百人一首に採られなかったすごい歌人! 男性編(山上憶良、花山天皇、源頼政)

「伊勢の海、清き渚の玉は、拾ふとも尽くることなく…」(「新古今和歌集」仮名序より)
ではありませんが、百人一首に採られていなくとも、素晴らしい歌人はいくらでもいます。

今回は残念ながら百人一首には採られませんでしたが、個人的に大好きな歌人を男女三名ずつご紹介しましょう! 今回はその「男性編」です。

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山上憶良

憶良は奈良時代初頭に活躍した歌人です。筑前守として着任した大宰府で、片や大宰帥であった「大伴旅人」その異母妹「大伴坂上郎女」らと歌の交流を図り、いわゆる筑紫歌壇を形成し、憶良はその中心的存在でした。

筑紫歌壇の存在感は圧倒的で、万葉集のおよそ四千五百首のうち、筑紫で詠まれた歌がなんと約三百二十首もあります。万葉集巻五にある、旅人宅で開かれた「梅花宴」の歌群を見れば、誰もがこの歌壇の活発さを感じられることでしょう。

詞書:大宰帥大伴卿の宅の宴の梅の花の歌
「春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ」(山上憶良)

気の置けない筑紫歌壇の仲間と詠んだ一首。この歌には純粋に詠歌を楽しむ憶良が見えます。この歌が詠まれた「大宰帥大伴卿の宅の宴」では合わせて三十二首の梅の花が詠まれ、序文とともに「万葉集 巻五」に収められているいます。

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さて山上憶良、彼は非常に稀有な歌人であったことをご存知でしょうか。それは筑紫歌壇? それとも万葉歌人の中で? いやいやそんな枠に収まりません。憶良は日本和歌史上において、ほとんど類を見ない存在なのです。

それは詠歌のテーマに表れています。
和歌のテーマと言うと大半が「四季(自然)」や「恋」または「賀」といったものが一般的ですが、憶良は貧しい農民や幼い子供に目を向けた、いわゆる社会的なテーマを多く歌に詠みました。万葉集に収められた「貧窮問答歌」はその最たるもので、貧者の壮絶な生活がリアルに歌われています。末席ながらも貴族として歌に興じる一方、任国の民は日々の生活もままならない。憶良はこの社会矛盾に歌を通して向き合ったのです。

ちなみに中唐の詩人白居易は詩を分けて「諷諭、閑適、感傷、雑律」の四つに分類、そのうち諷諭は政治批判、閑適は思想信条を表明した詩であり「士大夫」たる者はこのふたつに命を賭すべきだと説きました。この点、憶良は日本で唯一とも言える士大夫であったといえるでしょう。

「世の中を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(山上憶良)

これこそが「貧窮問答歌」の長歌に添えられた短歌です。
いくら苦しいと言えども生き抜いていかねばならない、憶良からすべての弱者に贈るメッセージです。

詞書:山上臣憶良、宴を罷まかる歌一首
「憶良らは今は罷まからむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ」(山上憶良)

憶良はいつでも「家族ファースト」。宴会よりも愛する子供と妻との時間を大切にする、父親の鏡と言うべき人です。

百人一首にこれら憶良の歌が採られていたら、この集から受ける印象は随分違っていたことだと思います。

花山天皇

われわれが抱いている「天皇」というイメージを覆す天皇というが稀にいらっしゃいます。例えば「後鳥羽天皇」や「後醍醐天皇」、彼らの猛き武士をも凌駕するパワフルさには驚きを隠せません。

そしてこの方「花山天皇」。花山天皇は「拾遺和歌集」を親撰したとも言われ、ある種一般的な天皇像をお持ちでもあるのですが、その実かなりエキセントリックなお方です。

「江談抄」や「古事談」にこんな記録が残っています。

「花山院、御即位の日に、大極殿の高座の上において、いまだ剋限をふれざる先に、馬内侍を犯さしめ給ふ」
江談抄

「馬内侍を犯す」とはそのままなのですが、つまり「即位の場で女性とコトに興じていた」というのです、この時天皇17歳。そしてなんとその二年後、19歳には早くも仏門に入り、さっさと退位してしまうのです。
※このへんの事情は複雑で「寛和の変」と呼ばれています

