【百人一首の物語】八十四番「ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞいまは恋しき」(藤原清輔朝臣)
八十四番「ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞいまは恋しき」(藤原清輔朝臣) 藤原清輔は七十九番の顕輔の次男。父亡き後に六条藤家を継ぎ、前歌、御子左家の俊成とは宮廷歌壇のライバルとしてしのぎを削りました。その...
八十四番「ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞいまは恋しき」(藤原清輔朝臣) 藤原清輔は七十九番の顕輔の次男。父亡き後に六条藤家を継ぎ、前歌、御子左家の俊成とは宮廷歌壇のライバルとしてしのぎを削りました。その...
八十三番「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」(皇太后宮大夫俊成) 俊成といえば言わずもがな平安末期歌壇の重鎮、後白河院の下で「千載和歌集」を撰進し、後鳥羽院の下では「千五百番歌合百首」などを詠進するなど...
八十二番「思ひわびさても命はある物を憂きにたへぬは涙なりけり」(道因法師) 「つれない恋に思い悩みながらも、それでも生きながらえている私は、つらさに堪えきれずしぜんと涙が流れます」 歌にある「わぶ」は、今ではほとんど「...
八十一番「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる」(後徳大寺左大臣) 「ほととぎすが鳴いている方を見たら有明の月があった」。なんのひねりもない、ただそれだけの歌です。題は「暁聞郭公(暁に郭公を聞く)」という...
八十番「長からむ心もしらず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ」(待賢門院堀河) 作者の待賢門院堀河はその名が表すとおり、鳥羽天皇の中宮である待賢門院璋子に出仕した女房です。院政期の代表的な女流歌人で「久安百首」の作者にも名...
七十九番「秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ」(左京大夫顕輔) 崇徳院歌壇の代表格が、この左京大夫顕輔こと藤原顕輔です。彼の家は「六条藤家」といって、父...
七十八番「淡路嶋かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚ぬ須磨の関守」(源兼昌) 七十六番から崇徳院歌壇ゆかりの歌人が採られ、顕輔、堀川らへと続いてくのですが、その中ほどにこの源兼昌が置かれているのは、ちょっと理解に苦しむ配列です...
七十七番「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」(崇徳院) 平安末期の激動のそのど真ん中にいたのがこの崇徳院です。皇室、摂関家そして武家勢力入り乱れての内乱、「保元の乱(1156年)」で前の七十六番忠通...
七十六番「わたの原こぎ出でてみればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波」(法性寺入道前関白太政大臣) 定家とはじつに意地の悪い人間のようです。前の七十五番でご紹介した“あはれな男”の次に、その当事者たるボスの藤原忠通(法性寺入...
七十五番「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり」(藤原基俊) 暮れゆく秋のわびしそうな情景が詠まれていますが、実のところこれは「秋(四季)」ではなく「雑」の歌です。この歌を理解するためには、採られた千載集...
七十四番「憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを」(源俊頼朝臣) 源俊頼は七十一番の源経信を父に持ち、子に八十五番の俊恵がいます。百人一首に親子ペアは相当数(18組)ありますが、親、子、孫と三代で採られ...
七十三番「高砂の尾の上の桜さきにけり外山の霞たたずもあらなむ」(前権中納言匡房) 「遠くの山に桜が咲いた、近くの山の霞よどうか立たないでおくれ」。 遠景の山の桜と近景の霞を対照させたいわゆる長高い歌、和歌らしい模範的な...
七十二番「音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ」(祐子内親王家紀伊) 詠み人は祐子内親王家紀伊、名前の冠が長いほど偉いのが男性でしたが、女房の場合はたんに所属が記されているだけです。ただ前代までは清少納言...
七十一番「夕されば門田の稲葉おとづれて芦のまろやに秋風ぞふく」(大納言経信) 前の七十番に続いて「秋の夕暮れ」の情景です、しかも同じく美しくて寂しい秋の夕暮れです。 「夕方になると門田の稲葉がそよそよと音を立てて、ああ、...