樋口一葉は歌人の中島歌子が主宰する歌塾「萩の舎」で歌や書また源氏物語などの古典文学を学びました。一葉の作品に共通する「雅俗折衷体」という文体、底流する「叶わなぬ恋」といったテーマは、萩の舎で学んだ古典教養に礎があったのです。
中島歌子は桂園派(二条派の分流)歌人の加藤千浪に歌を学んでおり、一葉の歌の風体も当然その流れを汲んでいます。すなわち伝統的な古今集の調べでであり、以下の数首の歌を見ればそれとすぐに理解できるでしょう。
- 「我ながら心弱くも洩らしけり忍びはてんと思ひしものを」
- 「繁りあふ葦間こぎ行く舟なれや妨げ多き恋もするかな」
- 「夢にだに逢はむとはなど祈りけん覚むればさらに恋しきものを」
- 「うつりゆく人の心の花の色に染みし我こそ儚かりけれ」
- 「かきかはすこの玉章のなかりせば何をか今日の命にはせむ」
- 「目の前にかはる心も知らずしてまた明日の日を契るはかなさ」
- 「別れむと思ふばかりも悲しきにいかにかせまし逢はぬ月日を」
- 「いかにせん思ふもつらし恋ふも憂しさりとて人の忘られなくに」
- 「もろともに死なば死なむと祈るかなあらむ限は恋しきものを」
ここで百人一首などの代表的な歌と、上の一葉詠を引き比べてご覧になってください。
- 「忍ぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」(平兼盛)
- 「難波潟みじかき芦のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや」(伊勢)
- 「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを」(小野小町)
- 「色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(小野小町)
- 「逢ふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし」(中納言朝忠)
- 「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする」(式子内親王)
- 「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」(藤原義孝)
- 「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたぴの逢ふこともがな」(和泉式部)
樋口一葉の歌が古典的な恋歌のいわゆる「型」を踏まえて詠まれたものであることがいたく理解できるでしょう。すなわち恋い忍び、逢瀬を祈り夢に託すも、裏切られ、別れ、最後は恨みを残したまま終わる…
このような「決して叶わぬ恋」にそれでも命をかける、いや掛けざるを得ないというのが、和歌文学における恋の歌なのです。※これは平安時代から変わらずに「待つ」しかできない女の不条理の表れといえます
このような形式的な一葉の歌をどうみるか?
樋口一葉が亡くなったのは明治29年(享年24歳)でした。一方、正岡子規が明治歌壇に革命の狼煙となった「歌よみに与ふる書」の発表は明治31年です。つまり一葉は革命前の歌人であり、典型的な古典歌人であったのです。
しかしもし樋口一葉が「歌よみ」後に存命だったとしても、傾倒した古典的文学観から離れた歌は詠まなかったような気がします。そしてそのような古典的な歌こそ、やはり樋口一葉の歌であると思います。
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(書き手:歌僧 内田圓学)
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