定家の子孫は連綿として続くには続きましたが、何百年となく精神力の萎縮した状態でのみ生きてきたので、これはという人は出ませんでした。たまにはやや優れた人はあったようですが、祖先には比ぶべくもない程度の人でした。それらの人は和歌の家として師範家として、和歌を教えることを職業としていました。実力のない師範が師範として面目を保たなくてはならないというとは相当に苦しいことです。そこで生み出されのが「古今伝授」でした。初代勅撰集たる「古今和歌集」には師範家しか知らない秘密がある、その秘密を知らなければ和歌を知るとはいえない、そしてそれは伝授に値する特別のものにだけ伝授するという師範家の秘宝です。
もし仮に勅撰集に秘密があるとすれば、それは無知の生んだ虚像に過ぎません。古今伝授とは言い換えると祖先を利用して非力な自分を偶像化する方便だったのです。しかし時代が時代だけに、このことがかなり長い間怪しまれもせずに続き江戸時代にまで至りました。
堂上の師範家には偶像はあって我はない。たとえ我はあったとしてもその偶像に似ることによって初めて価値を帯びてくるところの我でありました。彼らにとって作歌とは模倣をするということと異語同義であったのです。彼らの目下の問題は実生活に伴う俗情をなくし、古人に恥じない雅情豊かな和歌に出来るか、これがすべてでした。
俗情をなくして雅情とするといふうことは“もったいをつけやすい”ということです、すなわちひとつの「修養」になるのです。この意味から和歌を詠むことは第一の修養法で、同じく修養であるところの神道、仏教、儒学などに劣らない、いや、むしろそれより勝っている、それらの一切をも含んだ法であるということで盛んに喧伝しました。
仮に和歌が法であるとして、それは何によって得られるか? それは自己にはもとめられるものではなく、古の歌集、歌学書によつてのみ得られると信じました。彼ら実力のない師範の立場としては当然な考え方ですが、それだと模倣より外はない、模倣して疲れた心から古今伝授にすがるのは当然の結末だといえるでしょう。
公卿連中が心に新しいものを得られないとすれば、多少なりとも手柄を立てられるのは表現の上においてです。しかもその表現さえも優れた古歌を解剖することによって何らかの秘密を掴もうとしました。結果、彼らは多くの法則を発見しましたが、今度はその法則に縛られてますます模倣の度を高めてゆく。次第に師範家は「制の詞」というものを設けるようになり、古歌のうちのとくに優れた詞は模破を旨とするなかでも使用を禁じたのです。その数がかなりあったのですが、これはかの御大定家の戒めておいたことだと偽書まで作って権威を付けて禁じました。彼らにとって、ようするに作歌とは純粋に「芸」であったのです。芸のうちでも教養のいる極めて困難な芸でしたが、その困難が外から見たらある種の魅力となった、ゆえに性懲りもなくいつまでも繰り返し繰り返し模倣し、模倣させていったのです。【つづく】
(書き手:歌僧 内田圓学)
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