百人一首とは「王朝の栄枯盛衰 物語」である!


百人一首は和歌史におけるレジェンド、藤原定家が選出した和歌のベストオブベストです。いわゆる百首歌というのは珍しくないのですが、それらはたいてい一人で百首詠んだもの。定家の百人一首はその名のとおり、百人の歌がそれぞれ一首ずつ収められているのが最大の特徴です。

この百人一首、以前もご紹介しましたがその撰歌に多くの謎を残しています。
例えば…
・お手付きを誘う「似たような歌」が複数ある(3字以上の決まり字が51首)
・「親子歌人のペア」がやたらある(なんと18組)
・ほとんど歌を残していない「謎の三流歌人」の歌が散見される(猿丸太夫、蝉丸、喜撰法師、春道列樹、文屋朝康…)
・「著名歌人でも駄作」が撰歌されている(在原業平、能因法師、西行法師…)
・他にも「恋歌がやたら多い」とか「古今歌が多い」などなど

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こんなかんじで定家のベストアルバムの撰歌基準はまったく不明瞭。なので百人一首には実は暗号が隠されているとして、それを解き明かそうと挑戦する人も後を絶ちません。
しかしただひとつ、定家がこの百首ではっきりと示していることがあります。

百首歌に限らず和歌の「歌集」は、歌単体よりもその並び順、配列にこそ価値があったりします。例えば勅撰集の四季はその移ろいの、恋はその過程の理想的な美しさを描かんとして編纂されているのです。

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で、くだんの百人一首はというと、選歌は詠み人の年代順に並んでいます。
これの意味するところは何か?

第一番の「天智天皇」から始まり、百番の「順徳院」で完結する…
先に答えを言いますと、百人一首とは「王朝の歴史物語」のダイジェストなのです。

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王朝時代とは皇室華やかりし平安時代を指します。第一番の天智天皇は飛鳥時代(626~671年)の人であるため、一見するとその対象からは外れています。しかし天智天皇、平安王朝になくてはならない人物なのです。

平安京に都を移したのは「桓武天皇」です。その父は光仁天皇ですが、彼の祖父こそが天智天皇なのです。
じつは光仁天皇の先代まで、天智天皇の弟「天武天皇」の血筋が皇統を引き継いできました。そのため光仁、桓武天皇は自らが天智系であることを強く意識し、都までも京に移して新体制を組んだのです。つまり平安の皇族、貴族たちにとって、本朝の祖は天智天皇であるとの理解があったのです。

ちなみに藤原氏の祖は「中臣鎌足」ですが、彼は「中大兄皇子」(後の天智天皇)と共に、「乙巳の変」ならびに「大化の改新」を成し遂げ藤原氏繁栄の礎を築きました。天智天皇は藤原氏にとっても所縁深い人物だったのです。

翻って最後百番の「順徳院」。彼は「後鳥羽院」の息子にあたります。そして後鳥羽院といえば… そう、「承久の乱」ですね。後鳥羽院が君臨していた当時、政治の実権はすでに鎌倉方にありました。これを討伐しようと、北条氏に対し後鳥羽院が兵を挙げたのが承久の乱です。乱はあっけなく鎮圧、敗れた皇室の権威失墜は決定的なものとなりました。
つまり「後鳥羽院」「順徳院」をもって、本当の意味で王朝時代が完結したということなのです。

百人一首の一番を歌の聖「柿本人麻呂」にはしなかった、初代勅撰集の代表的選者「紀貫之」にはしなかった。最後百番をひと頃の大スター「西行」にしなかった、鎌倉三代将軍「源実朝」にはしなかった。
始めと最後に天智天皇と順徳院を配している時点で、この百首に王朝物語が見えるのはある意味当然なのです。

さらに歌人の配列を俯瞰して見てみると、だいたい十人単位で「かたまり」があることに気づきます。それはさながら物語の「章」を成し、王朝の栄枯盛衰を複雑に構成しています。

・第一章「王朝の幕開けと伝説歌人
・第二章「失意に乱れる純血の貴公子
・第三章「物思いに耽る文系男子
・第四章「没落氏族の溢れる四季彩
・第五章「路傍に咲く、悲しき恋の花(梨と藤)
・第六章「母、娘そして妻。御簾裏の恋愛事情
・第七章「輝く望月と失せる人々
・第八章「遁世に誘う末法のざわめき
・第九章「エリート歌人が燃やす最後の灯火
・第十章「悠遠のノスタルジー、黄昏の帝王

