駒とめて袖打ち払ふ影もなし佐野の渡りの雪の夕暮れ(藤原定家)
『馬をとめて袖に積もった雪を払う物陰もない。雪が降り続く佐野の渡し場の夕暮よ』。馬を引き連れた雪中の旅、一幅の水墨画のように静かなるモノトーンが描かれている。しかし惜しむらくは結句、「夕暮れ」である。この旅愁が特に夕暮れ...
『馬をとめて袖に積もった雪を払う物陰もない。雪が降り続く佐野の渡し場の夕暮よ』。馬を引き連れた雪中の旅、一幅の水墨画のように静かなるモノトーンが描かれている。しかし惜しむらくは結句、「夕暮れ」である。この旅愁が特に夕暮れ...
『ゆく先の道は雪の吹雪に遮られてしまって、まるで雲の中を手探りで進むようだ、滋賀の山越えは』。今日の為兼も旅路の雪だが、降雪の量ではなく吹雪の厳しさが歌われている。しかし随分柔らかいのは風雅集の個性だろう、「雲に分けいる...
雪はその暴力を休めない、今日の歌にも豪雪の風景が描かれている。『雪が降って谷を渡す架け橋が埋もれてしまった。木々の梢が辛くも冬の山路を示す』。昨日は計り兼ねたが、今日の積雪は確実に枝の高さまで到達している。こうなっては谷...
今日の歌にも吉野の雪が詠まれている。しかし先日の初雪の風景とは随分様子が変わってしまった。『見渡してみると松の葉まで白く埋もれている。いったい幾夜、吉野山に雪は降り続けたのだろう』。松葉に雪がこんもり乗っかっている風景に...
昨日、一昨日で分かるように和歌で「折れ伏す竹」とは降雪の甚だしさを象徴する。実はこの発想、比較的新しく玉葉集のころ盛んになった。実のところ「竹」自体が和歌の当たり前の風景となったのが玉葉集といえよう。加えて今日の歌、なん...
『雪折れの竹に覆われた野のはずれ、人が通ったような足跡もない場所から煙が上がっている。ああ、あのような辺鄙なところにも人が住んでいるのだ』。定家には珍しく隠遁風雅を詠んだ歌、しかし本人はあくまでも都人で隠者の生活を好奇の...
山里の夜、降る雪は音もなくそれこそ“しんしん”と積もる。朝起きたら見紛うばかり一面銀世界なんてのはよくある光景だ。ただそれを喜ぶのは子供あるいは雪が珍しい都会者くらいで、土地の生活者には苦難の季節の始まりとなる。「呉竹の...
『近頃は花も紅葉も枝にないな~、だからもうちょっと消えないでおくれ松の白雪よ』。趣向は単純、松の枝の雪を花に見立て虚しき冬を暫く飾ろうというものだ。しかしこの歌、どこかで聞き覚えがないだろうか、そう定家の夕暮れの一首※で...
『雪が消えるのを都の人は惜しむだろうか? 今朝も山里には払ふほどの白雪が降る』。これまで「雪」を当然のように美の対照として捉えてきた。しかしどうだろう、雪は月や花とは全く違うはずだ。例えば一茶の俳句※を見よ! 積もれば積...
冬の大井川を歌に詠んだらどうなるか、それが今日の歌だ。さすがに紅葉はとうに果て、雪に埋もれた葦と川浪に漂う塊となった雪が見えるばかり、特段面白い様子にも思えない。単なる写生であろう、しかし写生がそのまま歌にはなりえない。...
『月は森の梢に傾くまでになって、薄雪が白く光る夜明けの庭』。月と雪、冷冷たる冬の組み合わせであるが、永福門院が歌えば柔らかくほの暖かさえ感じてしまう。それは薄雪と有明のしわざだろう、まだ冬になり切れていない薄積もりの庭、...
式子内親王の雪である。彼女は新古今時代の歌人ではあるが、その歌風は当時趨勢を得たシュルレアリスムとは距離を置く。どちらかというと後のムーブメント、玉葉・風雅の写生歌に通じるといえよう。しかし純写生歌という風でもなく今日の...
時代は一気に下って元禄十四年三月十四日、江戸城松の廊下にて赤穂藩主浅野内匠頭が幕府高家の吉良上野介を斬りつけた。吉良は死にはしなかったが、加害者たる浅野は切腹となりお家も断絶。そもそも吉良の嫌がらせに耐えかねた浅野の行動...
その日記を読んでも分かるが、紫式部という人は常に鬱々としていたようで歌にも気分がそのまま表れている。彼女の歌の評価が低いのはいかにも和歌らしい四季や恋を詠まなかったからであろう、どうにも陰鬱でこちらの気分まで滅入ってしま...