あかね歌会 令和六年一月「初遇恋」※判者評付

令和和歌所では二条流和歌の伝統を受け継ぎ、いにしえの和歌を継承し令和の世にふさわしい「歌集」を編むことを目指しています。二十三代の集に採られた歌は除きますが、空飛ぶ鳥が網を漏るように、水に住む魚が釣針を逃れるように… 撰集に漏れた優れた歌を集め、わたしたちが詠んだ令和の和歌と合わせて、あたらしい和歌のアンソロジーをつります。
「あかね歌会」はそのための研鑽そして歌を集める場です。題を設け、月に一度のペースで歌を詠みあい批評を行っています。ぜひみなさま、奮ってご参加ください。

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和歌を詠みあい、評し、継承する「蒐(あかね)歌会」

令和六年一月の歌会では以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。

判者詠草

恋ひ恋ひてつひに枕をかはしまの水の心はゆめぞ絶えさぬ(圓学)
さくら花よしのの山をこえて見つ霞ならねど名をや立ちなむ(攝津)
今宵こそ袖の氷もうちとけてさ蕨萌ゆる春をしるらむ(木喬)

みなさまの詠草

「かき抱く月の顔ばせ隠れなば今宵ひと夜の命ならまし」

判者評:抱いている月の顔が隠れてしまったら、今宵一夜の命となりましょう。ここで月は恋人(女性)の暗示、それが隠れるすなわち遇えなくなったら、今宵だけの命となる死んでしまおうという歌。強烈で印象的な後朝の歌である。「顔ばせ」は和歌であまり聞き馴れない。「今宵ひと夜の」が冗長と言えなくもない。よって「あひ見えし月の面影かくれなば今宵かぎりの命とぞせむ」

「武蔵野の紫草に染む衣着れば今宵の月ぞ照りまさりける」

判者評:武蔵野に生える紫草で染めた衣を着れば、今宵の月が照りまさっている。歌はわかるが本意がわからない。紫草と恋を結び付けるのはおそらく伊勢物語の「紫のひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」などが意識されてのことだろう。つまりあなたへの「ひともと(一途)」な心で染めた衣が、逢瀬がかなっていっそう輝いている、という感じだろうか。表現したいことはわかるが難しい、また結句が字余り。たとえば「武蔵野の紫草のねを追ひてきにける宿に見えし君はも」

「久方の光をすべし道のべの草深百合の花ぞいま笑む」

判者評:光をまとめよ、野辺の草深百合の花がいま微笑んだ。「すべし」は「統ぶ(統べる)」だろうか、三句以降との関連が不明で連歌的な付け合いと見るべきか。草深百合はなじみが薄いが、「草の茂みの百合」で万葉集に歌例がある。「道の辺の草深百合の花笑みに笑みしがからに妻と言ふべしや」。万葉集の方は「笑ったくらいで勘違いしないでよ」だが、この歌は題にそって積極的に微笑んでいる。

「双葉よりあひみむことを思へれば今朝はうれしき涙なりけり」

判者評:双葉から、あなたとあふことを思っていたら、(逢瀬を遂げた)今朝はうれし涙がながれてきた。双葉は「双葉葵(あふひ)」からの連想か、上の句と下の句の関連が弱く一首をとおした内容の理解が難しい、また「思へれば」は声調に難あり。たとえば「思ひやれ双葉あふひをひきむすび今ぞかぎりと思ふ我が身を」

「行く方もなしと歎きし恋こよひ小野の若草むすびつるかな」

判者評:行方も知れない嘆いていた恋。それが今宵、小野の若草が結ぶように、恋を結んだ。三句目が特徴的だが歌の声調・リズムが心地よい。小野の若草が「むすぶ」で逢瀬を暗示させるのも独創的である。ただ本来、「草を結ぶ」には祈願(旅、恋愛)の意味が強く、初遇恋の本意で使うには違和感があるか。

「人しれぬ袖のこほりも今宵こそ心かよひてうちとけぬらめ」

判者評:人知れす涙して凍った袖の氷も、今宵逢瀬を遂げて溶けていくようだ。題の心がはっきりと表れている。内容も明確で迷いがなく、完成度の高い一首。

「寒さにはあらねど指のふるへつついかにとくべきぬばたまの髪」

判者評:寒くはないが指が震えつつ、どうやって解くべきだろうかこの黒髪を。「ふるへる指」は新しい表現、初夜の緊張が詠まれた妖艶で独創的な歌。「寒さにはあらねど」は耳が立つ、たとえば「寒からでふるへる指をいかがして君がみくしをとくといふべし」

「やうやくに逢ひ見し君の長閑なる春のごとしや冬のもなかに」

判者評:ようやく逢瀬を遂げたあなたは、まるで長閑な春のような人だ。この冬の最中に。恋人かそれとも逢瀬の時間か、作者にはこの機会が冬にあって春を感じた。幸福の根本には「暖かさ」があるのだろう。下の句には倒置の工夫がある。古語で「やうやく」は「だんだんと」の意味が強い、「辛くして」が直接的な言い換えだが、歌にする際には「時をへて」などがふさわしい。

「目覚むればそよとながるる風だにもけふ逢う君のこへぞきこゆる」

判者評:目が覚めると「そよ」風にさえも、今日あう君の声が聞こえる。心が募って風音にさえ恋人の声が聞こえる、夢交じりの人の歌。「目覚めれば」、「今日逢ふ君」とあり段階がはっきりしない。初遇恋をはっきりさせれば、「恋わたるわがみにそへる風なれやそよとうちとく声ぞきこゆる」

「初花を摘みて染めたる紅の深きあはれにかはす袖かな」

判者評:シンプルであるが深い歌。初花は末摘花(紅花)、それを摘んで染めた深い色ならぬ「あはれ」の袖を交わす、すなわち情交である。美しく静かでありながら、情熱を感じる歌である。ただ結句は結論を急いでいる感じもある、恋心の深さを無理に題(初遇恋)にまとめた印象。題を無視すれば結句を「深きあはれを知る人ぞなき」とか。

「嵯峨の池春まだ遠きほとりにてみそめし君がとく初氷」

判者評:嵯峨の池の、春まだ遠い畔で見初めたあなたが解く初氷であることよ。みなさまの詠草を拝見するに、恋の成就するにふさわしい季節はどうも春らしい(個人的には夏か)。この歌では「池の氷を融く」を、「心を解く」に掛けて成就を暗示している。ユニークなのは嵯峨の池すなわち「大覚寺」の大沢池を詠んでいるところだ、詠み人の経験か、何かいわれがあるのか興味深い。また「とく」はここで他動詞となり、詠み人は受動的である。さて「ほとり」は現代的には「畔(池などの水際)」だが、古語では「かたわら、近辺」といって意味しかない。「みそめし君」は初恋題にふさわしいか、また「初氷」は冬の景となるが、そうすると「春まだ遠き」が半端な印象を受ける。よって「嵯峨の池あつき氷のとけるまで君が心もわれにとけぬる」

「煙立つ室の八島の我が心逢ひて後こそ燃えまさるなれ」

判者評:煙が立ちのぼる室の八島のような我が心は、逢瀬を遂げた後にこそ益々燃え盛るのだ。「室の八島」は栃木市の歌枕、大神(おおみわ)神社の池の水が蒸発して煙のように見えたことから、つねに煙の立つ所として用いられる。感傷的な和歌ではわりとめずらしい、ラテン系の情熱的な恋の歌で、こういうのもいい。

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