梅が香を袖にうつしてとどめては春はすぐともかたみならまし(よみ人知らず)

花は散る、春はゆく。それでも花を、春を留めたい。思いはわかる、だがそんなことができようか? ある歌人は答えた、「できる!」と。『香を残すのだ、わが袖に梅の香を。さすれば春は過ぎても、思い出として残しておくことができる。た...

くるとあくとめかれぬものを梅花いつの人まにうつろひぬらむ(紀貫之)

四季はうつろふ。咲いた花は散る、当然のことわりである。でも、いやだからこそ花を惜しむ心はいっそう燃えるのだ。暮れても明けても、目を離さず見ていた梅の花。作者は鑑賞ではなく監視の域に達しているようだ…、にもかかわらず! 花...

峰の霞ふもとの草のうすみどり野山をかけて春めきにけり(永福門院)

京極派の歌はつとめて明るい、そして分かりやすい。『山の峰には霞がかかり、麓には薄緑の若葉が萌えだして、野山いっぱい春めいてきた!』。思わずインスタに投稿したくなるような、誰もが共感できる美しい景色、これが京極派という新風...

照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき(大江千里)

新古今がなかったら、日本の四季はもっと単調だったかもしれない。後鳥羽院は秋ではなく春の夕べを発見し、定家は同じくおぼろ月に情趣を得た。 『はっきりしない春のおぼろ月夜は最高だ!』、白楽天の「不明不暗朧朧月」をほぼ直訳した...

酒杯に梅の花うかべ思ふどち飲みてののちは散りぬともよし(大伴坂上郎女)

新古今集が好きな人は万葉集も好むが、万葉集が好きな人はたいてい新古今を相手にしない。私の思い込みかもしれないが。さて、ひとえに和歌と言っても、当然ながらさまざまな歌風・表現がある。『花見だ花見、酒もってこんか~い! 死ぬ...

梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ(藤原定家)

これまでの梅歌をつうじて、詠み方の傾向というものが掴めただろう。匂いの風雅さらに雪や鶯との取り合わせ、実のところ梅に限らず和歌では、ひとつのモチーフに対してそれがもっとも美しく映える場面が規定されているのだ。ちなみに桜の...

春ごとに心をしむる花の枝にたがなほざりの袖かふれつる(大弐三位)

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があるが、これはなにも袈裟(=モノ)に収まらない。憎ったらしいその人を連想するのなら、「匂い」だって苦々しい存在となるだろう。それが優雅な梅の香りであっても。 今日の歌は、昨日の定頼...

見ぬひとによそへてみつる梅の花散りなむのちのなぐさめぞなき(藤原定頼)

親父がすごければ、二世もすごい! といかないのが世の習いだ。かの大納言公任は偉大な古典を遺したが、その長子定頼が伝えたものといえばチャラ男のお戯れエピソードくらい。周知は百人一首の六十番「大江山※」だろう、小式部内侍にピ...

わが宿の梅の盛りにくる人は驚くばかり袖ぞ匂ほへる(藤原公任)

今日の詠みびと藤原公任、彼は平安時代中期を代表する文化人である。拾遺和歌集の元となった「拾遺抄」、後に三十六歌仙として知られる「三十六人撰」を編纂。後世の日本文化に多大な影響を与えた、和歌と漢詩(適句)のコラボ撰集「和漢...

春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる(凡河内躬恒)

日本の春を飾る花、「梅」と「桜」。和歌において、このふたつの詠み方は似ているようでまったく違う。その端的な表れが「香り」だ、梅はこれをひとしきり詠むが、桜はほとんどそうしない。なかでも今日の歌は香りの印象がバツグンだ。『...

ひとり寝る草の枕のうつり香は垣根の梅のにほひなりけり(西行)

「枕に残る、梅の移り香」。ここだけを切り取ると妖艶な後朝(きぬぎぬ)の歌ように思える。しかし事実は、相手を欠いたわびしいひとり寝。梅の香りは、主も知らぬ垣根の花の匂いが移った故であった。詠み人は西行、言わずと知れた流浪の...