退位した後も花山院はやらかします。お忍びで通っていた女性宅でトラブルに巻き込まれ、これが様々な人を巻き込んだ大事件に発展するのです(「長徳の変」)。

まさに万世一系トップクラスのトラブルメーカー!
天皇とは思えない懐の甘さに驚きを隠せませんが、まあこれが花山天皇の魅力なのです。

「こころみにほかの月をも見てしがな我が宿からのあはれなるかと」(花山天皇)

花山天皇の素行を見ていると、歌の「月」は「女性」の喩えとしか思えません…

「世の中をはかなき物と思ふにもまづ思ひ出づる君にもあるかな」(花山天皇)

こういう心にしみるストレートな恋歌を詠む、それが花山天皇です。

詞書:修行し歩かせ給ひけるに、桜花の咲きたりける下に休ませ給ひて、よませ給ひける
「木のもとをすみかとすればおのづから花見る人となりぬべきかな」(花山天皇)

歌の詞書にもあるように、これは仏道修行中に詠まれたものです。さりとて花に寄せる心までは変われない。後の西行にも通じるこの歌、花山天皇は根っからの風流人だったのですね。

源頼政

「文武両道」という言葉がありますが、これを地で行くのが源頼政です。

時は平安末期、天皇家、摂関家、武家が入り乱れた「保元の乱」、「平治の乱」という社会を揺るがす戦乱が勃発。頼政はまんまと勝者の側に属し、平氏政権の下で源氏のトップに上り詰めました。ちなみにこの時の官位は従三位、朝廷の中でもエリート中のエリートというような立場です。

平氏が政権を握るようになると、朝廷の要職を武士が占めるようになりますが、これは武士にとって必ずしも喜ばしいことではなかったかもしれません。なぜなら晴れの場において、貴族に混じって「和歌を詠む」ことが求められたからです。

武芸の訓練に加えて、和歌の教養を身につけなればならないのですから、これは結構大変なことだったでしょう。実際「平清盛」は和歌が苦手だったのか、彼の詠歌はほとんど残っていません。ただ現代でも頭も良くてスポーツも万能という文武に秀でた人間がいるように、武士でも和歌が得意だという人はいました。その筆頭こそが、この源頼政なのです。

彼は自らの歌集「源三位頼政集」を残し、勅撰和歌集にも五十九首採られるほどの実力者でした。

「今の世には頼政こそいみじき上手なれ」(藤原俊成談)
「頼政卿はいみじかりし歌仙なり」(俊恵談)
無明抄

と、名立たるプロ歌人から絶賛されるほど。

かといって頼政は、源氏のトップとして武人の心も忘れません。
以仁王と平氏打倒を企て、諸国の源氏に蜂起を促す令旨を発するのです(「以仁王の挙兵」)。しかしこの計画は露見し、頼政は宇治平等院の戦いに敗れ、自害してその命は果てました。
※ちなみに「式子内親王」は以仁王の同母姉にあたります

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文武両道の歌人といえば、例えば源実朝や西行も挙げられるかもしれませんね。しかし、文(歌)と武をここまで極めた歌人は、頼政において他にいないのではないでしょうか? なぜ定家は源頼政を百人一首に採らなかったのか! 私には理解できかねます。

「思へどもいはでしのぶの摺衣心の中にみだれぬるかな」(源頼政)

言わずと知れた源融の名歌の本歌取り。頼政には当然、古歌の教養も豊富にありました。

「庭の面はまだかわかぬに夕立の空さりげなくすめる月かな」(源頼政)

上の歌のような伝統的な詠みぶりだけでなく、頼政はこんな新古今風(流行)の叙景歌も残しています。頼政は武人でありながらプロ歌人にも全く負けない、本当に多才な歌人です。

「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」(源頼政)

これは「平家物語」に残された頼政辞世の一首です。彼らの生死を掛けた企ては咲くことなく終わりますが、この行動に応えて反平氏勢力が挙兵し治承・寿永の乱が勃発、平氏滅亡へと繋がるのです。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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