「和歌史の断崖を埋める! 近世(江戸時代)和歌の本当」第一回 和歌の惨状

和歌というと万葉集の成った奈良時代から貴族文化華やかかりし平安時代、ちょっと足をつっこんで鎌倉時代のものばかりが語られますが、和歌史を俯瞰すれば江戸時代こそ際やかなる特色をもった時代であったことがわかります。

江戸時代といえば俳諧や小説などが花開きそれぞれ特色を発揮しましたが、同じように和歌も新たな花を咲かせました。この当時、和歌はついに民衆化して生まれた量だけいえば奈良、平安時代などの比ではありませんでした。一般的に奈良時代の和歌は民衆的であるといわれますが、その趣はあるにはありますが何といっても文化のおよぶ範囲の狭い時代でした、そのほとんどは知識階級すなわち貴族のものであったのです。平安時代ではまさに宮廷の文芸でありました、鎌倉室町時代は宮廷に代わっての権力階級すなはち武士にもおよび、また知識階級であった僧侶にも及んでいきましたが、これを全体の上から見るとまだまだ一部にすぎなかったのです。

しかし江戸時代になるとその範囲がぐんと広がってきます。社会の中心になっている武士は、当時においての貴族で有閑階級でありました。かれらは当時の厳格なる社会制度のもとにおいて何らかの消閑の具を持たずにはいられませんでした。また民のうちのやや富んだものも同じ要求を持っていました。為政者は治安上の必要から学問を奨励しました。上の好みに従うよりほか一身の安泰はない時代、為政者の奨励する学問の方面に有閑階級が競い合うように向っていったのは当然のことだといえるでしょう。

歌の実態は民衆の文芸です、形式が決まっているのでそれに従えさへすれば誰にでも詠めるのですから。しかし和歌には他にない特別な魅力があります。それは和歌は幾多の乱戦の世においてもその尊さだけは忘れられなかった、皇室と共に生きてきたということです。これはいわゆる敷島の道、伝統的な尊敬の念です。当時の武士は社会上からいえばまさしく権力者で自信を持っていましたが、文化という面からは公卿に対して一種の引け目がありました。成り上がりものの持つ引け目です。彼らは公卿の唯一のプライドとしての文化を我がものとしようという熱意を持ちました。公卿の文化というのがこの和歌です。事実上の貴族で有閑階級である当時の武士が、新たに興った好学の精神のなかにみて、この詠みやすくしかも魅力のある和歌にむかって眼を凝らしたのはむしろ当然のことだといえましょう。

さて、時代の勝者である武士から一種の注意をもってにらまれるところの敗者である公卿の和歌はどんなものであったか。江戸時代、それは支配層における和歌の最墮落した時代です。和歌のようにに歴史が久しく、かつ前代に黄金時代を築いたものはいきおい回顧的となり保守的となる。回顧的、保守的となれば偶像を生み出し、くわえて実生活の上では血統と家の格式とを重んじてる時勢であるのにこと劣敗者である公卿の世界のこと、偶像の生まれるのは当然のことだったといえます。

偶像の貫禄の上からいくとまず第一には「万葉集」です、しかしこれはよくは読めなかった。第二には「古今集」となりますが、しかしそれでは当時の公卿中の歌人には都合が悪かった。なぜなら自分たちとの直接的な血統上の関係がないからです。そこで目をつけたのが「藤原定家」でした。第三の黄金時代の新古今集を代表する歌人である定家を偶像として祀り上げたのです。宮廷の歌人らにとって、定家は自分たちに繋がる先祖である。この先祖ということが、自分たちに箔をつける上では何よりも便利だったのです。【つづく】

(書き手:歌僧 内田圓学)

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