和歌表現を用いており、歌合の場所を和語に置き換えて歌に織り込み、そこに「恋忘れ草」があるのかと問う趣向が和歌の伝統に沿いつつ独創的で、場に合わせた発想で興味深いと思います。よって右の歌を「勝」とさせていただきます。

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