明石潟うらぢ晴れゆく朝凪に霧に漕ぎいる海人の釣船(後鳥羽院)
源氏物語以後、須磨そして明石と言えば屛居の地としてイメージが決定的となり、歌にも詫びれた情景が多く詠まれるようになった。『明石潟の浦べの道から、朝凪の霧に漕ぎ入る漁師の釣り船が見える』、主観的な感情を全く廃して純写生とい...
源氏物語以後、須磨そして明石と言えば屛居の地としてイメージが決定的となり、歌にも詫びれた情景が多く詠まれるようになった。『明石潟の浦べの道から、朝凪の霧に漕ぎ入る漁師の釣り船が見える』、主観的な感情を全く廃して純写生とい...
今日の歌はいかにも三代集らしいユーモラスな歌だ。梓弓は「入佐山」の枕詞、入佐山には「射る」が掛詞になっており、霧が「当たる」の縁語を導く。ちなみに入佐山という歌枕は兵庫県豊岡市の此隅山と伝わるが定かでない。さてこれを適役...
新古今的シュルレアリスムの極点がこの歌かもしれない。作家活動のクライマックスを迎えた定家が「千五百番歌合」に詠進し、新古今に採られた一首である。『つがいと離れて独り寝る山鳥の長くしだれる尾に、霜が置いているように床に月影...
式子内親王が詠んだ「擣衣の心」をご紹介しよう。『何度も繰り返し打つ砧の音に夢から醒めて、もの思いに濡れた袖の涙も砕ける』、昨日の宮内卿の歌と同類の趣向、やはり砧の音は女性にとって憂いの象徴であるようだ。しかし今日の方がい...
『まどろみから覚め眺めろと大きくなるのか、月に届かんとする麻の衣を打つ音』。若い感性には砧の風情は届かなかったのだろうか? 今日の歌では衣を打つ音がまどろみを許さぬ不快な目覚ましのようにも受け取れる。 しかし昨日もそうで...
アイロンという製品がなかった時代、洗濯物のシワを伸ばすにはどうしたか? 棒や槌で叩いたのである。これを「砧(きぬた)」といい、古典和歌ではその情景が多く詠まれた。いや棒を詠んだのではない、砧で衣を打つ音、それが秋の夜長に...
正直申し上げて新古今のなかでも新古今たる歌に解釈を与えるのは腰が引けていた。しかしこれらがシュルレアリスムの作品であると分かってから、ようやく面と向かう心構えが出来た次第だ。 さて今日の歌、『秋風が袖に吹き巻いている峰の...
昨日の流れで今日の歌を見れば、内容はほとんど理解できると思う。ひとつ解釈を助けるとしたら「雁の涙は色もなし」の件であろう。昨日に戻ってなぜ「雁の涙が野辺を染める」のか考えると、これは雁が悲嘆にくれた「紅涙」を流すからだ。...
古今集にはこんな雁の風情も歌われている。『秋の夜露はそれとして、雁の涙も野辺を染めているのだろうか?』。この歌を理解する前にひとつ質問をしたい、秋になると野辺に咲く草花が色々に染まるが、これは如何なる仕業によるものか? ...
さて、実のところ昨日紹介した慈円の雁は新しい趣向である。和歌の雁と言えば今日のような詠みぶりが常套だ。『秋風に乗って到来した雁の音が聞こえる! だれの玉梓(手紙)を携えて来たのだろう?』、ポイントは二つ。ひとつが“雁の鳴...
「雁に月」、歌川広重の浮世絵でも有名なこの取り合わせはいつ固定化されたのだろう、少なくとも八代集においては見つけるのに難儀する。 今日の歌は慈円、新古今集で見つけた一首だ。『大江山の尾根へ向かっ沈んでゆく月の光は冴えて、...
「松風」は昨日鑑賞したような侘しき情景と「待つ」という語が掛けられることから、恋歌で用いるのが適当だ。今日の詠み人は藤原良経、寂寞の余韻を歌わせたら並ぶものがいない名手による、恋の松風をご紹介しよう。 『待ちぼうけに堪え...
三代集の四季にはほとんど登場せず、千載、新古今集になって好んで詠まれるようになったものには大抵これが影響している、源氏物語だ。「夕顔」「葵」「蛍」そして今日の「松風」、これら古今集などではお目に掛かることがなかった景物が...
『稲穂を吹き返す一陣の風。今にも刈り取られんばかりの豊かな田園はずっと先まで続いていて、(私の旅路に色を添えてくれているようだ)』。風もそして心まで晴れやかな秋の羇旅のワンシーンを思い起させる歌、詠み人は阿仏尼である。た...