秋の夜は山田の庵に稲妻の光のみこそ洩りあかしけれ(伊勢大輔)
雷を別名「稲妻」と呼ぶが、これの理由をご存じだろうか? 辞書を引くと古来、稲妻は「稲夫」と記し雷の光によって稲が実るつまり“稲が妊娠”するという信仰があったらしい。ちなみに本来「妻」も「夫」また「端」も自分から見て他端で...
雷を別名「稲妻」と呼ぶが、これの理由をご存じだろうか? 辞書を引くと古来、稲妻は「稲夫」と記し雷の光によって稲が実るつまり“稲が妊娠”するという信仰があったらしい。ちなみに本来「妻」も「夫」また「端」も自分から見て他端で...
ちょうどひと月くらい前、私たちは西行による名月賛歌の数々を鑑賞した。伝説の歌人西行が寄せる、月への並々ならぬ愛情をひしと感じたことだろう。ところがである、その中秋の名月をも越えて彼が心酔するものが他あった! なんとそれは...
さて、さまざまに秋の虫の鑑賞してきたが、いずれにも和歌らしい類型化された様式がはっきりと見て取れた。これは西行のように規定の枠を超えた歌人にとってはどうでもいい話だが、柵の宮廷歌人にはいかんともしがたい問題だったのである...
『鳴けや鳴け! 蓬が茂って荒れ果てた杣山のきりぎりすよ。過ぎ去って行く秋はこんなにも悲しいのだ』。「きりぎりす」という名はどうにも言葉遊びが出来なかったらしい、ほとんどの和歌では素直にその音色が詠まれている。ただ今日の歌...
今日ご紹介する秋の虫は「すず虫」だ。童謡「虫のこえ」にもある「リンリンリン」とまさに鈴のような美しい音色は並みいる虫の中でも随一だろう。ちなみにまつ虫は「チンチロリン」、こおろぎは「キリキリキリ」、「スイッチョン」は何だ...
秋の虫、今日は「まつ虫」である。さて、よく古典文学では今の「まつ虫」は「すず虫」を指し、「まつ虫」こそが今の「すず虫」であると言われる。率直に言おう、どっちでもいい。では一緒くたにしても良いのかと問われればそれは困る、和...
枕草子にこんな一文がある。『虫は、すず虫、ひぐらし、蝶、まつ虫、きりぎりす、はたおり、われから、ひお虫、ほたる』。清少納言が「グッとくる」虫の名を挙げたものだが、ここに見える大半は秋の夜、儚げに鳴く虫たちだ。 「すず虫」...
「鹿」を題材に、和歌の類型とそれを克服しようという試みを鑑賞した。しかしそのもがき苦しみはかえって和歌を袋小路に迷わせてしまったように思える。どうすれば岩盤のように存在する「伝統」を打破できるのだろう!? 『うちの小屋の...
昨日は典型的な鹿の歌をご紹介した。その上で和歌の類型化に対して、古の歌人がいかに挑んだかをご覧に入れよう、俊恵である。『嵐吹く葛一面の野原で鳴く鹿は、葛の葉裏を見たかのように、恨みながらも妻を恋続けているのだろうか』。分...
今日は古今集から「よみ人知らず」による「鹿」の歌をご紹介しよう。『人影ない奥山で紅葉を踏み分けながら鳴く鹿の、その声を聞くと秋の悲しさが募る』。この歌にある和歌の約束事は明白、一つ「鹿は(奥山など)独りで鳴く」、決して奈...
『夕方になると野辺の秋風が身にしみる。あぁ深草の宿で鶉が鳴いているよ』。鶉というと今の人はまず卵を思い浮かべるかもしれないが、その鳴き声といえば鶏ほどではないが割にけたたましい。一見すると歌の風情に合わなそうだが、歌の背...
さて、連日三夕の名歌をご紹介してきたが、今日もしつこく秋の夕暮れをご紹介したい、後鳥羽院だ。『想像してみろ! 真柴のとぼそを押し開けて、俺は一人で秋の夕暮れを眺めているのだぞ』。「とぼそ」とは「枢」と書く、まあ要するにボ...
三夕のトリは定家の夕暮れである。おそらく三首のうちでもっとも知られているのがこれだ。言葉だけを追えば『何もない粗末な風景の方が情趣がある』といういわゆる「わび・さび」の表明であり、この「あるがままの美」がわび茶の方面で多...
三夕の二首目、今日は西行の夕暮れだ。適訳の必要などまったくない単純な歌、悪くもないがそれほどのものか? この歌の価値はやはり、詠み人が西行であるということに尽きる。知られるように西行は武士でありながら若くして仏門に入った...