おのづから涼しくもあるか夏衣ひもゆふぐれの雨の名残に(藤原清輔)

『いつの間にか涼しくなってきたようだ。夏衣の紐を結う、夕暮れの雨の名残で』。上下が倒置されているが、なんということもない歌だ。少しの違和感があると思うが、それは「夏衣」の縁語として選ばれた四句「紐結ふ」に発する。ご理解の...

庭のおもはまだ乾わかぬに夕立のそらさりげなく澄める月かな(源頼政)

なぜに定家は頼政をかの百人一首に選ばなかったのだろう。今日の歌はそこいらの歌人では決して詠めない秀歌である。『夕立に濡れた庭はまだ乾かぬままに、空には澄みきった月が昇っている。あぁ美しい!』。情景の切り取り方もさることな...

風はやみ雲のひとむら峰こえて山みえそむる夕立のあと(伏見院)

『風が速いのでもはや雲の一群は峰を越えたようだ、山の頂が見えはじめる夕立のあと』。伏見院の夕立の歌、昨日の式子内親王と比べるとあさっりとしていて、さすが純写生歌の旗手といった風だ。どちらが優れているか、問われれば私は式子...

夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声(式子内親王)

いい歌というものは、詠まれた情景がすんなりイメージできる。しかしそれだけでは世々に語り継がれる名歌とはならない。そこには「あはれ(感動)」が必要なのだ。ところで感動とは「心が動くこと」である、だから決まってセンチメンタル...

衣手に涼しき風を先立てて曇りはじむる夕立の空(後鳥羽院宮内卿)

『袖に吹き添う涼しい風を先立てて、空は慌てて曇り始めた。夕立が、もうすぐ降る』。誰もが感じたことがあるだろう、夕立の直前、空気が変わる瞬間を捉えた風景歌だ。しかし誰でも経験がある平凡を「歌」にするのは案外難しい、単なる日...

立ち上り南の果てに雲はあれど照る日くまなきころの大空(藤原定家)

昨日に続き、真夏の定家である。『水平線の彼方、南の果てにはどでかい入道雲。あいつはそこに居直って、ほとんど動かない。今日も真夏の太陽がジリジリ照りつける』。これは和歌だろうか? おぼろな水墨画の陰影、これこそが和歌の美で...

行きなやむ牛のあゆみに立つ塵の風さへ暑き夏の小車(藤原定家)

今日の一首はそれだけで、玉葉集のそして藤原定家という人のチャレンジングな面が分かる。『歩くのも苦労する牛の足取りに、立ち起こる塵の風までも暑い夏の小車よ』。まず牛車を扱っただけでも新しさがあるが、新奇性の心眼は「夏の暑さ...

一重なる蝉の羽衣夏はなほ薄しといへどあつくぞありける(能因)

今も音楽シーンに多様なブームが起こっては消えるように、かつて和歌にも様々な歌風の流行があった。古今、新古今などはそういった視点で語られることも多いが、これらの間を埋める泡沫勅撰集にこそ、多種多様なブームがあったことを知っ...

空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらの懐かしきかな(光源氏)

空蝉(蝉の抜け殻)というモチーフは好んで恋の場面に用いられた。昨日のケースでは魂が抜け出た無気力状態に譬えられていたが、今日は身代わりのまさに抜け殻として使われている。ご存じであろう、源氏物語の第三帖空蝉だ。世に言う「雨...

うちはへて音を泣きくらす空蝉のむなしき恋も我はするかな(よみ人知らず)

心身二元論をご存じだろうか? 「我思う、ゆえに我あり」の文句で知られる17世紀の哲学者ルネ・デカルトが唱えたとされるが、要するに心と体はそれそれ独立した存在であるという考えだ。ちなみに二元論を西洋的、一元論を東洋的とする...

夕立ちのまだ晴れやらぬ雲間よりおなじ空ともみえぬ月かな(俊恵)

『夕立の後のまだすっきり晴れていない雲の間から、同じ空にあると思えない明るい月が見える』。詞書には「雨後月明といへる心をよめる」とあり、題詠だとわかる。とすると、なるほど題をなぞっただけの歌ではないか。しかしそれでも見ど...