一番「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)~ 百人一首の物語 ~

一番「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)

言わずもがな、百人一首の一番歌である。「後撰和歌集」秋中に収められるが「万葉集」巻十において類歌がみえる※1。五穀豊穣に言寄せる理想的天皇を仰いで御製に仕立てたというのがおおかたの見方だ。

ただ歌の内容はこの際どうでもいい、問題は百人一首の一番歌になぜ天智天皇を採ったかということだ。
百人一首を歌人のベストと考えれば柿本人麻呂から起こるのがまっとうだろう。事実中古に編纂された「三十六人撰」は人麻呂から始まっている※2。歌の歴史を紐解く意図があれば、三十一文字の起源たる須佐之男命※3こそその人だろうし、万葉集に最古の歌を残した仁徳天皇妃の磐之媛命※4だって候補に挙がる。また当代の人気を勘ぐれば、新古今に最多入集しかの後鳥羽院に「生得の歌人」と言わしめた西行の威光もまだ強くその候補足り得るだろう。
しかしそれでも彼ら歴史的歌人を採らず、定家はなぜに天智天皇を第一番に採ったのか?

それは百人一首が「平安王朝の栄光盛衰の物語」※5であるからだ。

山背の地に都を築いたのは桓武天皇であるが、その父光仁天皇の祖父こそ天智天皇であった。実は光仁の前代までは天武系の皇統が続いており、光仁の即位は皇統がおよそ百年ぶりに天智系に回復したことを意味する。その実当時の貴族連中はこれを日本版の革命と捉えたのだ。
革命王朝の太祖たる天智天皇。王権を他豪族から超越する絶対的な地位に押し上げ、天皇を中心とする律令国家、平安王朝の礎をなした張本人、それこそが天智天皇という人物であったのだ。

鎌倉時代になってもこの史観は絶対であり、だからこそ定家は平安王朝の歴史物語のはじめとして当たり前に天智天皇を据えた。裏を返せば天智天皇から起こるという歌集から芬々と湧き立つこの匂いを嗅ぎとらねば嘘になる。

あらためて言おう、百人一首とは「平安王朝の栄光盛衰の物語」なのである。

※1「秋田刈るかりほを作り吾が居れば衣手寒く露ぞ置きにける」
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(書き手:和歌DJうっちー)

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