敦忠はかの藤原時平の三男坊。権中納言まで上ったエリートであり、イケメンで詩歌管弦の名手だったと言います。
まさに非の打ち所がない色男、となれば当然、女性関係もずいぶ派手にやらかしています。
敦忠の歌集「敦忠集」だけでも「斎宮(雅子内親王)」「御厘殿(藤原明子)」をはじめ両手で足りないくらいの女性と恋歌を詠んでいますし、さらに後撰集や拾遺集、大和物語などにも「伊勢」「中務」「右近」といった著名歌人との贈答歌を残しています。これはうらやまし…もとい、けしからん数の女性遍歴です。
これほどの色好みは彼の人を連想させますね、平安のプレイボーイ「在原業平」です。
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実は敦忠と業平、プレイボーイだけではない共通点があります。
それはズバリ貴公子! そして二人とも「傍流の」という枕がつきます。
敦忠の父、藤原時平は北家嫡子として左大臣にまで上りました。順当にいけば摂政関白・太政大臣となったことでしょう。
しかし時平、39歳という若さで亡くなってしまいます。※これは自身が太宰府へ左遷した菅原道真の祟りだと噂さになりました
以後、藤原北家の嫡流は時平の弟、忠平の家系と引き継がれることになります。時平一門は傍流へと落ちてしまったのです。
一方の業平、彼の祖父は平城上皇です。歴史にタラレバはつきのですが、もしかしたら業平、天皇になれる可能性だってあったのです。
しかしご承知のとおり上皇は薬子の変により出家、その第一皇子(阿保親王)つまり業平の父は太宰府へ左遷となってしまいました。
業平もまた嫡流から傍流へと落ちた名家の貴公子でした。
おっと、もう一人忘れてはならない人物がいます。
元良親王です。親王も「一夜めぐりの君」なんて揶揄されるほどのプレイボーイです。
父は陽成天皇、その第一皇子ですから手を伸ばせば頂点の座に届くような生まれであった人です。
しかし陽成天皇は廃位に追い込まれ、その道は断絶されました。
もしかしてプレイボーイ(色好み)とは、本流に対するささやかな反抗なのかもしれません。
表立っては抗えない憤りを恋にぶちまける。
確かに三人(業平、元良、敦忠)の恋は恐れも知らぬ破滅的な一面があります。
それは決して手を出してはならぬ、やむごとなき(高貴な)女性との激情的な恋。
業平が略奪しようとした二条の后(藤原高子)に恬氏内親王、元良親王と宇多天皇の寵妃京極御息所(藤原褒子)。
そして立場を超えて互いが求め続けた敦忠と雅子内親王。
傍流の貴公子たちは、その立場を顧みず危険な恋に身を投じるのです。
全身全霊で。
「白玉か 何ぞと人の 問ひし時 つゆとこたへて 消えなましものを」(在原業平)
「わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても あはむとぞ思ふ」(元良親王)
禁断の恋は破滅への道。
平安のロミオとジュリエットの結末はどうなったのか?
今回は「敦忠集」から敦忠と雅子の恋物語を見てみましょう。
藤原敦忠と雅子内親王の贈答歌十首
(一)「下にのみ 流れわたるは 冬川の 凍れる水と われとなりけり」(敦忠)
「下に流れる」つまり「しのぶ心」は凍ってしまった。ようは「そろそろ私の相手をしてください」って歌ですね。
敦忠と雅子の恋、その始まりごろの歌です。
(二)「ひかり見ぬ かげにならへる 雪ならば あひみぬからに 消えぞまさらむ」(雅子)
雅子の返し。「影みたいな雪だから、消えそうなんでしょ」傍流をいく男には手厳しい歌です。
(三)「消えまさる ものにはあれども あひみては 心も雪も 消えぬばかりぞ」(敦忠)
プレイボーイも黙っちゃいません。「会えば分かるぜ俺のすごさ!」、敦忠の逆襲です。
(四)「嘆きくる ほとのへぬれば 青柳の 糸しも乱れ まさる恋かな」(敦忠)
敦忠、もどかしい恋に乱れまくっています。
(五)「いにしへの こと語らひに ほととぎす いづれの里に 長居しつらむ」(雅子)
「ほととぎす」とは敦忠のことです。訪れが滞った男に皮肉を言っているのです。
女(雅子)もまた、本気だったのです。
(六)「伊勢の海の ちひろの浜に 拾ふとも 今は何てふ かひかあるへき」(敦忠)
雅子は伊勢の斎宮に卜定(占いで決定)されます。ただでさえ内親王という高貴な女性が斎宮となるのですから、二人の恋は絶望的になりました。
伊勢の広大な浜で貝を拾っても、もはや何の甲斐もない。歌にその心境があらわれています。
(七)「あらたまの 年のわたりを あらためぬ 昔ながらの 橋とみやせし」(敦忠)
(八)「橋柱 昔ながらに ありければ つくるよもなく あはれとぞみし」(雅子)
母の死去により、わずか二年で雅子は斎宮を退下します。
敦忠と雅子は互いに元の関係に戻れる、とハッピーエンドを思い描くのですが…
(九)「ふたばより 頼みしものを をみなへし 人の垣根に 生ひにけるかな」(敦忠)
なんと雅子、藤原師輔と結婚するのです。
師輔は時平亡き後の北家嫡流忠平の子。つまり雅子は傍流の敦忠を捨てたのです。
「人の垣根に 生ひにけるかな」この歌は涙なしには鑑賞できません…
(十)「あひ見ての のちの心に くらぶれば 昔は物も 思はざりけり」(敦忠)
百人一首にも採られた恋歌。
敦忠の苦汁をなめた恋物語を知れば、「昔は何も思わなかった」の一言がおも~く感じます。
敦忠は父時平にならうかのように38歳の若さで夭折しました。
シェイクスピアの悲劇を地で行くかのような人、それが平安の貴公子藤原敦忠なのです。
藤原敦忠の贈答歌(番外編)
「思ふ人 雨と降りくる ものならば わがもる床は 返さざらまし」(右近)
あばら家で想い人つまり敦忠を待ち続ける女性の歌です。
この詠み人、右近といえば… そう百人一首38番です。
「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」(右近)
敦忠と右近の恋は、敦忠が一方的に離れて終わったのでしょう。
「惜しくもあるかな」、この一言はやはり皮肉のようです。
「いかにして かく思ふてふ ことをだに ひとつてならで 君に語らむ」(敦忠)
どうにかして私の想いをあなたに伝えたい。この恋の相手「御匣殿」は藤原仲平の娘、明子です。
詞書きには仲平父が二人の仲を邪魔しているようですが、敦忠と明子はめでたく夫婦となります。
「おとは河 せきいれておとす たぎつ瀬に 人の心の 見えもするかな」(伊勢)
「君がくる 宿にたえせぬ 滝の糸は へて見まほしき 物にぞ有りける」(中務)
この2首はあの超有名親子歌人、伊勢・中務が敦忠の別荘で詠んだものです。
恋仲であったのか不明ですが、プレイボーイの交友関係の広さがうかがえます。
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(書き手:歌僧 内田圓学)
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