「和歌史の断崖を埋める、近世(江戸時代)和歌の本当」第四回 賀茂真淵と古学の勃興

江戸時代の和歌革新に働いた人は多くいるでしょうが、それらの人々を代表する働きをした人は二人、すなわちひとりは「賀茂真淵」、ひとりは「香川景樹」です。この二人の仕事はいかにも際立っていて異論を挟む余地はないものでしょう。

まず真淵ですが、実のところ彼の本領は古学にあって、和歌の方はその方便でありました。古学というのは我が国の古代精神を文献によって明らかにすることです。これは皇室の尊貴の源で、また神道の源です。それまで神道者たちがしてきたことでしたが、しかし神道者のしてきたことは著しく外来の仏教、陰陽道、儒学などの影響を受けてきたので、それとこれと一つになって、甚しく純粋さを失っていました。彼の志した古学はそれら外来の影響を捕拭して本来の古代精神を明らかにするものです。つまり古代そのままの精神を現代に生かそうとしたのです。

真淵は何のためにそれをしようとしたか? それは国のためと信じてしようとしたのです、純粋な古学によって我が国の尊貴を国民に意識させよう、それを日常の道德にもさせようとしたのです。これを他との関係からみると、当時の学問は無論儒学ですが、これは為政者の奨励している学問でいわゆる官学であるのでありました。しかし儒学は外国の学問であり、それを国家の学問としてるのは我が国民としての彼の自得心が許さない。それでは我が国には、学ぶに堪へるものがないかといへば頑としてある。それが無学のために退けられあらわれずにいるだけであるから、これをわざわざあらわして儒学に代らせよう。これが真淵の古学の目的であったのです。

古代精神を明らかにするには、古事記を通さなければならない。しかるに古事記は従来閑却されてきてにはかには読みがたい、これを読むにはその準備として古語を学ばなくてはならない、古語を学ぶには万葉集によるほかはない。この意味で彼は万葉集に臨みました。しかし彼は本来歌人でした、古語を覚えるために読んだ万葉集を、彼は和歌として見るようになったのです。結果、彼は彼の求めてみところの古代精神は、直接に万葉集の和歌にあらわれていて、この和歌を正しく理解することは、そのまま古代精神を会得することだと思い至ったのです。

彼は晩年、伊勢神宮に参拝しそこで偶然に本居宣長と出会うのですが、そこで宣長から古事記の注釈を書くことを目的としていると話されると、真淵は述懐して、そのことは自分一生の目的であるが、その高い目的を遂げるには古語の研究という低い方便を重んじなくてはならない、それでないと低い事さへもできないと思って万葉集にのみ没頭していた、しかし今は自分はかく老いてそのことには堪へられない、だから代わってくれと励ましました。これが宣長の「古事記伝」のなった一つの理由です。彼の本よりの願いは本居宣長によつて遂げられたということですが、それはまた別の話。

真淵の方便としての万葉風の作歌は、案外にも盛んとなっていきます。和歌を理解するには親しく作って見るのが何よりだ、古代精神のあらわれである万葉集の歌を解するには万葉風の歌を作るべきだ、そうすると自ずから古代精神を会得することができる。また作歌は案外面白いのである、面白みを通して道に進みうることであるから、作歌はいいことである。真淵このように言って、弟子たちにも盛んに勤めました。彼の高弟 の一人である村田春海の言うところによると、歌は素質のあるものでなければ駄目だと言って、進んで学ばうとするのでなければ教へなかったと言っています。しかしこれはむしろ例外で、彼の門に集るほどのもので、和歌を問題としなかったものは稀であったことでしょう。

真淵自身がいかに和歌に力を入れていたかは、その著作のおもなる部分が和歌に関したものであることからも伺われます。古学者を任じた彼ではありますが、彼の力の大部分は和歌の上に費されました。それには相当な理由もあるとは思いますが、何よりも大きな理由は、彼自身の正体が本来詩人で、和歌が好きで、好きに心を惹かれたとみるべきでしょう。その結果として、彼の本来の目的である古学の方は彼の弟子の本居身長によつて遂げられ、歌人にして歌学者という彼自身としては案外な方面が、われわれの前に際やかにあらはれることとなったのです。【つづく】

(書き手:歌僧 内田圓学)

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