「和歌」を鑑賞する価値


和歌を鑑賞する価値とは何か?
これが今回のテーマです。

前提として「和歌」という言葉ですが、私はこれを現代の「短歌」に対する言葉として扱っています。
ただ、和歌には“五七”の繰り返し数により「長歌」や「旋頭歌」といった形式もあり、元来「短歌」とはその最も短い形式(三十一文字)を指したもので、正確には「和歌」は「短歌」の上位概念となります。
ところが、短歌の秀歌集である初代勅撰集は古今“和歌”集と名付けられています。これは古今“短歌”集でもよかったのかもしれませんが、当時の歌人はそうはしなかった。なぜなら、そもそも「和歌」というネーミングが、「漢詩」に対する日本の詩歌という対立性を持って生まれた言葉であったため、自ずと日本史に輝く初代勅撰集は「古今和歌集」と成ったのです。

時代は下り、明治の革新的な歌人達は三十一文字を「和歌」ではなくもっぱら「短歌」と呼びました。
これは「和歌」に“つまらぬ伝統”というネガティブな意味を感取していたからです。
以後、和歌と短歌は「古い」と「新しい」という対立の意味を含んだ言葉として理解されるようになった、と私は考えています。

ということで今回のテーマは、現代の私たちにとって、
古くてつまらない「和歌」なんてものをあえて鑑賞す価値はあるのか? です。

さて、本題の前に「和歌」の成り立ちを知りましょう。
古典歌論に優れた解説がありますので、今回はそれを引用する形でご説明します。

「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にあるひと、こと、わざしげきものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり」
古今和歌集(仮名序):紀貫之

「やまと歌の起こり、そのきたれること遠いかな。千早る神代よりはじまりて、敷島の国のことわざとなりにけるよりこのかた、その心おのづから六義にわたり、そのことば万代に朽ちず。かの古今集の序にいへるがごとく、人の心を種としてよろづの言の葉となりにければ、春の花をたづね、秋の紅葉を見ても、歌というものなからましかば、色を香をも知る人もなく、何をかは本の心ともすべき。」
古来風体抄:藤原俊成

これらの論で分かること……
それは、和歌とは「心」と「詞(言の葉)」の調和によって生じるということです。

特筆すべきは古来風体抄のこの一文、
「歌というものなからましかば、色を香をも知る人もなく」
「心」と「詞」が調和した「和歌」によってのみ、世の美的様相を知ることができるのだとあります。

そして「本の心」、これはその美的様相の究極を真摯に追求する心!
要するに和歌とは、歌という行為によって生じる多様な美の、その究極を求めようとする行為なのです。

ある歌人は和歌の理想美を「あはれ」と言い、ある歌人は「艶」と評しました。
歴代の勅撰和歌集とは、いわばこのような美的追求の爪痕なのです。

例えば万葉集、古今和歌集、新古今和歌集。これらには明確な歌風の違いを感じ取ることができますが、これは「心」と「詞」の調和のバランスによって生じる美的様相の違いです。
ちなみに「万葉集」は心が、「古今和歌集」では詞が強くあり、「新古今和歌集」ではそれらがよく均衡しています。
これは和音(コード)理論に例えると、理解しやすいかもしれませんね。
「心」と「詞」を何度(メジャー、マイナー、ディミニッシュト、オーグメンテッド)でいくつ(セブンス、ナインス)重ねるか、
この調和の実験、理想美の追求の結晶が、歴々の勅撰和歌集であるのです。
→関連記事「京極派と勅撰集の歌風

さて、まとめます。
「和歌」を鑑賞する価値とは、美的様相の「究極美」を追体験することです。
ここに和歌の歴史、古さが意味を持つのです。
和歌では同じ題材を何度も何度も歌にしていますが、これを暗につまらないものとみると明治歌人と同じ過ちを犯すことになります。
和歌にはその歴史の分だけ、何人もの歌人によって徹底的に試され、磨かれた理想美が宿っているのです。
もしこれを感じられないとしたら、実は鑑賞者の方に「本の心」が足りないのです。

ひと昔前、勅撰和歌集なんてものは限られた一握りの権力者しか閲覧し得ませんでした。
それを私たちは安価に手にすることができる、なんて贅沢なんでしょう!

この状況でも、みなさんは「和歌」を鑑賞しないんですか!? 
ぜひ一緒に、いにしえに培われた究極の美的様相に陶酔しましょう。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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