和歌における「雨」の言い方(古今和歌説話 その一)

 むかしこのように聞いた。和歌では春の雨を「はるさめ」と言う。夏の、暑さを癒すようないい時分に降る雨を「ときの雨」と言うべきであると。しかし、十月に降る雨を時の雨と書いて「しぐれ」とも言う。これは降ったりやんだりする通り雨である。「さみだれ」は、五月の雨と書くので、五月の風景に用いて四月六月には用いない。六月には「ゆふだち」と言うが、夕暮れにはかに降る雨を、夕立と書くのは夕暮に降るからだろう。たしかに、そのように降るのだ。秋季の雨はこれといった特有の名はない。ちなみに言うまでもないが、ここに記した月は旧暦である。

 さてこのように、大気から水の滴が落下する現象である「雨」を、和歌では季節ごと言い方を変えて詠むのだからおもしろい。この詠みわけは和歌の規則でもあるわけだが、これを逸脱する歌がないわけではない。本来、冬の雨である「しぐれ」を、ある人が秋に詠んだ歌がある。

「我がやどの早稲田(わさだ)もいまだ刈りあへぬにまだき降りぬる初時雨かな」

 この歌の心を思うと、『まだき(早くも)』言っていることもあり、完全な冬の景色とは思えない。『時雨かな』と言うのは、急に曇って降り出したにわか雨がやんで、ほどなく晴れた、その折の景色を歌に詠んでいるので、つまり時分はまだ秋だけれども、空の景色がちょうど時雨の折の景色と同じようだったので、「秋のしぐれ」を詠んだのだと思われる。ちなみに「みぞれ」と言うのは雪がまじって降る雨を言うので、冬もしくは春のはじめなど、詠むべきだろう。

 ただこのような詮索がなされるのだが、古今集の秋下に、

「白露もしぐれもいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり」(貫之)

 という歌もあり、「秋のしぐれ」は特段めづらしいものではないとも思える。

 さて、ほかにもこんな雨の言い方がある。「ひぢかさ雨」と言うのは、突然に降る雨を言う。急に降ってきたので笠など持っていないから、袖を頭に被るようにする、だから「ひぢかさ雨」いうのだ。

「妹が門ゆきすぎがてにひぢかさの雨も降らなむ」

 長く降る雨を「こし雨」と言うのは、雨がひどく降ってびしょびしょに濡れて、はかまの腰まで濡れるからいうのだろう。

「久方の埴生(はにふ)の小屋にこし雨ふり床さへ濡れ身みにそへわぎも」

ちなみに「埴生の小屋」というのは、卑しい家で板敷などもなくて、わづかに寝床だけがあり、板のようなものを敷いている小屋を言うのだとか。

(俊頼髄脳より)(書き手:内田圓学)

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