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■第一章「王朝の幕開けと伝説歌人」

王朝物語はその祖「天智天皇」の歌から幕を開きます。地味な歌ですが、なくてはならない御製歌なのです。そして「持統天皇」は天武天皇の妻であり、天智天皇の娘でもあった女性です。
「柿本人麻呂」と「山部赤人」の二人は通称「山柿の門」といわれ、歌道を歩むものが叩く最初の門だとされました。「大伴家持」とえば、日本最古の歌集「万葉集」歌の1割を占める実質の編纂者だと言われる人。
後世の歌人達にとって、伝説的な人物が配されているのが第一章です。

1「秋の田の かりほの庵の とまをあらみ わがころもでは 露にぬれつつ」(天智天皇)
2「春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」(持統天皇)
3「足引きの山鳥の尾のしだりおの ながながし夜をひとりかも寝む」(柿本人麻呂)
4「田子の浦にうち出てみれば白妙の ふじのたかねに雪はふりつつ」(山部赤人)
6「かささぎのわたせる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞふけにける」(大伴家持)

■第二章「失意に乱れる純血の貴公子」

ここでいう「純血」貴公子とは、天皇の血筋を引くやんごとない貴公子を指しています。
「在原行平」、「業平兄弟」の父は阿保親王で、その父は平城天皇。「陽成院」はその名のとおり元天皇であり、「元良親王」はその息子であった人です。これら貴公子達は高貴な出身でありながら、先代の凋落に伴い行き場を失っていきます。その落ち行く先は…、決して叶わぬ破滅の恋なのです。

13「つくばねの峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」(陽成院)
16「立ちわかれいなばの山の嶺におふる まつとし聞かば今かへりこむ」(在原行平)
17「ちはやぶる神代もきかず龍田川 唐くれなゐに水くくるとは」(在原業平)
20「わびぬれば今はた同じ難波なる 身をつくしてもあはむとぞ思ふ」(元良親王)

■第三章「物思いに耽る文系男子」

「大江千里」、「菅原道真」は言わずと知れた文人貴族。道真は家柄にそぐわぬ出世から太宰府に落ち、千里は月を見て物思いに耽るのでした。「藤原定方」、「藤原兼輔」は藤原氏でありながら出世とは無縁の人で、詩歌管弦に優れ当代の歌人たちの良き後援者。
第三章には争いを避け、文人の道を全うしようとする文系男子が配されています。

23「月みれば千々に物こそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里)
24「このたびはぬさもとりあへず手向山 紅葉のにしき神のまにまに」(菅原道真)
25「名にしおはば相坂山のさねかづら 人にしられでくるよしもがな」(藤原定方)
27「みかのはらわきてながるる泉河 いつ見きとてか恋しかるらむ」(藤原兼輔)

■第四章「没落氏族の溢れる四季彩」

「藤にからまれた木は枯れる」という言葉があるように、藤原氏以外の氏族はことごとく没落していきます。坂上氏や紀氏は武人の家として一時期は公卿に列したこともありました。しかし応天門の変など藤原氏の策略によって落ちぶれていくのです。
第四章には歌によって家筋を見つけた、没落氏族たちによる美しい四季の叙景歌が配されています。

29「心あてに折らばや折らむ初霜の をきまどはせる白菊の花」(凡河内躬恒)
31「あさぼらけ有明の月とみるまでに よしのの里にふれるしら雪」(坂上是則)
33「ひさかたのひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ」(紀友則)
35「人はいさこころもしらず古里は 花ぞむかしの香に匂ひける」(紀貫之)

■第五章「路傍に咲く、悲しき恋の花(梨と藤)」

藤原氏が朝廷の主流となりライバル氏族がいなくなると、次第に藤原氏内での権力争いが生じてきます。
ここに配された藤原の歌人たちは、いわばその負け組の人たちです。「清原元輔」と「大中臣能宣」は後撰集の梨壺の五人のメンバー。とはいえ官位は低く出世は望めない歌人たち。
第五章には彼らを中心とした、悲しい恋の歌が配されています。

42「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪こさじとは」(清原元輔)
43「あひ見ての後の心にくらぶれば むかしは物を思はざりけり」(藤原敦忠)
44「逢ふことのたえてしなくは中々に 人をも身をもうらみざらまし」(藤原朝忠)
49「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ 昼は消えつつ物をこそおもへ」(大中臣能宣)

■第六章「母、娘そして妻。御簾裏の恋愛事情」

摂関政治の全盛期は、後宮文化の最盛期でもあります。それを象徴するように、百人一首の中盤は女流歌人が多く配されています。彼女たちは女房であり、母であり娘であり妻でした。
第六章には一夫多妻の通い婚という完全アウェーの世を強く生きた、彼女たちのリアルな恋歌が集まっています。

53「嘆きつつひとり寝るよの明くるまは いかに久しきものとかはしる」(藤原道綱母)
54「わすれじの行末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな」(儀同三司母)
56「あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな」(和泉式部)
57「めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな」(紫式部)
58「有馬山いなの篠原風吹けば いでそよ人を忘れやはする」(大弐三位)
60「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」(小式部内侍)

