【百人一首の物語】四十三番「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」(権中納言敦忠)

四十三番「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」(権中納言敦忠)

平安時代にホストがいたら、間違いなく彼がナンバーワンです。光源氏? 昔男こと在原業平? いえ違います、藤原敦忠です。

敦忠はかの時平の三男坊、権中納言まで上ったエリートでありイケメンで詩歌管弦の名手でした。関係した女性はその歌集「敦忠集」を見ただけでも斎宮(雅子内親王)、御厘殿(藤原明子)といった貴賓から「後撰集」や「拾遺集」、「大和物語」などに見える伊勢、中務、右近ら当時著名の女房らまで手広く両手で数えても足りないほど。

なぜこんなにモテたのか? 敦忠は上流貴族でしたが、父である時平はこれから位人臣を極めようというときに亡くなってしまい(これは自身が太宰府へ左遷した菅原道真の祟りだと噂さになりました)、藤原北家の嫡流は時平の弟忠平の家系と流れてしまいました、時平一門は傍流へと落ちてしまったのです。実のところ平安のプレイボーイを代表する光源氏、業平そして敦忠も“傍流”の貴公子であったのです。裏を返せば出世の望めない貴公子が逃げおおせたのが恋の道であったんですね。恋に掛ける情熱が、そんじょそこらの貴族とはまったく違ったというわけです。

ではなかでも、なぜ敦忠こそがナンバーワンなのか? 光源氏、業平は望んだ女を手に入れられない場合は時に強引な手段を取りました、これはつまり女を口説く「歌」がいまいちだったことも理由です。敦忠はここが決定的に違った、恋の歌が抜群に素晴らしかったのです。
恋の歌といってもたいていの男は定型的な詠みぶりでした、対して敦忠の歌には真心がある、技巧に頼らず本音、本気の思いを歌に込むことができた。それはこの百人一首歌に表われているでしょう。
「お前に出会って、俺は初めて恋というものを知った」。こんなことを言われたら… おっさんの私でもキュンキュンです♡ 

(書き手:歌僧 内田圓学)

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