和歌の復興を成し遂げるうえで、どうしてもやらなければならない仕事がある。それは「紀貫之の名誉回復」だ。さかのぼれば定家にもみえる貫之批判だが、
むかし貫之、歌の心たくみに、言葉強く姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の体を詠まず
近代秀歌
なにより明治の某歌人らによって徹底的に貶められ、そこから百年以上の時が経たにもかかわらず、今だ歌人としての貫之の評価は地に落ちたままだ。
貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候
再び歌よみに与ふる書
いやわかる、正岡子規は当時中途半端にのさばっていた御歌所とその歌風を打破するために、その象徴として彼らが祀り上げる古今和歌集をそして紀貫之をあえて集中的にこき下ろしたということは。
先づ『古今集』といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候
再び歌よみに与ふる書
「年の内に春は来にけりひととせを去年とや言はむ今年とや言はむ」(在原元方)
これは古今集の巻頭を飾る晴れやかな一首であるが、内容と言えば「年内立春」という太陰太陽暦だから生じる「季」と「年」のずれに着目したものである。しかしすでに太陽暦に親しんだ明治の青年には、くだらない無風流の歌にみえて無理はない。いや、もしかしたら貫之ら撰者もこの歌に風情など感じていなかったかもしれないが、それでも「時間の流れに即して配列する」という未踏の哲学でもって撰ぶ歌集において、その一番歌は「年内立春」以外にはなかったのだ。
※明治5年に太陰暦を廃し太陽暦を採用することの詔書が発せられた
頭の切れる子規処士である、まあそんなことも知ったうえで大胆にも古今集を踏みつけたのであろうが、しかしもしこの集の一番歌がこちら歌であったなら、子規による古今集と貫之批判はここまで成功しなかったのではないだろうか。
「袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」(紀貫之)
これは先の年内立春に次ぐ古今集の二番歌である。
袖を濡らして手に掬った水が氷ったのを、春になった今日の風が解かしている… 幻想的な風景だが、これには補うべき言葉がある。すなはち「夏に」袖を濡らして手に掬った水が、「冬に」氷ったのを、春の風が解く… おわかりのように一首のなかに四季の巡りを描いており、そのうえで今日のこの日、「立春」に出会えた感動を歌っているのだ。
※「立春の風が氷を解く」という発想は「礼記」月令篇の「孟春之月東風解凍」による
この歌には文字どおり、春のようなあたたかさを感じる。心のあたたかさ、すなはち幸福感だ。こんなは歌だれにでも詠めるようなものではないが、これを詠んだのが子規や定家が軽んじたあの紀貫之なのだ。
貫之の歌はいわゆる「理知的」だと評される。これは一見褒め言葉のようで、その実大概は批判的な意味として捉えられる。つまり「頭でこねくり回した、風情のない歌」ということだ。歌は「詞」と「心」で作られるが、古来より今の今まで「心」が重んじられてきた。その文脈では貫之のような技巧的な詠み人は「下手な歌よみ」といわれるのだろう。
確かに貫之は「屏風歌」を得意とし、まさに技巧で渡り歩いてきた技巧歌人である。しかし貫之がすごいのは、その技巧が半端ないということだ。何事も究めれば右に立つものなどいなくなるが、この「袖ひぢて」などまさに和歌における国宝級の工芸品だろう。
「袖」、「むすぶ」、「断つ(立つ)」、「解く」は着物(帯や紐)と連想を一体にする縁語である。この歌を華やかにしているのは、これら縁語なしにはありえない。そして緊密した助詞の連続による風景の重層化、これを結句でまさしく解きほどく… この歌の「幸福感」は、貫之によって練られた緊張と緩和の方程式によって成り立っている。なにより「むすぶ」、「こほる」と閉じた描いた世界を、最後に「解く」ことによって、ついに訪れた「春」という季節への心の解放が無限に広がってゆくではないか。
貫之を軽んじた連中には、ぜひこの幸福にまさる歌を提示していただきたい。そして最期にあらためて言っておくと、紀貫之こそが和歌史上の最高の歌人であり、そして彼らが撰んだ「古今和歌集」こそ至高の歌集である。
(書き手:歌僧 内田圓学)
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