うぐひすの谷よりいづるこゑなくは春くることをたれかしらまし(大江千里)

レノンといえばマッカートニーであるが、梅といえば「うぐいす」なのである。この抜群の取り合わせははやくも万葉集にみえる。このような景物の定型化は漢詩に由来することが多い。漢詩でも梅にうぐいすは常套であり、とくに杜牧の七言絶...

松の葉の白きをみれは春日山こもめもはるの雪ぞふりける(源実朝)

松の葉にかかる白いものを見ると、あぁ春日山に春の雪が降っているなあ。木の芽も張って。という歌である。芽が「張る(つぼみが膨らむ)」と「春」の掛詞が見えるが、ほとんど凡庸な歌である。ところでこれには本歌がある。「霞たちこの...

さはに生ふる若菜ならねどいたづらにとしをつむにも袖はぬれけり(藤原俊成)

沢に生える若菜ではないが、むだに年をつむ(摘む、積む)ほどにこの袖は濡れちまったよ。どこのジイさんの歌だろうか? 実はだれあろう、定家の父、藤原俊成である。新古今に採られた歌だが、息子の耽美な歌と比べるとどうにも野暮った...

はるの野にすみれつみにと来しわれぞ野をなつかしみひと夜ねにける(山部赤人)

古今集と新古今集には300年の間隔があるが、そこに文化違いはほとんど見られない。しかし古今集と150年の間隔しかない万葉集との間には、人間が違うんじゃないかと思うほどの隔たりが見られる場合がある。その主な現象が言葉であっ...

やまざくら霞のまより ほのかにも見てしひとこそ恋しかりけれ(紀貫之)

似ている。。「山桜」を「若菜」に、「霞」を「雪間」に置き換えてみてほしい。昨日紹介した忠岑の歌と全く同じ構成ではないか。しかしそれでいて、歌から受ける印象は異なる。それが効いているのは「山桜」であろう。この貫之の垣間見の...

かすがのの雪間をわけておひいでくる草のはつかに見えしきみはも(壬生忠岑)

恋がはじまる季節といえばいつだろう。情熱燃え盛る夏、感傷深まる秋、ゲレンデのアバンチュール冬。どれも違う。どう考えたって春じゃないか。この歌は春、運命的な女性との出会いのシーンをとらえた歌だ。雪の間から生えくるあの若草の...

ひき別れとしはふれどもうぐひすの巣たちしまつのねを忘れめや(明石の姫君)

昨日ご紹介した歌は母(明石の君)からの贈答歌であったが、これはその娘(明石の姫君)からの返歌である。ちなみに両歌とも主題は「まつ(松と待つ)」である。よって縁語として「引く」が得られるのだが、これは当時の貴族が年始の初子...

年月をまつにひかれてふる人にけふうくひすの初音きかせよ(明石の君)

初音といえばミクだろう、まったく同意する。しかし、こと古典に至っては違うものを連想しなければならない。それが源氏物語で詠まれたこの「うぐいすの初音」歌である。春を心待ちにする歌の裏に、出自の貧しさゆえに実の娘に合うことが...

いづる日のおなじひかりによもの海のなみにもけふや春はたつらむ(藤原定家)

なるほど、凡作である。波と春が「立つ」という、“立春歌あるある”で構成された、ほとんど見どころがない歌である。しかしこの歌の作者はだれあろう、かの藤原定家卿なのだ。所収は初学百首、御大二十歳の作とはいえ、後の巧みな狂言綺...

ふる雪のみのしろころもうちきつつ春きにけりとおどろかれぬる(藤原敏行)

後撰和歌集の一番歌である。まず思うのが、華の一番歌をなぜに敏行が? である。私のつたない古典知識では、彼の歌人としての実績がさほど思いあたらない。だいたい「おどろかれぬる」なんていう、便利な言葉をを安易につかいまくってる...

→「令和歌合せ(卯月の会)」4/28(日)9:50~11:50