■第七章「輝く望月と失せる人々」

王朝時代の望月といえば、そう藤原道長ですね。道長の栄達の陰で、落ちぶれて行った人たちがいます。
「清少納言」は一条天皇の皇后定子に仕えた女房です。しかし定子は、父道隆が死去すると道長、彰子親子の権勢に押され落ちぶれていきます。「藤原道雅」は藤原伊周の長男。伊周もまた、ライバルである叔父道長との争いに敗れ没落していきました。そして「三条院」。彼は現役の天皇であった時に、道長に執拗に迫られて退位させられました。
第七章には望月の陰で、失意のまま消えていった人たちが配されています。

62「よをこめて鳥の空音ははかるとも よにあふさかの関はゆるさじ」(清少納言)
63「今はただおもひ絶なんとばかりを 人づてならでいふよしもがな」(藤原道雅)
68「心にもあらでこのよにながらへば 恋しかるべき夜半の月かな」(三条院)

■第八章「遁世に誘う末法のざわめき」

平安時代の中期以降、仏教が衰退し世が乱れていく、いわゆる「末法」に入ると信じられていました。王朝時代を再現する百人一首も中盤以降、坊主歌人の歌が増えていきます。末法のざわめきは次第に現実味を帯び、皇室、貴族、武家を巻き込んだ大規模な戦闘「保元の乱」が勃発します。その責を負った「崇徳院」は讃岐へ配流されました。天皇(上皇)の配流は淳仁天皇以来およそ400年ぶりの大事件です。
王朝衰退の足音は、確実に忍び寄ってきています。

66「もろともに哀れと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし」(前大僧正行尊)
69「あらし吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり」(能因法師)
70「さびしさに宿を立出てながむれば いづくもおなじ秋の夕暮れ」(良暹法師)
77「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞおもふ」(崇徳院)

■第九章「エリート歌人が燃やす最後の灯火」

院政が全盛を迎えると、藤原氏の政治力は次第にそがれていきます。一方で、藤原氏の中でも歌を生業としている家の家格が上がっていきました。それが「藤原顕輔」「藤原清輔」親子の六条藤家ならびに「藤原俊成」「藤原定家」親子の御子左家です。かつての紀貫之など、勅撰集の選者であっても五位がやっとの時代もありましたが、この時代には歌人が公卿に列することも珍しくなくなってきます。また「式子内親王」や「九条良経」など、高貴な出自でありながら、積極的に歌道に邁進する人たちも現れます。
さながら最後の灯火をともすように、和歌文化がクライマックスを迎えるのがこの時期です。

79「秋風に たなびく雲の たえまより もれいづる月の かげのさやけさ」(藤原顕輔)
83「世の中よ道こそなけれおもひ入る 山の奥にも鹿ぞなくなる」(藤原俊成)
84「ながらへばまたこのごろやしのばれん 憂しと見し世ぞいまは恋しき」(藤原清輔)
89「玉の緒よ絶なば絶ねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする」(式子内親王)
91「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む」(藤原良経)

■第十章「悠遠のノスタルジー、黄昏の帝王」

治承・寿永の乱いわゆる源平合戦の後、平氏政権の崩壊し鎌倉幕府が成立します。鎌倉幕府の成立は本格的な武家政権の誕生であり、政治の中心が京から関東に移ったことを意味します。もはや京の皇族、貴族は文化や歴史に拠り所を求め寄生する存在へと落ちぶれたのです。一方、鎌倉方にも京の文化、和歌を愛する人が登場します、第三代将軍「源実朝」です。しかしこの帝王も暗殺という悲劇に消えます。
承久の乱により武家政権は盤石なものとなりますが、敗れた帝王「後鳥羽院」と「順徳院」の親子は配流され、王朝時代は完全に幕を閉じたのです。

93「世の中は常にもがもな渚こぐ あまのをぶねの綱手かなしも」(源実朝)
99「人もおし人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆへに物思ふ身は」(後鳥羽院)
100「ももしきや古き軒端のしのぶにも なをあまりある昔なりけり」(順徳院)

いかがでしたか。各章のタイトルを追うだけでも王朝時代のドラマを感じて頂けたと思います。

百人一首とは和歌の入門書であり、平安歴史の入門書でもあるのです。古文や古代歴史を学ぶには、それぞれの教科書ではなく一冊の百人一首で十分。きっと楽しくスリリングに、そしてドラマチックに! 日本の古典が身につくと思います。
※そんな意味をこめて、定家は宇都宮蓮生に百人一首をプレゼントしたのでしょう。

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(書き手:和歌DJうっちー)


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